大阪水曜ほっと集談会一世です。
今日は、仕事が休みでコメダ珈琲店で1時間ゆっくりしました。
クリームソーダを美味しそうに飲んでいる可愛いお子さん2人の家族連れを見ていると、心が和みます。
夏休みの光景ですね。
さて、お盆が近くなると妙に心がざわつく私です。
生きている人間よりも、亡くなった親族や友人に思いを寄せます。
先月も2歳下の幼馴染の訃報が届きました。
個人的な事ばかり書きますが、大阪にゆかりのある話です。
ご容赦いただきたい。
本日は、30年前に57歳で他界した大阪の伯父の命日です。
告別式の事を鮮明に覚えています。
灼熱の外気が嘘のように、当時冷房の効いた大阪の葬儀の専門会館で伯父を見送りました。
ユーミンの楽曲である卒業写真がオルゴール曲に編曲され流れていたことを想い出します。
今は、故人の好きだった音楽を流したり好きだった花や趣味の品で祭壇を飾ったりするオリジナル葬が珍しくはありません。
当時は稀でしたから、びっくりしました。
死期を悟った伯父が、自ら予約した場所でした。
最後まで、気配り心配りを欠かさない伯父でした。
そういえば、ユーミンの海を見ていた午後という楽曲を思い浮かべました。
その中にソーダ水の中を貨物船がとおるという斬新な表現があります。
可愛いお子さんのクリームソーダとユーミンの楽曲が不思議と重なります。
話は変わりますが、最近は自宅で亡くなり最後の別れをすることはありません。
私が子供の頃はまだ自宅で亡くなるお年寄りが、かなりありました。
色々な意味で、人間は必ず亡くなるということを、子供ながらに感じていました。
ところが現代ではどうでしょうか?
コロナ禍では、最後まで対面することなく愛する人を見送ることが現実に起きています。
昨日ご紹介した大河の一滴の中で五木寛之氏は、死というものが、社会から覆い隠されて抽象的な死というものだけが、独り歩きしている。
それが、自己の命の重さ、他者の命の重さを感じることを阻み死の実感を喪失させる原因のひとつかもしれないと述べられています。
私たちは、もはやお盆に家族が集まり墓参りや仏壇に手を合わす行為が当たりまでない時代を生きていると感じています。
お盆を前に亡くなった祖父母や伯父そして弟と心の会話を交わすことは、普段生きることに急ぎすぎている私に何かを伝えようとしてくれているのではないか?
そんなふうに感じる日々です。
2021・8・10 一世