古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

浜田廣介『泣いた赤鬼』絵本も片付けます。

2013年05月12日 03時41分23秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 原作は漢字を使った童話です。童話作家・浜田廣介が、漢字を使わないようにして自分自身で書き直した『ひろすけ童話』をそのまま載せます。まだぼくも生れる前の、1933年に書かれた童話ですが、もしよかったら読んでみてください。

          ないた あかおに

 どこの やまか、わかりません。 その やまの がけの ところに、 おうちが 一けん たっていました。だれが、 そこに いましたか。 あかおにが すんで いました。 まだ わかい げんきな おにが、 ひとりで そこに すんでいました。
 げんきな おにでも、その おには、あばれものでは ありません。 いえ、あべこべに、きもちの やさしい、しんせつもので ありました。
 あかおには、まいにち ひとりで、おもって いました。
「わたしは、おにに うまれたが、にんげんたちとも、なかよく くらして いきたいな。 ふもとの むらの ひとたちと、ともだち なかまに なりたいな」
 ある日、また そう かんがえて がまんが できなく なりました。そこで、いそいで いたを けずって、そのいたに じを かきました。

 こころの やさしい おにの うちです。 どなたでも おいでください。おいしい おかしも ございます。おちゃも、わかして ございます。  あかおに

 そう かいて たてふだに して、 おうちの まえに たてました。
 つぎの 日に、 むらの きこりが とおりかかって、じを よみました。
「めずらしいなあ。おにの たてふだ。 だれでも おいでと かいて ある。 それに、おちゃ、おいしい おかし。はて、どうも。」
 ふしぎそうに くびを まげ まげ、 きこりは、やまの ほそみちを、とことこ おりて いきました。
すると、とちゅうで、なかまの きこりに あいました。
「いましがた、ふしぎな ものを みて きたよ。きみょうな たてふだ。」
 そう いって、わけを はなして、さきの きこりは、もう一ど、あしを かえして、あとの きこりと、おにの おうちの まえに きました。
「そら、ごらん。この たてふだを。」
 あとの きこりも、かなの じは、よく よめました。よんで みました。
「なるほど、おにの じ。ふでに ちからが、はいって いるよ」
「それに、まじめな きもちが わかる。じを ていねいに かいて いる。」
「ほんきなんだな。」
「はいって、みよう。」
 さきの きこりは、そう いって、とぐちの ほうへ、めを むけました。けれども、そばから、あとの きこりが、いいました。
「まて、そう せくな。その まえに、とぐちを ちょっと のぞいて みよう。」
 ふたりは、そっと、とぐちの そばに ちかよりました。
 おうちの なかで、あかおには、みみを すまして きいて いました。とぐちを のぞいて、それから ふたりが、『はい、こんにちは。』そう いって、はいって くるかと おもわれました。
「なんだか、ひっそり して いるぞ。」
「きみが わるいな。」
「さては、まじめに みせかけて、うまく だまして。」
「とって くう つもりらしいぞ。」
「あぶない。あぶない。おにだもの」
 こう いわれると、あかおには、すっかり はらが たちました。
 へやから、ぬっと、まっかな かおを つきだして、おおごえ だして いいました。
「だれが、だまして くう ものか。」
「そら、でた。おにが。」
「たいへん、にげろ。つかまるな。」
 ふたりの きこりは、どたばたと かけだしました。
 おには、いそいで とびだして、
「おうい、おまち。ちょっと おまち。」と、なんども こえを かけました。
 よびとめる こえを きいても、ふたりは、あしを とめません。 どんどんと さかを くだって、むこうに いって しまいました。
 あかおには、もう くやしくて なりません。 なみだを いっぱい めに ためて、 たてふだに めをむけました。
「ええ、こんな もの、こわして しまえ。」
 やさしい おにでも わかい あかおに、たんきを おこして しまいました。たてふだを ちからまかせに ひきぬきました。ふだの きのえを ぽきん ぽきんと おりました。たいらな いたを、ふみつけました。
 いたは、ぱりっと われました。
 すると、そこに ひょっこりと、なかまの おにが、やって きました。なかよしの ともだち、あおおに。つめの さきから、あしの うらまで あおい おに。その あおおには、とおい ふかい おくやまの、いわの おうちを ぬけだして、その 日の ひくい あまぐもに のって、 きたので ありました。
「たまに、あそびに きて みると、ぷんぷん おこって いるんだな。きみらしくも ない。どうしたの。」うらめしそうな めつきを みせて、あかおには、ともだちおにに いいました。
「ごめんよ。これには、わけが ある。きいて おくれよ、その わけを。」
 そう へんじを して あかおには、じぶんの おもって いる ことを、しょうじきに うちあけました。
「なんだい、そうか。にんげんたちと、いったり きたり したいのか。」
 あおおには、かんがえこんで いましたが、 あとを つづけて いいました。
「では、こう しよう。ぼくが、これから、ふもとの むらに、おりて いく。そして、どこかで、わざと うんとこ あばれよう。」
「じょうだん いうな」
 あかおには、まじめがお して いいました。
「まあ、きくが よい。あばれて いると、きみが きて、 ぼくの あたまを、ぽかぽか なぐる。そう すれば、にんげんたちは きみを みて、きっと ほめるに ちがいない。もう、そうなれば しめたもの。あんしん しきって、みんなが あそびに やって くる。ね、そうだろう。」
「なるほど、そうなる。だが、それじゃ、きみに わるいよ。すまないよ。」
「なにを いう。ともだちの なかでは ないか。さあ、では でかける。あとから、きっと くるんだよ。」あおおには、さかを くだって とっとっと ふもとの むらに いきました。
 ぽつん ぽつんと わらやねの おうちが たって みえました。 むらの はずれの、ちいさい おうち。そこに いるのは、おじいさんと おばあさん。
 あおおには、そこの とぐちに とびこんで、めを ひからせて たちました。
 びっくり ぎょうてん、おじいさんと おばあさんとは、すぐに、はだしで にげだしました。
 ふたりを ちゃんと にがして おいて、あおおには、つぎには、そこらに あるものを、てあたりしだいに なげました。とを たたいたり、かべを けったり、とんだり はねたり、さかだちしたり、やりながら、はやく ともだち あかおにが くると よいが、と まって いました。
 まもなく、わかい あかおにが、こちらを むいて かけて きました。いきを はあはあ させながら、すぐ そばにきて、あかおには、わっと どなって いいました。 
「やい、この やろう。」
 あおおにの かたを つかまえ、こぶしを あげて あかおには、ともだちおにの あたまを こつんと
うちました。けれども つよくは うちません。
「だめだよ、それじゃ。もっと ぽかぽか なぐるのさ。」
 あおおにが、ちいさな こえで いいました。
 あかおには、そこで ぽかぽか なぐった ように みせかけて、ちいさな こえで いいました。
「もう いい。はやく にげたまえ。」
 あおおには、がってん しました。にげるとき、わざとよろける ふりを しました。すると、そばの ふとい はしらに、ひたいを ごつんと あてました。
「いたたっ、いたい。」
 ひたいを おさえて、あおおには、ほんとの こえを だしました。 
「あおくん、まて まて。みて あげる。」
 にげて いく おに。おいかける おに。
 おにどもが、むらに きたのを ききつけて、 おとなも こどもも、わいわい いって あつまりました。ものの かげから、みんなは じっと、おにと おにとを みて いました。
「なんと かんしん、 りっぱな おにだよ。あの あかおには。ほかの おにとは、まるきり ちがう。」
「そうとも、あんなに らんぼうおにを なぐったぞ。」
「いい おに、いい おに。 あそびに いこう。」
 そう はなしを して、ひとたちは、おにの おうちへ いきました。
 おきゃくを むかえて、あかおには、おおよろこびで ありました。おにの おかしを、たくさん つくって だしました。あじの よい おちゃを のませて やりました。
 たいくつな ときなど、 いまは ありません。おきゃくたちと はなしを しあって、おもしろいやら、おかしいやら、あかおには、まいにち にこにこして いました。
 けれども、なんにち たちましたか。
 ある ばんの こと、 あかおには、まくらに あたまを のせかけて、ふっと、ともだち、あおおにに きが つきました。
「そうだよ。あおくん。あれから、ちっとも やって こない。どう したのかしら。あの とき、ひたいを ぶっつけたが、まさか わるくて、ねこんで いるんじゃ あるまいな。」
 そう かんがえて、あかおには、しんぱいに なって きました。
 つぎの日、よあけに あかおには、はんしを だして、じを かきました。

 きょうは 一にち るすに なります。あしたは います。 むらの みなさま  あかおに

 そう かいて、とぐちに はって、あかおには、やまの そばから たちのぼる、よあけの くもに とびのりました。
 くもと いっしょに、あかおには、かぜに ふかれて はこばれて、 やま また やまの おくふかい、たにの ところに いきました。たにの けわしい がけはたに、いわの おうちが、たって いました。
 あおおにの うち。いしの だんを ふんで のぼって、あかおには、おうちの とぐち、ひさしの したにたちました。
 ひさしの はしから、つめたい つゆが たれおちて、 とぐちの そばの ささの はを ぬらして いました。ささの やぶから、やまゆりが、しろい おおきな はなを さかせて たっていました。
 とぐちは しまって あきません。
「おうい、いるかい。」
 よびながら、ふと きが つくと、おもい との うえの ところに、かみが 一まい はられて いました。
「おや おや、なにか かいて ある。」
 めを ちかよせて、よんでみました。

 あかおにくん。
 にんげんたちと なかよく まじめに つきあって、いつも たのしく くらしなさい。
 ぼくは、しばらく、きみと おわかれ。この やまを でて ゆく ことに きめました。 きみと ぼくと、いったり きたり して いては、にんげんたちは、きに なって、おちつかないかも しれません。そう かんがえて、たびに でる ことに しました。
 ながい たび、とおい たび、けれども、ぼくは、どこに いようと、きみを おもって いるでしょう。きみの だいじな しあわせを いつも いのって いるでしょう。
 さようなら、きみ、 からだを だいじに して ください。
               どこまでも きみの ともだち  あおおに

 あかおには、だまって それを よみました。 三ども 四ども よみました。
「ああ、あおくん、きみは そんなに ぼくを おもって くれるのか」
 いわの とに、 りょうてを あてて、あかおには、かおを おしつけ、たらたらと なみだを ながして
なきました。      (お わ り)

 昭和47年・偕成社発行の『ないた あかおに』の絵本は、うちの子らに毎晩読み聞かせ、孫たちも読んでもらってやすみました。いま屋根裏の本を片付けています。いらない本や子どもの本とともに、この絵本も処分します。
   


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生の演奏は凄かったです。

2013年05月11日 04時39分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2007年1月、田舎暮らし2ヶ月目の我が家と裏の竹薮です。やっとウッドデッキができ、電動オーニングをまだつけてなくて、裏の竹薮も家に迫ったままです。そんな田舎暮らしがこの5月で7年半になりました。
「アッ!」という間に10年になりそうです。
 きのうはPACオーケストラの定期演奏会で西宮芸文センターへ。母はショートステイに行ってるので、夕方急いで帰る必要はありません。長年暮らして勝手をよく知ってる名谷に車を置き、地下鉄・阪急で行きました。この行き方の「気楽さ」になれたら、車で西宮芸文センターまで行く意欲が出なくなりました。
 中国道の西宮北インターから船坂のトンネルを抜け、鷲林寺から夙川に出て山手幹線を走る。芸文センターからの帰りは、雨降りの夕方の混雑する道。そんな場面を想像するだけで気力が失せます。加齢というのは体だけに起こることでなく、心にも起こる。「なにクソ!」と頑張るのでなく、自分の体と心に起こる現象を素直に受け入れる。そんな生き方が好きです。
 ところできのうのプログラムは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』。おそらくこの曲の冒頭の壮大な『ファンファーレ』を知らない人はいないでしょう。映画『2001年宇宙の旅』で使われ、あまりに有名になってしまいました。たしかに一度聞いたら忘れられません。彼方の地平線から日が昇るイメージ。未知の巨大な物体がしずしずと姿を現すイメージ。
 100人を越す大編成のオーケストラが、だんだんと、だんだんと、ヴォリュームを上げる。そして全員が自分の出せる最大の音を出す。あの「凄さ」はCDやDVDのヴォリュームをいくら上げて聴いても実感できません。目の前の演奏はほんとに「凄かった」です。「日の出」のイメージなんて生やさしいものでないことを思い知りました。
 ファンファーレのあとの音楽は、CDで聴いたときは退屈しました。しかし、目の前のオーケストラで聴いたら、最期まで引き込まれてしまいました。プログラムに、指揮者・金聖響が「この曲は大編成で、なかなか振らせてもらえない。PACオケの英断に感謝しています」とコメントしていますが、生涯に一度「生演奏」が聴けたらそれだけで凄いと思いました。
 マティアス・ヘフスのトランペットでヴォルフ・ケルシェックの『トランペット・ダンス』。(2013年2月フランスで初演されました)この曲は「日本初演」だそうですが、「オーケストラの可能性ってまだまだ広がるんだ」と実感しました。
 音のシャワーをあびて気持ちよく帰ってきました。
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藤の花盛り、若葉を見ながら、龍神さまにお参りしました。

2013年05月10日 05時16分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いま藤の花盛りです。我が家のまわりの散歩道もあちこちに咲いています。
                 
 ふだんは緑ばかりでわかりませんが、花を見て「おー、ここにも藤があったか」と気づきます。裏山と福地池を一周散歩するだけで、10箇所はそんな藤の花を見かけます。中には一抱えするほどの太さになり、15メートルも伸びたクヌギに巻きついている藤もあります。
 若葉の色が濃くなっていきます。先日は龍神さまに孫たちとお参りしましたが、池を四つまわっただけでした。そこできのうは、蛇ガ池 ⇒ 九文小池 ⇒ 福地池 をまわり、清めの塩・お酒をまいて、生卵を供えてきました。写真はその池の1つ、<福地池>です。我が家の裏山につづく池で、若葉を映しています。
 龍神さまへのお参りがどうとかいうのでなく、こんな景色を見ながら歩いてまわるのが気分がいい。
                 
 畑のほうは、きのう買った安納芋を植えました。まず10メートルの二畝を片づけ、生えてる草をとり、耕運機で耕しました。畝の真ん中を耕運機の畝立て機で割り、そこに草木灰とコープ瑞穂農園の堆肥を入れました。サツマイモですから肥料は要りませんが、作物にはとてもいいです。
                 
 安納芋は針金のようだったのに、一晩水に漬けたらしっかりした苗にもどりました。最低気温も10度を下回らなくなりました。サツマイモを植えても「もういいでしょう!」。
 
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サツマイモを植えても「もういいでしょう!」。

2013年05月09日 02時27分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 4月下旬からホームセンターではサツマイモの苗を売っています。特に『安納芋』はここ数年人気が出てきて、朝のうちに売り切れてしまいます。
 よく苗を買うナンバでは、採ったばかりの、青年のようにピンと頭をもたげた、生きのいい苗を売っています。コメリでは手にとって眺めて「こんな干からびた、ミイラみたいな苗、植えて大丈夫だろうか」と心配になる苗を売っています。きのうナフコで見たら、「10本300円」もせず、しかも「30パーセント引き」で安納芋の苗を売っています。これは相当に干からびて、ミイラみたいです。
                  
 夜中の一時ごろ苗の写真を撮りに外の流し台に出ました。この写真です。夕方水に漬けたあの〈安納芋の苗・ミイラ〉が、生き返ったようにシャンとしています。あした畝をつくって畑に植えます。
 サツマイモは長いことつくっていますが、はじめのうち「生きのいい・ピーンと頭をもたげた苗」がいい、と思っていました。「なぜこんなミイラみたいな苗を売るのだろう」と思っていました。
 サツマイモの苗は、一旦放置しておき、しんなりした苗を水に漬けて生き返らせる。それを植える。
 この頃はそのようにして植え、ほくほく収穫しています。電気柵をしたので、「アライグマやイノシシの分」はつくりません。
 今年も安納芋の〈ポット植え苗〉を買いました。ここ数年、安納芋のポット植え苗を買い、たくさん苗を採っています。ポット苗を畑に植え、出るツルを採って植えるのですが、一株から10本20本と採れます。植えるのが少し遅くなりますが、生長はすぐ追いつきます。
 連休がおわりました。植えても「もういいでしょう!」
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心をつくしたお誕生会に感動しました。

2013年05月07日 05時01分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 100年前の大正2年(1913年)5月6日に生れた母・妙子さんの《100歳のお誕生会》を、デイサービスでお世話になっている口吉川デイサービスセンターでしていただき、ぼくたちもおよばれしました。
  
 職員の方々の心をつくした舞台づくりが伝わりますように、大きな写真をアップしました。揃いの法被を着て『銭太鼓』踊りを披露してしてくださいました。勤務のあと練習を積まれたのでしょう。速いテンポの『東京ラプソディー』でも息の合った演技がお見事でした。
                    
 銭太鼓踊りのあと、模擬ケーキの[100]という数字ローソクを吹き消すことになり、母は元気に吹き消すことができました。それから全員で記念撮影。この日デイサービスのご老人は30人以上おられ、職員の方々も入って、主役が目立つように妙子さんはキンキラの《黄金法被》を着てパチリ。
                    
 このあと紅茶とケーキで、みなさんが喜びを分かち合ってくださいました。ここのデイサービスセンターで100歳のお祝いをするのは三人目だそうです。職員の方々の〈心のぬくもり〉が直に伝わってくるいい会でした。ありがとうございました。
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クララが生えてきました。

2013年05月06日 03時55分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 オオルリシジミは、安曇野と阿蘇のどこかにだけ生き残っている絶滅危惧種の蝶です。その食草が『クララ』で、食べるとクラクラするほど苦いから「クララ」という名前がついたそうです。2年前にホームセンターで買った苗を植えたら、ヒョロヒョロした60センチほどの草になりました。
 クララは宿根草で、冬は枯れますが春にまた生えてきます。去年は1メートル50センチの茎が4本立ち上がり、花が咲き、米粒ほどの豆ができました。(マメ科の植物です)去年の暮れ、その豆を播いたら、芽が出てきました。
「よーし、もう苗を買わなくてもこれで増やせるぞ。昔はうじ虫退治のために便所のそばに植えたというから、ムシ防除に役立つかもしれん」と喜んだのですが、冬の寒さで芽は全部消えてしまいました。「安曇野で生えるのだから寒さなんか平気だろう」と思ったのがまちがいでした。
 写真はクララです。宿根草ですから同じところに生えてきました。はじめから太い茎です。どうやら3年目で一人前の草になったようです。今年はちゃんと豆を収穫して、来年の春に播いて苗をつくります。
 畑は仕事がいっぱい。きょうは耕運して畝をつくりました。きのうまでに刈った草は燃やして、草木灰をつくりました。道子さんはキャップをかぶせて夏野菜を植えました。
 
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刈払機が大働きしました。

2013年05月05日 04時24分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 今年の冬、キウイの苗を植えました。「まだ一年目だからそんなに伸びないだろう」と思ったら、なんと添え木を越えて伸びていきます。棚をつくるつもりで材料だけ買っているのですが、すぐにも組み立てる必要があります。〈2メートル×3メートル〉では大きすぎるので、ちょっと小さめの〈1,5メートル×2,5メートル〉で高さ2メートルにします。そして毎年しっかり剪定して、あまり大きな木にしたくないと思っています。
 裏山の仕事や母の100歳行事の準備で、畑仕事がとどこおっていましたが、このところ毎日畑に出て、精力的に働いています。中でも大働きしているのが、刈払機です。土手の草を全部刈っただけでなく、通路・遊歩道・畝間・畝の上などあらゆるところの草を刈り、畑がすっきりしてきました。
 例えばスズメノカタビラという雑草ですが、大きな株になってしまい、手で抜こうとしても抜けません。クワで掘り起こせば、抜き跡が穴になります。刈払機で地面を削るのがいちばんです。刈払機でなければできない仕事をいっぱいしてくれました。(こちらも働いたということですが)
 イチゴが採れはじめ、どこの菜園でも防鳥ネットをかけるようになりました。散歩でそれを見てまわり「うちのネットハウスは、中で自由に動きまわれる。一番やな」と悦に入っています。
 うちのネットですが、天井部分はネットをかけたけれど、地面にふわっとかぶせただけでちょっとすき間があいていました。そしたらヒヨドリが中に入って、赤くなったイチゴをつついたあとがあります。そこで地ぎわに土を盛り、ネットは竹で押え、完全に防御しました。
 そこに味をしめたヒヨドリがやってきて、いつものように地ぎわからネットをくぐろうとした。くぐれないのでネットに突進した。三度やっても入れないので立ち去った。(以上道子さんの観察)
 ヒヨドリくん、あきらめなさい!
 
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龍神さまにお参りしたら、ヌートリアがいました。

2013年05月04日 03時32分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの村には溜め池がいくつもあり、龍神さまがおられる池もあるということです。(7年前「わたしは感知能力がつよい」と申される方が訪ねてこられ、そう言われました)そこで我が家ではなにかお頼みすることがあると龍神さまにもお願いしたりしております。
 この連休、孫の大志くんたちがやってきたので、みんなで散歩がてら池めぐりをして、龍神さまに、生卵・塩・お神酒をお供えしました。きのうは、二人でお参りするときは唱える不動明王の真言はなしにして、ふつうに〈二礼・二拍手・一礼〉で拝みました。
 ゴルフ場のクラブハウス下の池に上がってみたら、水面に波紋が動いています。ヌートリアでした。まだ子どもで、ひとりでのんびり泳いでいます。久しぶりに見かけました。(写真中央の水辺にいます)
                
 ゴールデン・ウイークで、ホームセンターや苗屋さんは大繁盛しています。しかし気温は低い。オクラやサツマイモを植えた人は、シートをかぶせてなかったら枯死・全滅でしょう。うちでも道子さんと東条の<OK苗屋>さんに買いに行き、いろいろ買いそろえました。ここはホームセンターなどより安く、いい苗です。なぜかドッグ・ランがついています。自分の犬を散歩させたいからつくられたのでしょうか。
 苗は買いましたが最低気温が10度以下になるので、うちはまだ室内に置いています。連休が終ったら植えます。この苗屋さんにはまだ、オクラの苗が置いてありません。道子さんは「オクラをいま売るなんで無責任よ。ここはまだ置いてないから良心的だわ」といいます。実際「売れればそれでいい」とばかりに競争するように早くから苗を置く傾向がありますね。
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小屋の屋根に『モラサン』をはって様子をみます。

2013年05月03日 04時52分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2009年3月・このブログを立ち上げたとき、ぼくはタマネギをぶら下げる小屋をつくりました。大工道具や電動工具も置き、作業小屋にするつもりでした。3メートル×6メートルで、高さは2メートルにしました。小屋はもう少し高いほうがいいのですが、作業中落ちたら大変だから低くしました。
                    
 写真は2009年に屋根にコンパネをビス止めしている図です。屋根の傾斜もゆるくしました。腰に巻いたトラロープは命綱のつもりです。コンパネの上には『アスファルト・ルーフィング』という屋根の下地材を張りました。下地材ですから当然上に屋根材を張ることになるのですが、それをせずに4年間つかってきました。
 いずれトタンの波板くらいは張らねばならないのですが、そのままにしていました。ところが下地材が3月末に強風ではがれてしまいました。あれから何度か雨が降り、小屋にいくらか雨漏りし、何か張らねばならない状態になっています。
 でもトタンの波板を張るのはかなり面倒です。オンジュリンやプラスチックの波板を張るのも同じ手間がかかります。で、考えたのはちょっと上等の下地材を張ることです。いくら上等でも下地材は下地材ですが、それに頑張ってもらおうというわけです。素人の思い付きですが、それでいきます。
 その下地材の名前は『モラサン』。いかにも雨に立向う気概あふれる名前が気に入りました。

 きのう書いた「アジア図書館」の本の受け入れですが、電話してみたら本は受け取ってもらえます。本を捨てなくていいのでホッとしました。梅雨に入ったら本の整理にとりかかります。
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『アジア図書館』にきいてみよう。

2013年05月02日 03時39分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうのつづきです。
 我が家の家宝にしたい気持ちで、50年近くしまい込んでいる『原色・日本の美術』を、なんと! 処分しようと図書館に持ち込む人がいる!
 東条図書館でこの本を見たとき、自分の中でなにかがはじけました。
 図書館にいまも並べてある優れた本です。この全集は昭和41年から順次出版されましたが、持ち帰った本の奥付を見ると、15年後の昭和55年に改訂第一刷、そして昭和58年には改訂7刷が発行されています。これだけの本は、もう二度と出版されないでしょう。あの情熱がいまはありません。
 では他にも捨てきれないでいる本たちを、このまま屋根裏の倉庫にしまっておくのか。
 貴重な本だといいながら、『原色・日本の美術』は引越してから一度も開いたことがありません。平凡社の『大百科辞典』は引越しのときに捨てましたが、他にも捨てきれない本をいっぱい持ってきてしまいました。
 道子さんは「子どもらに残す本ってある? 死んだら人に頼んで捨ててもらうしかないのよ。いまのうちに全部処分しましょう」といいます。
 いまネットで古本屋とかオークションとか見たら、『原色・日本の美術』は全巻揃いで7000円とか"叩き売り〝状態です。運送費のほうが高い。
 うかうか生きているうちに、えらい世の中になってしまいました。処分することに異論は申しません。しかし段ボールに詰めて道端のコンテナに捨てるのはあんまりです。
 で、思い出したのは同年輩の友だちの話です。大阪に民間の「アジア図書館」というのがあって、ここでは本を受け入れてアジア各地の図書館に寄贈したりしてくれるそうです。
 
 大阪市東淀川区淡路 5-2-17 アジア図書館 電話: 06-6321-1839

 あした電話してみよう。できたら軽トラに積んで持っていこう。あの本たちが生き返るかと思うとワクワクします。でもぼくがそんなことを考えるときは、みんなが考えるときだから、「本が殺到してどうしようもありません。もう勘弁してください」といわれるかもしれません。
 でも道端のコンテナには捨てたくないなー。
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本を整理することを考えています。(その1)

2013年05月01日 03時44分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 若葉におおわれた隣村の山です。登り口にとりついて200段の階段を上り、稜線に沿ってゆるやかな山道を登ると15分で頂上の祠に着きます。いま山道は若葉のトンネルになっているでしょうか。いいえ。「若葉の季節ですね」と共感してもらうためにこの写真を載せたのではありません。
 浅い緑色の竹林が若葉と混ざり、放置竹林の拡散が目立たなくなっているだけです。山道を歩いてみると右手はほとんど竹林です。若葉で目立たなくなっているだけです。あー、どうしたらいいのか。
 
『原色・日本の美術』(昭和41年初版・小学館発行)という30巻の大型本があり、大抵の図書館にいまも並んでいます。東京オリンピック大成功! 敗戦後立ち直った日本! そして日本がぐんぐん成長・繁栄していった時代に、第一線の人たちが熱い情熱を傾けてつくった、立派な本です。ちょうどぼくたちが結婚した頃に出版され、二ヶ月に一度配本されるのを待ってページを繰りました。
 新婚の夫婦にとって、この本をとりつづける経済的負担は少なくありませんでした。しかし第一回配本の第三巻『奈良の寺院と天平彫刻』の表紙カバー写真(興福寺の「仏頭」)に魅かれて買ってしまいました。
 東条図書館には、処分する本が入口に並べてあり、自由に持ち帰ることができます。先日本を借りに行ったら処分する本の中にこの『原色・日本の美術』が数冊置いてあり、なんとあの第三巻もあります。
「仏頭」や「阿修羅」や東大寺三月堂の仏像の写真を切りとって飾ってもいいし、とりあえず持ち帰ろう。
 田舎に引越したとき、山ほど本を捨てました。で、『原色・日本の美術』やほるぷ出版の『日本児童文学全集』(全30巻)、『日本史辞典』、人名辞典、タイム・ライフ社の全集などはどうしても捨てる気になれず段ボール箱に詰めて引越しました。   (この項つづく)
 
 
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