裏山のバードフィーダー下に飛来している『アオジ』です。去年は、多いときは七羽来ていましたが、今日四羽見ました。胸。腹のあたりが黄色っぽくてスズメより少し大きめの小鳥です。
アオジは、スズメやシロハラがいても知らん顔して粟粒をついばみます。またおどされることもありません。我が家では、好感を持ってながめています。
どこから書けばいいかまとまりませんが、〈あの戦争〉の〈特攻〉には〈思い〉があります。まず山本五十六(連合艦隊司令長官)の考えから。
〇 ハワイ・真珠湾攻撃のとき、海軍は〈二人乗り〉の〈特殊潜航艇〉を五艇出動させました。潜水艦で近くまで行き、潜水艦から出動させて、真珠湾に潜り込ませ、軍艦を沈めようという作戦です。乗った二人は潜航艇ごと相手軍艦にぶつかるので帰還できません。そこで山本五十六はこの作戦に「待った!」をかけました。その後海軍では改良工夫して「相手の軍艦をやっつけて帰還できるようにした」と山本五十六に報告し、出動を許可されました。
実際にはこの特殊潜航艇は不完全で乗組員は帰還できず、潜航艇内で死亡しました。2人乗りで五艇ですから10人です。しかし、一人は気を失って米軍に保護され、捕虜第一号になりました。そこで日本軍では、戦死した9人を『九軍神』として祭り上げることにしたのです。
「無事帰還できるようにせよ」と山本五十六が言ったことは、いろんな資料にはふれられていませんが、阿川弘之の『山本五十六』にはちゃんと書いてあります。
山本五十六は、戦死した兵隊に、つよい思いをもっていたことがうかがえます。先日読んだ半藤一利の『山本五十六』に次のように書かれています。長くなりますが引用します。
昭和13年夏のできごとです。
山本五十六さんがかつて率いた航空戦隊には、「海鷲の三羽烏」と呼ばれた三人の技量すぐれたパイロットがおりました。そのうちのひとり、南郷茂章少佐が日中戦争の南昌作戦に出撃して戦死してしまいます。弔問に訪れた山本次官(当時)のようすを南郷の父が記しています。
「自分は閣下に対し長男生前の懇切なる指導の恩を謝し、軍人としてその職責を完遂せるを心より満足する旨を述べた。じっと伏し目がちに聞いておられた閣下はただひとことも発せず、化石したかのごとく微動もされなかったが、忽然からだを崩し小児そのままの姿勢で弔問者の群衆のさなかであるにかかわらず大声で慟哭し、ついに床上に倒れられた」
これのみならず、類する挿話が山本さんにはいくつもありました。山本五十六にとって部下の死は、いったいどれほど重いものであったのでしょうか。
長男の義正さんは、父の死後それを知ることになります。
家でくつろいでいるとき、五十六さんは書斎か縁側の椅子によりかかって、じっともの思いにふけっていることがあったといいます。そんなとき、かれの左手には、黒い革の手帖、ポケットに入るくらいの大きさの手帖が握られていました。
ときどき手帖をひらき、また閉じて、目をつぶる。そんな動作を何度もくり返し、30分も1時間もじっとしていたのです。山本さんは、その手帖を肌身から離したことがなかった。そこになにが書いてあるのかは、家族みんなの疑問でしたが、けっして見せてはくれませんでした。
死後、遺品を整理していたときに家族らははじめてその中身を見ることになりました。ふちが擦り切れて下地の紙がのぞいていました。表紙をひらくとそこには、ペン書きの細かい字でびっしりと、階級、姓名、艦名、戦死の日、戦死の場所、本籍、現住所、遺族の氏名などが克明に書いてありました。 (中略)
山本五十六にとって部下の死はけっして忘れてはならないことであると同時に、辛く苦しいことだったのでしょう。山本さんは仏壇や神棚に合掌する姿を見せたことがなかったといいますが、それはせずとも手帖を開き、また閉じて目をつぶり、戦死者の冥福を祈りつづけていたのです。わたくし(半藤一利)は五十六さんのそんな姿に、人情深いなどというレベルをはるかに超える、人の交わりにかける気迫のようなものを感じるのです。
彼が昭和19年も生きていたら、飛行機で敵艦に突っ込む〈特攻〉を許すようなことはなかった。