大阪水曜ほっと集談会一世です。
時々40代くらいの女性が、後期高齢者の母親の手を取って介助している光景を眼にする。
コロナ禍以前は、電車やデパートなど様々な場所でよく見かけたものだ。
TVCMでもそのようなシーンを観る。
私は特に母親と娘の関係は、色々な意味で特別な気がする。
それは私が、二人の娘の父親でもあるからだ。
以前12年間も単身赴任生活をしていた。
当然家庭は、女性ばかりの世界である。
当時飼い犬まで雌であった。
当然居場所がない!
オヤジは、いてもいなくても良い。
ほっといてくれ!
ところで最近、「家族という病」・「母という病」という二冊の本を読んだ。
とても興味深い内容であった。
母なるものは、時に私たちを愛し、保護すると同時に束縛や規範の一面を持つ。
兎角日本人は、欧米人に比べて家族関係を情緒的に捉えやすい。
私はずばり、その事が様々なかくあるべしを生むひとつの要因であるとも思う。
以下二冊の本から学んだことを要約させていただく。
母性を育み、母子の愛着を生み出す源には、オキシトシンと呼ばれるホルモンが関係している。
このホルモンが陣痛の最中に大量に分泌され授乳を通して更に持続的なものになる。
注目すべきは、このオキシトシンには、不安を鎮め、心地よさをもたらす働きがある。
このオキシトシンの分泌が悪かったり、オキシトシンと結びつくはずの受容体の数が少ないと不安を感じやすく、神経質で潔癖になるだけでなく、人との接触や子どもの世話をする事にも歓びを感じにくい。
とらわれやすく極端になりやすい性格は、このオキシトシンの働きとも関係している。
私は、学者ではないので正直よくわからない。
しかし集談会で語られる様々な不安やとらわれの背景には、親子関係は無関係ではないと思う。
私自身、親への「こうしてほしかった」という思いは今でもある。
しかし私自身自分の子育てを振り返ると、残念ながら反省ばかりである。
子どもに、心の安全基地を与えられなかったという無力感はある。
親も完ぺきな人間などではない。
それも事実として受け入れるしかないのだろう。
以前集談会で、森田療法は過去を問題にしないと聞いたことがある。
事実かどうかは別として、私はこう思う。
半分は、過去や自分以外の責任にして半分は自分で引き受ける。
過去がどうであれ、どんな家族であったとしても、今の自分からスタートする。
それでよいのではないか!
2021・8・29 一世
参考文献
※家族という病 下重 暁子氏著 幻冬舎新書
※母という病 岡田尊司氏著 ポプラ社