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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

得るものも失うものも無き我れに
何を恐れん我れ神の中

「御垂訓」

2018-07-17 02:57:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


     講演 一
 
「大宇宙大自然界に意識あり」
目に見ることのできないこの大宇宙にも、
大自然界の中にも意識があり、
意識によって統一され、動かされています。
「意識は大宇宙体を支配し 
万象万物をして調和の姿を示さん」
意識は、大宇宙を動かし、
支配している力のことですね。

大宇宙を支配し、地上の万象万物を育んでくれる
大自然の力、しかもこの力はすべてのものをして
調和の姿を示していただき、
バランスをとっていただいています。
この力こそが本当の神様なのです。

「万象万物は広大無辺な大慈悲なり 
大宇宙体は意識の当体にして意識の中心は心なり」
意識が形となって現れたものが、この大宇宙です。
そしてそれを動かしている、触れることも、
見ることもできない巨大な力、
巨大なるエネルギーこそが神の御心だったのです。


   ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-16 02:57:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


     講演 一
 
 「転生輪廻の法に従う」
仏教では輪廻転生と説かれており、物理学では循環の法則です。
この法則から何ものも逃れることはできません。
すべては循環の法則に従っています。
さきほどの酸素と二酸化炭素の関係もそうです。
人間や動物が酸素を戴き、二酸化炭素を吐き出し、
植物がその二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出してくれて、
循環しております。

人間の肉体を見ましても、心臓を中心として、
酸素吸収してくれた動脈が、
体のすみずみへ酸素を送ってくれます。
そして静脈が不用品である二酸化炭素を吸収して心臓に持ち帰り、
肺によってガス交換を起こさせて、
また動脈に回してくれるのですね。
これは循環の法則に従って作用しているわけです。
水を見ますと、水は熱作用によって蒸発を起こします。

水(H2O)は液体ですけれど、
その水分は気体になったり固体になったり、
また液体に戻ったりを繰り返しています。
太陽に熱せられて、或いは焚きものによって、
或いはお風呂を沸かして温度が高くなりますと、
液体だったものが気体に変わります。
蒸発を起こして上がっていきますが、
たいへん高いところまで上がりますと、
そこは温度が低いので、水分は固まってきます。

そして上で持ちこたえることができなくなりますと、
下へぱらぱら雨となって落ちてきます。
雨水は川へ流れ海へ渡り、
また蒸発して上がっては下へ落ちてきます。
これも明らかに循環の法則に従っています。
循環の法則、すなわち原因と結果ですね。
仏教で説かれるところの因縁因果の法則です。
原因を作れば必ず結果が現れる、
結果があれば必ず原因が過去にあったということです。


    ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-15 00:54:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


        講演 一
 
  「万象万物相互の作用により」

先の続き・・・
次に、この地上界の姿を見ましても、
すべては相互依存の作用によって
成り立っています。
例えば、空気一つを取り上げてみましても、
動物は空気中の酸素を戴いています。
この肉体の細胞は新陳代謝するために酸素が必要ですから、
動脈の血液が身体の隅々まで酸素を供給しております。
その細胞が働くときに出す二酸化炭素を吐き出してくれています。
吸うことによって酸素をいただき、
吐くことによって二酸化炭素を出しています。

この作用を息ある限り繰り返しているのですね。
ところが、動物ばかりが酸素を戴きますと、
地球上の酸素が欠乏しますが、
有難いことに植物は動物の吐き出した二酸化炭素を吸収して、
太陽の熱・光によって光合成を起こし、自分で澱粉を作りますが、
その過程で今度は酸素が出てくるのですね。
その酸素を空気中に出してくれます。

ですから、植物と動物はお互いに持ちつ持たれつの間柄です。
「あんな草や木のようなもの、
刈っても切り倒しても構うものか」と思っておりますと、
やがて動物は生活ができなくなるのです。
地球の環境破壊による砂漠化現象がよい例だと思います。
人間同士もお互い持ちつ持たれつによってこそ存在を許されます。
自分一人では生きていくことはできません。

ところが、「人はどうなってもいい、自分さえ良ければいい」と、
つい他の人よりも自分を第一にして、
正しい道を知らない時はそのままで生きてきましたが、
人は一人で生きることはできません。
お互いに持ちつ持たれつしながら生きさせてもらうのが、
この世の法則です。

     ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-14 00:52:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


          講演 一
     「万象万物の根元にして」
この宇宙がなかったら、もちろん地球もなければ土もない、
水もない、空気もない、何も存在することはできません。
宇宙の中に地球があり、しかもその地球の中に万象万物の
存在を与えられています。そのすべての根元が大宇宙に
あるということです。

    「万象万物相互の作用により」

すべてはお互いに持ちつ持たれつの法則の中に
成り立っているということです。
太陽系一つ見ましても、地球は自転しています。
これが一回転して、人間の決めた二十四時間です。
地球の一回転を二十四に割ったのが一時間です。
地球は自分で回っていますから、
お日様の当たるほうはお昼で、裏に回ったときは夜ですね。
しかし間違いなしに回転しています。

地球は自分で回りながら猛スピードで太陽の周りを回っています。
その時速は一時間に二万数千キロといいます。
「新幹線はえらい速くなったなあ、
時速二百キロだ」と言ってびっくりしていますけど、
地球の飛んでいる速さは時速二万何千キロという猛スピードです。

しかし有難ことに地球そのものも、
地球をとりまいてくれている大気も全部一緒に飛んでいますから、
私たちは何も感じないでおります。
もし地球がスピードを緩めますと、たちまちくだけてしまいます。
ましてや逆回転などしたら木っ端微塵ですね。
地球が回っているその周りをお月様が回ってくれています。
他の火星も土星も木星も金星も全部回っています。
これは各自勝手に回っているのとは違って、
お互いに目に見えない引力の作用によって回っています。

時計を分解しますと、中にはたくさんの歯車が入っていますね。
この歯車は他の動力によって自分が動くようになっています。
また、自分が動くことによって他を動かしています。
これと全く同じ原理で、
地球も火星も土星も目に見えない引力という歯車に
よって、太陽の周りを回っているのです。


    ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-13 01:04:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


      講演 一

  「広大なる宇宙体は」

先の続き・・・
現在、この地球上にある核爆弾だけで、
地球を何個も破壊してしまうほどの
量があるそうですね。
しかもその爆弾は、人間の考え方に従い、
作戦を練って落とすのとは違うのです。
ボタン一つ押したら、それは無知なる者が押しても、
ポンと落ちて地球を破壊するのです。
危なくてしようがありません。

間違って押したら、もう核爆弾が飛んでくるのですから、
井戸端に赤ちゃんを置いているよりも、
もっと危ないのが今の地球の状況です。
ですから、一人ひとりが自分の心に目覚めて、
このかけがえのない緑したたる地球を、
太陽系でたった一つしか生物の生存が許されていない
大事な地球を、何とか守らなければならないという使命が
私たちにはあるのです。

一人ひとりの心が正しい教えに目覚めた時、
この地球は救われます。
宇宙とは、広大無辺な、果てしないほど大きなものです。
この大宇宙は即我、自分の心が調和され広がりますと、
宇宙は自分自身であったという心境にまで到達するそうです。
高橋信次先生が「宇宙即我」という言葉を
よくおっしゃいましたね。

心というのは広がるのです。
私がある時、禅定させていただいておりますと、
この掌の中にレンズのようなものがキラキラ光って、
「これはいったい何だろうか」と思って見ておりますと、
「大宇宙は我が掌の中にあり」
「宇宙は我なり」と示していただいたことがあります。
しかし人間の心は、
その宇宙さえ越えるほど広大無辺なものです。


     ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-12 00:48:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


                    講演 一

                「広大なる宇宙体は」

この宇宙というのは、いったいどれほどの大きさがあるのか、
皆さんお考えになったことありますか。
例えばここにドッジボールを置いたとします。
そこから十メートル先に小豆よりももう少し小さめのものを置きます。
これが太陽と地球との距離と大きさの関係だそうです。
それほどお日様は大きいのです。

その周囲には、火星、土星、木星、金星など九つの惑星があります。
太陽を中心にして九つの惑星と、三万数千個の小惑星とによって、
この太陽系が成り立っております。
冥王星はドッジボールの百メートル先にビー玉を置いたぐらいの
距離と大きさが太陽との関係になるそうです。
こういう太陽系のような星の集まりが、
二千億個寄り集まって銀河系宇宙を構成しています。

その銀河系宇宙がまた何千億個集まって、
今度は島宇宙をなしています。
さらに島宇宙が何千億個も集まって大宇宙を形作っています。
では、いったいこの宇宙の中にはどれほどの星があるのか、
また私たちが住んでいる地球のような存在が
いったいどれほどあるのでしょうか。
銀河系宇宙だけでも太陽系を含めて二千億個もかたまっているのです。
UFO、すなわち空飛ぶ円盤がよく来ているといわれますが、
あれは他の天体から来ているのだそうです。

太陽系の十個の星の一つに、
私たちの住まわせていただく地球があるのであれば、
十分の一の確率ですから、
銀河系には生物の存在する惑星が二千億個あっても
おかしくありません。
他の惑星から、空飛ぶ円盤に乗って、
この地球を何とか救わなくてはいけないと思って、
今しきりにUFOが訪ねてくれているそうです。

ある先生が講演される時には、
UFOがよく飛んでくると聞いています。
UFOの写真も私のところにありますけれど、UFOは心の清い方、
心の正しい方に、何とかこの地球を救わなくてはいけないと
連絡してくれているそうです。

私には連絡はありませんから、
「だそうです」としか言えないのですけど、
「何とか地球を救わなくてはいかん、
この地球は一人ひとりが自分の心に目覚め、
何とかこの地球を滅ぼさないようにしなくてはいけない、
この地球はかけがえのない大切な場所である」と言っているのです。
一人ひとりが目覚めた時、この地球は救われます。
しかし、今のような状態で自己保存と自我我欲で
人間の想念行為が進んでいきますと、
やがて地球は破壊します。


                  ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-11 00:41:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


       講演 一
  「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」

先の続き・・・
久米田のお大師様のお堂に、
おばあちゃん方が七、八人遊びにきているのですね。
そこで屯して、人の悪口、お嫁さんの悪口の
言い合いをしています。
そこのトイレに行かせてもらいますと、
なんとその汚いこと、もう男便所の
下はおしっこでベタベタですし、女便所に入りますと、
そこらにうんちがあちこち盛り上げてあります。
お参りに来てそんな所で屯しているのだったら、
ちょっとお便所の掃除をしたらよさそうなのものですね。
実践がないのです。

それで、あまりに汚いので一週間に一度、
私たちがバケツとホースと床ずりなど一式を持って
掃除をしに行ったのです。
私と姉と、姉の義弟のお嫁さんなどは、
その山盛りのうんちを新聞紙に包んで捨て、そのあと、
水できれいに洗って掃除をしていたのですね。
ところが今度行きましたら、またいっぱい山盛りに
汚れているのです。

一年くらい毎週日曜日に掃除通いましたが、
これは叶わないと思いまして、
ちょっと嫌味の歌を作って、ベニヤ板に書きまして、
それを便所の入口のところに打ち付けたのです。
御仏の慈悲はここにも満ちあふれ汚れは仏の心悲しき
さあ、それ以後は全くうそのように汚れなくなりました。
この僅かな短い歌の言葉によって汚れないのです。
一度見に行って下さい。
今も板が貼ってあります。

それ以後、お便所は全く汚れておりません。
その後、岸和田のある婦人会の方たちが日を決めて
掃除に行ってくれているそうです。
それまでは、
便所の掃除ということに気付かなかったのですね。
お寺参りをしましても、
皆さんがお寺で拝む場所だけが仏様のおられる場所とは
違うのです。
お便所の中にも仏様の慈悲は満ち溢れています。
お便所は汚いところだから仏様はおられない、
と思うからうんちで汚してしまうのですね。
そして横へ横へ盛り上げて、ちゃんと穴があいているのに、
その横にうんちの山がいっぱいできているのです。
いくらお寺にお参りしても、その行いがなかったら、
百日、千日、仏様の前に坐っても何にもなりません。

それよりも便所が汚れていたら、
自分も使わせていただくのですから、
掃除をして清めてこそ実践です。
私の母は、
「いかにもお前のマジナイはよう効くなあ」と
言って褒めてくれました。
先に掲げたった一つの短い言葉で効いたのです。
それからもう十年近くになると思いますが、
今でもそのお大師様のトイレは綺麗です。

法に帰依するならば、そのように行うことです。
これが「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」です。
正法からはずれた想念、行為、言葉をもって
正法を語っておりましても、これは正しくありません。
正見、正思、正語、そして正しい行いこそがいちばん
大事かと思います。


     ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-10 01:44:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


        講演 一
 「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」
先の続き・・・
よく、この「南無」を付けて拝みますが、
南無妙法蓮華教もそうですね。
蓮華、つまり蓮の花にたとえてお説きいただいた教えが法蓮華教で、
その教えに私は帰依しますというのが南無妙法蓮華教です。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来様に私は帰依しますということ。
南無大師遍照金剛の意味は、「大師の位は弘法が取る」といいまして、
いろいろな高僧といわれる方々が大師の位をもらっておられますが、
空海上人、つまり弘法大師があまりにも有名でしたから、
大師といえばお大師様、弘法大師様の代名詞のように
なっているのですね。

そのお大師様の遍照、つまり遍とは隅々までという意味で、
隅々まで照らすこと。
金剛といえばダイヤモンドの光のことで、
お大師様はあまねく隅々まで、
あのダイヤモンドの光のように照らして下さる、
そのお大師様の教えに私は帰依しますというのが、
真言宗の南無大師遍照金剛です。

南無阿弥陀仏は「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、
一生懸命念仏し、ただ一念、念仏申さば」といって、
その念仏宗にはありますけれども、
これは「ナーモーアーミーダーボ、ナーモーアーミーダーボー」と
唱えられたものです。

アーミーの教えによって陀仏、
つまり悟られたお方に私は帰依します、
教えに従います、というのが南無阿弥陀仏ですね。
アーミーの教えによってお悟りになったのは、
お釈迦様だったのです。
そのお方の教えに従い実践します、というのが南無阿弥陀仏です。
ですから、いくら「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と
お参りして唱えても、行いができていなければ何にもなりません。


     ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-09 00:49:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~

 
       講演 一       
「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」
私たちは今、目で見せてもらい或いは耳で聞かせてもらい、
正しいみ教えを見、
聞くことをして「この正しい教えに帰依することを得たり」です。
「帰依」とは「南無」です。
南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経など、南無が付いておりますけれど、
この南無と言うのは字に書きますと、南が無いと書きますが、
これはインドの言葉では「ナーモ」と言うのです。
そのナーモというのが帰依するいう意味で、
「私はあなた様の教えに従います。
あなた様の教えを素直に、
日々の生活において実践いたします」というのが
ナーモ、つまり帰依するということです。

南が無いと書くのは、ナーモの当て字です。
ですから、百年ほど前に日本で生まれたT教などでも
「南無天理王の命」と言って拝んでいますね。
あれは天理王の命に私は帰依しますと言って唱えるわけです。
南無大師遍照金剛、これは真言宗ですが、
これも頭に「南無」が付いています。
その教えを学ばせていただき、我が目で見せていただき、
我が耳で確かめて聞かせていただき、
そしてその教えを実践いたしますというのが帰依することです。
私たちも正法、この正しい教えを聞かせていただき、見せていただき、
そして実践いたしますというのが、正法に帰依することを得たりです。


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「御垂訓」

2018-07-08 00:51:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


       講演 一

   「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」

先の続き・・・

ある方は言われました。
「お寺さんへ行きますとまるでメニューみたいです。
この戒名だったらいくら、こちらの戒名だったらいくら、
どれにしますか、
と言って見せてくれます」ということですね。
「戒名のメニュー」です。
しかし、いくらいい戒名をつけても、
それは亡くなった方には何の関係もないことだそうです。
亡くなった後では分からないからです。

その証拠に、
私があの世の霊の方と数え切れないほどお会いして
お救いさせていただきました時、霊の方は皆異口同音に
「戒名は何にもならない」とおっしゃいます。
霊を呼び出す場合に戒名で呼ぶと出てきません。
自分のことだと分からないのですね。
俗名を呼んだら出てきます。
常に一番親しい自分の呼び名を覚えているのですね。
ですから、戒名なんか呼んでも出てきません。
そのようになっております。
まず「心行」の冒頭には実践がいかに大事であるかということが
説かれてあります。


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「御垂訓」

2018-07-07 00:47:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


        講演 一
「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」
先の続き・・・
以前に、八百年も地獄に迷っておられる方が出てきました。
その方に「八百年の間に、あなたの子孫の方は
あなたにどれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほどの経文の供養を受けましたか。
それによって救われなかったのですか」と聞きますと、
その霊が言われましたね。「あれは何にもならんのう」と。
「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しくて訳が分からんわい」。

すなわちお経の意味が分からないとおっしゃたのです。
だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
またお茶についても聞きました。「あなたが所望されたら、
子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」と答えられます。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。
その時、「ああ供えてくれたなあ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、
いつまで経っても満足を得ることはできません。
また、供物についても聞いてみました。

「今日までにどれほどの供物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、供物によっても満足は得られなかったと言われます。
戒名などはなを傑作です。
「よき戒名を付けてもらったでしょう」と聞きますと、
「あれは何にもなっておらん」。「どうしてですか」と尋ねますと、
「わしが死んだ後のことはわしゃ知らん」と、こう言われました。
今日のこの会場には、お坊さんはお見えになっておりませんね。
お坊さんの営業妨害になると叱られますので。
「戒名」について、昨夜のテレビで言っていましたね。
「お寺さんの戒名がいくら、お布施がいくらと決めるのは、
これはちょっと宗教上おかしい。
だから宗教法人への税金を考えなくてはいけない」というようなことが、
ニュースとして出していましたね。
まるで商売です。


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「御垂訓」

2018-07-06 02:28:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


       講演 一
「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」
先の続き・・・
霊を慰める「慰霊」、魂を鎮める「鎮魂」また
「浄霊」などがありますが、
「救霊」つまり魂を救い上げるという言葉はあまり
聞きません。
どの宗教でもあまり説いておられませんが、
この魂を救いあげてしまうのがほんとうの供養の目的です。
それが分からなかったから、やれ拝みなさい、供えなさい、
祀りなさい、と教えられるままにしてきたのです。
ある所に寄せていただきますと、
大きなお仏壇の前に枠取りがしてあって、
湯呑みが四十個も供えてあるのです。
その中にお茶をいっぱい入れて毎日供えているそうです。
また、あるお宅へ行きますと、
大きな丼鉢に何杯もお茶を供えてあるのです。

丼鉢にです。
「これは何をしているのですか」と聞きますと、
「ご先祖様にお茶を飲んでもらっています」とのこと。
なるほど大きな丼鉢、或いは四十個の湯呑みをずっと
並べまして、お茶をなみなみと注(つ)いで
供えているのですけれども、
私たちのご先祖様はそんなに少なくはないのです。
というのは、私には私のお父さん、
そしてお母さんがいてくれました。
そのお父さんお母さんには、
またそれぞれのお父さんお母さんがおられるはずですね。
そのお父さんお母さんにも、
またそれぞれのお父さんお母さんがおられます。
そのようにして三代、四代、五代、六代、と
三十一代も溯りますと、十億からのご先祖様になるのです。
わずか三十一代前で十憶を超えるのです。

今、自分が在らせていただくということは、
わずか三十一代前で十憶を超える
ご先祖様のご縁を頂いているのですから、
遠く溯ればもう何十億になるか数えきれないほどの
ご先祖様になって、
いくら大きな丼鉢をもってきましても、とても足りません。
また、どれだけ大きな丼鉢に御飯を盛ってお供えしても、
膨大な数のご先祖様には一粒ずつさえも当たらないのです。
そして肝心なことは、
そんなお茶や御飯を供えることによって成仏は
できないということです。


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「御垂訓」

2018-07-05 00:57:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


                    講演 一

「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」

先の続き・・・

表面の教えでは親に孝行しなさい、
ご先祖を大事にしなさいと説きながら、
実践面では親が反対してもこの教えを広めなさいと説く宗教もあります。
表面の教えで親を大事にしなさいと親孝行を説きながら、
実践面で親に逆らう親不孝をさせていることになりますから、
これでは破壊の実践となり、幸せには繋がりません。

ですから正しい教えというものは、その教えそのものではなく、
日々の生活の実践のなかにその功徳があり
生命が宿るということですね。
どんな宗教も、宗教と名のつくものは全部、いいことを教えます。
夫婦は仲良くしなさい、親に孝行しなさい、ご先祖様を大事にしなさい、
確かにこれはいいのですね。

ところが、仏壇の中にご先祖様が止まる位牌、
つまり先祖様の止まり木を作らなくてはいけないと
教える宗教がありますが、
これは先祖供養のほんとうの意味が理解されていないのです。
もし私たちがこの世を去りまして、
仏壇の中の位牌ようなところに止まってしまいますと、
成仏はできません。
とまり木、そんなところに止まらされたら大変です。

私たちは素晴らしい光り輝く天上の世界、
光明燦然と輝く喜びと安らぎと調和に満たされた世界へ帰ってこそ、
ほんとうの成仏ができます。
それはこの三次元の世界とは全く質と次元の違う世界です。
私たちはその世界から、
この地上の世界へ自分の魂の修行に出させてもらっているのです。

ですから先祖供養といえば、
「拝みなさい、物を供えなさい、護摩を焚きなさい、
いい戒名を付けなさい」と教えられますが、
これはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かということですが、先祖供養の目的は、
ご先祖様にあの光り輝く極楽の世界へ帰っていただくことです。

この世に思いを残しますと、
その思いによって自分の心がその場所にとどまります。
私は死んだら仏壇の中に祀ってもらおうとか、
お墓の中に入れてもらおうと思っておりますと、
必ずその場所に行ってしまいます。
その場所は極楽とはほど遠い場所です。
極楽とは素晴らしい世界であり、その世界へ帰っていただくのが、
私たちが先祖供養をさせていただく究極の目的であるはずです。


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「御垂訓」

2018-07-04 00:47:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


        講演 一
「心行は 宇宙の神理」
まず、このように書き出されています。
この宇宙とはどのようになっているのか、
どのように存在しているのかという
ことを書いていただいているのですね。

「人間の心を 言霊によって表現したものである」
 私たちの心を言葉として書き表していただいたものですから、

「拝むものでも 暗記するものでもなく これを理解し 
      行うものである」
   正しい教えといいますものは、

「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」
   実践がなかったら、どんなに良い教えを受けましても、
これはただ知識に終わってしまいますから、
冒頭にこのことが書かれてあります。

いろいろな宗教の勉強をなさった方もあると思います。
この正法に心から帰依して、今日ここに来ておられる方もあれば、
私はある信仰を持っているのだけれど一度聞きに行こうかと思って
見えた方もあると思います。
しかし本当の正しい法、正しい教えとは、
「その実践のなかに生命が宿る」という点については、
どの宗教においても間違いのないところです。

その実践の如何によって、教えの功徳が変わってきます。
すばらし教えを説いておられる宗教がありますが、
その実践になりますと、教えとくい違っている場合があります。

例えば、
「お金を上げなさい、主人に内緒でお金を上げなさい」と教える
宗教があり、
もっとひどいのになると「サラ金で借りてでも上げなさい」と
言って促し、こんなことを実践しますと、
必ずその家庭が破壊に向かっていきます。
夫婦の中で主人に内緒事をしなさい、
或いは奥さんに内緒事をしなさいと説きますと、
この実践は大変恐ろしい実践です。
なぜなら、それは家庭の崩壊に繋がっていくからです。


        ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-07-03 00:50:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    ~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~


講演 一、
先の続き・・・
お釈迦様がある時、
お弟子から「仏陀、人間はなぜこのように苦しむのでしょう、
その苦しみの原因はどこにあるのでしょうか」と、
質問されたのですね。
その時、お釈迦様は「人の苦しみは怒りと愚痴と貪欲に
よって生じる。
この怒りと愚痴と貪欲を離した時に苦しみはなくなるであろう」と、
お説き下さいました。

この怒り、愚痴、貪欲についてもう少し分析してみますと、
これから派生するものに、謗り、妬み、
人を悪く思ったり言ったりする悪口、恨み、憎しみ、
まだ来ない未来を思い煩う取越し苦労、過去の苦しみをずっと
持ち越していつまでも忘れないでいる思い、不安、恐怖、嘘、
盗みなど、今ここにいろいろな心の苦しみの原因を
数え上げましたが、最も中心となる原因はどこに
あるかというと、それは怒りと愚痴と貪欲です。
この三つからいろいろの苦しみが湧いてきます。
これをできるだけ自分の心に入れないようにすることによって、
苦しみが少なくなります。

毎日の生活で、私たちは精進・努力し、
その実践をさせていただくのですね。
話を聞いて「なるほどそうか、ああ、それはいいことだ」と、
こちらの耳から入れて、こちらに抜けますと、
もう何にもなりません。
最初はすぐに忘れてしまいます。
だんだん自分の心から失わないように努力して、
できるだけ心の中にしまって常に持続することが、
法の実践に繋がっていきます。
高橋信次先生がご存命中に「心行の言霊」と題して
「心行の解説」を出版されましたが、
今現在、その本を持っている方はほとんどおられません。
そこで愛の実践を通してできるだけ分かりやすく、
理解しやすいように勉強会をしたいと思います。

              
      ~ 感謝・合掌 ~


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