古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「ツンバナ」を見て思い出しました。

2013年05月29日 03時55分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 田植えの頃になると、畦や土手にチガヤの花穂が風に揺れています。「ツバナ」いいます。ぼくの生れ育った鳥取の方言では「ツンバナ」と呼んでいました。穂が出る前まだ葉に包まれているときは、摘んで食べられます。子どもの頃食べた記憶があります。
 その記憶は、敗戦後の空腹とセットになってぼくのひき出しにしまわれています。
 父は小学校の教員をしていて、戦時中朝鮮に渡りました。外地で教員をすると条件がよかったそうです。三人の子どもを抱えた母も、父について渡鮮しました。ぼくらは38度線を越えたところに入って暮らしました。現地の日本人といえば駐在所の巡査一家と小学校の教員一家だけだったそうです。
 母が病気になり、父だけ残ってぼくらは昭和18年に日本に一時帰国しました。もし敗戦まで母と幼児三人が残っていたら、生還できなかったでしょう。父は敗戦後現地の人に叩かれ、山中を何十里と歩いて、命辛々(からがら)逃げ帰りました。
 敗戦後父は山奥の分校に住み込んで勤めました。ぼくらも分校の狭い部屋で暮らしました。小学校4年生の昭和22年頃のことだと思います。日本は外地から引揚者があり、食べるものがなく、たくさん餓死者が出ていました。山奥の村も食糧不足でした。
 ある日分校の近くに住む子が、焼いたジャガイモを一つ持ってきました。たしか小学校一年の弟と同級だったと思います。「ジャンケンして勝ったもんにやる」といい、ぼくと弟はジャンケンしました。ぼくが勝ち、ジャガイモを食べました。弟は靴でその子を叩きました。その子は泣いて帰りました。
 俳優・米倉斉加年の絵本『大人になれなかった弟たちに』には、ぼくのブログでもふれたことがあります。
〈弟が生れた。わずかに配給されたミルクを自分がひもじくて口にした。弟は餓死した。〉質素な絵をつけ、飾りや言い訳を排して、彼は書いています。
 先日、沈む夕日に光るツンバナの花穂を見ながら、ひもじかったあの頃を、しばし思い出していました。
コメント
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