古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

東条英機について  その②

2021年07月20日 04時07分08秒 | 古希からの田舎暮らし
 裏山の芝生を刈りました。7月7日に刈ってから12日目です。8月いっぱいはよく伸びますから2週間以内に刈るのがいい。次は8月1日に刈ろう。
 芝生の地面にハマスゲが生えています。最強の雑草です。根と根が地中でつながり、根から抜いても根絶できません。ゴルフ場では「ハマスゲが生えたら、芝生をはがして新しい芝生をはるしかない」といいます。うちはどうするか。様子をみます。

『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著/岩波新書)の東条英機の項から引用します。昨日は彼が国民に人気がありぼくが愛国少年だったら憧れただろう」という部分を引用しました。 
その② 東条英機は「目上の人にとり入る」のがうまかった。小まめに内奏(天皇に会って時局の様子を伝える)して、天皇の心をつかみました。また宮家の人たちには立派な贈り物をしていました。その部分を引用します。

 東条内閣の最大の政治的資産としては、(昭和)天皇のつよい支持と信頼とを獲得していたことがあげられる。東条首相が天皇の信頼をかちえることができたのは、東条が天皇の意向を直接国政に反映させようと常に努力したからである。東条は、重要な政策決定に際しては、小まめに内奏をくり返し、事前に天皇の意向を確認した上で、政治的決断を行なうという政治スタイルを崩さなかった。
 敗戦後になっても、(昭和)天皇の東条への信頼は変わらなかった。敗戦直後に、天皇の直話を基にして側近が作成した「昭和天皇独白録」は、今日では、東京裁判向けの天皇の弁明の書として知られている。この「独白録」の中で、天皇は東条内閣を支持し続けた理由についてさまざまな弁明を試みているが、「元来、東条という人物は、話せばよく判る」、「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中々良い処があった」、「私は東条に同情してゐる」といった天皇の発言からは、天皇の東条に対する信頼の厚さを読みとることができる(昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記)。

 政治資金の面でも、東条首相は有利な立場にあった。陸相として陸軍省の機密費を自由に使うことが出来たからである。 (中略) 東条首相の政治資金の潤沢さについては、44年(昭和19年)10月15日に、反東条運動の中心となっていた政党政治家の鳩山一郎が、近衛文麿と吉田茂(戦後の首相)との会談の中で語っている内容が参考になる。同席していた細川護貞は、その内容を次のように記録している。(細川日記)
  
 一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、附け届けが極めて巧妙なりとの話(鳩山より)出で、例えば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆も交りありたりと。又牧野(伸顕元内大臣)の所には、常に今も尚贈り物ある由。

 この後、鳩山は、「東条の持てる金は16億円なり」と語り、近衛は東条の資金源は、中国でのアヘンの密売からあがる収益だと指摘している。  (中略)  皇族への「附け届け」については、史料的に確認することができる。42年(昭和17年)12月30日付の「東久邇宮稔彦日記」に、「この度、陸軍大臣より各皇族に自動車をさし上げる事となれり」とあり、この日、東久邇宮のところには、陸軍省関係者から、アメリカ製の自動車が届けられているからである。日記によれば、この自動車は陸軍がジャワ島で押収したものだとされている。いずれにせよ、東条がなかり豊富な政治資金を有していたのは、確かなことのようだ。

※ アメリカと戦争してるときでしょ。モノのなかったあの時代に「アメリカ製の自動車を贈る」ってどういうこと? 東条は庶民のゴミ箱をあさり、「これはまだ食えるのに捨てるのか」というようなスタンド・プレーもしたそうですし。
 また東条は、「竹槍事件」のような陰湿な、許せないイジメもありました。(「竹槍事件」はこのブログに書いたことがあります。いつのブログか、うまく探せないけど、ネットで検索すれば出てくる有名な事件です。ぼくはこの事件を知って、東条を「許せない!」と思いました。いまこの本を読んで、その思いを新たにしました。)
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『アジア・太平洋戦争』を注文しました。

2021年07月19日 05時10分40秒 | 古希からの田舎暮らし
 岩波新書『アジア・太平洋戦争』(吉田裕著/2007年発行)を注文しました。読み終わって、やっぱり手元に置いておきたくなりました。
 この本を手にとり、任意のページを読んで、あの戦争に、無念の思いを抱いて死んだ人々に、思いをはせる。そんな〈とき〉を、生ある限り持ちたい。
 あの本で、あらためて知り、そして思ったのは、東条英機のことです。
 その① 東条英機はあの時代に「一番の英雄」だった。ぼくがもう10年早く生れて、昭和16年開戦のとき、14歳だったら、愛国少年になり、東条英機を〈英雄〉として憧れ、ワクワクして、連日の戦果を新聞で読み、大本営発表のラジオを、小おどりして聞いたでしょう。彼が総理大臣になるとすぐ、ハワイ・真珠湾の勝利/シンガポールの陥落/アジアの英国軍を降伏させる/連日の連戦連勝報道/。その報道に日本中がわき立ちました。東条英機の〈人気ぶり〉を引用します。


 重要なことは、知識人の反発にもかかわらず、一般の国民が東条を強く支持していたことである。
 (中略)実際、東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年(昭和17年)7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新聞』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は、帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〝万歳々々″ と歓声をあげ、(中略)あっという間に東条さんを取り囲む。「しっかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「総理自動車、会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約10分、会衆の中を徐行する」とあることからもわかる(前掲『東条内閣総理大臣機密記録』)。
 さらに、東条に関する評伝をまとめた作家の保坂正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖(ぎょうこう)に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保坂『東条英機と天皇の時代(下)』。
 ※ この本はすべて〈西暦の年号〉で書かれていますが、戦前生れのぼくたちの世代は〈昭和〇〇年〉で時代の見当をつけますので、ぼくが追記しました。   この項つづく
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コロナ時代でも稲は生長しています。

2021年07月18日 21時19分07秒 | 古希からの田舎暮らし
 ゴミ・ステーションの、刈った草を片づけに行きました。軽トラにレーキと手箕(てみ……ザルの形をしたゴミすくい)を積んで。雨が降ったあとなので、草を燃やすのはやめました。レーキと手箕で草をかき集めて、きれいにしました。
 そのあと、軽トラで口吉川町を一まわりしました。田植えから40日ほど。もうすぐ田んぼの「土用干し」です。緑のひろがる田んぼを見てください。

 どの村も田んぼがひろがり、気持ちのいい眺めです。吉川町と口吉川町は、山田錦作付けの田んぼが一番の特Aaランクで、ぼくは米をつくってませんが、なんとなく誇らしい気持ちです。
 朝は5時前後には起きて、すべての窓や戸を開け放ちます。しばらく空気を入れ換えます。

 今朝の東の空です。夏至が過ぎて、太陽が少し右寄り(南寄り)にもどってきました。日によってちがう空の色あいを、しばらく眺めます。 
 
 
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吉田裕『アジア・太平洋戦争』を読んでいます。

2021年07月17日 21時33分47秒 | 古希からの田舎暮らし
 一橋大学教授・吉田裕の『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)を読んでいます。この本にはコメントがいっぱい寄せられています。「大学生の必読書にしてほしい」/「右にも左にも寄らない好書」/「あの戦争がよくとらえられてる」/「簡潔に戦争の全体像をとらえてる」……。(いつものようにマイナスの評価をする人も少しいますが)
 ぼくがコメントを寄せるなら「〈あの戦争〉について書いた多くの本が泡のように消えてしまっても、この本は100年後にも広く読まれます」。
 吉田裕という歴史家を、はじめて知ったのは『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)でした。
 吉田裕は1954年(昭和29年)生れです。「戦後生れ」です。
「戦争のあとで生まれた人があの戦争のことを研究して書く時代になったんだ。自分は戦争は体験してない。生存者に聞こうにも、生存者はほとんどいなくなった。あの戦争のことを書いた資料を読みあさり、研究して、この本を書いたんだ。」
 戦前生れのぼくも戦争の体験者とは言えません。田舎の山奥の子どもでしたから。でも例えば、〈インパール作戦〉の牟田口廉也の「強引なやり方」を読むと腹が立ちます。しかし後世の歴史家だったら、おそらく腹を立てないでしょう。歴史を冷静に見つめます。「そんなヒドイことをしたのか。けしからん」と織田信長や斎藤道三に腹を立てないのと同じです。
 人生(生身の人間)が「歴史に送り込まれる」。そんな時代になりました。吉田裕は、あの戦争/あの時代/あの世相/を簡潔に、しっかり書いていますが、著者の〈腹立ち〉は感じさせません。
 おだやかな書き方ですが切れ味はすごい。著者に敬意を表します。少し引用してみましょう。


 東条英機自身も、戦局を挽回できないといういらだちのなかで、神経をたかぶらせ、感情的な言動が目立つようになる。東条内閣に批判的な新聞記者などの「懲罰召集」、東条反対派の軍人に対する激戦地への転任命令、中野正剛などの政敵に対する徹底した弾圧、新聞報道への異常な関心と執拗な検閲要請、等々はよく知られている。なお、中野正剛は憲兵隊の取り調べをうけた後に割腹自殺している。 …… (毎日新聞記者の「竹槍事件」は有名です。権力者の陰湿ないじめです)
 同時に、極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うようにもなった。 ……
陸軍の内部においてさえ、東条は明らかに空回りしつつあった。



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大将軍神社にお参りしました。

2021年07月16日 18時02分16秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は16日。大将軍神社にお参りする日です。
 当番の2軒が、神社の前に幟(のぼり)を立て、境内を掃き清め、お餅を用意して、参拝者を待っておられます。6月は田植えでお休みだったので、久しぶりにお参りした気分でした。昼食はいただいたお餅です。
「お参り」で出掛けたついでに、散髪/買い物/をして、午後畑仕事をしました。
 サツマイモの畝に畔シートをかぶせました。片側に25センチ幅の畔シートを敷いているので、今日は反対側の土に畔シート(半分に切ったシート)をかぶせました。サツマイモはシートの間(10センチ)に植わっていることになります。

 これでツルが根をおろす土がかなり制限されます。サツマイモがたくさんとれるかな。
 サツマイモは、やっぱり黒マルチをかけて植えるほうがいいですね。ツル返しをしなくてもいいし、芋がカナブンの幼虫にグジグジかじられて、きたなくなるのをさけられます。

 胡麻の花が咲きだしました。近在で2軒ほど家庭菜園で『胡麻をつくる農家』があったのですが、いまはゼロです。もしこの花を見掛けたら「あー、胡麻つくってる!」。あなたは物知りです。日本では絶滅危惧種みたいに思われてますが、気が向いたら菜園のすみに、胡麻を播いてみませんか。生長がとてもはやい植物です。
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サツマイモの〈ツル返し〉をしました。

2021年07月15日 20時46分45秒 | 古希からの田舎暮らし
 1(イチ)のつく日に「サツマイモのツル返し」(ツル上げ)をするつもりでしたが、雨がよく降ってのびのびになっていました。今日は天気がいいので昼まえにやりました。

 ツルをあげて、畔シートを敷いた側に押しやりました。手前の土に根を下ろしているツルがいっぱいありました。これから芋が大きくなるときです。手前の土の部分にシートを敷いたほうがいいかな。
あの20センチ幅のプラスチックシートを「半分に切って敷こう」と思います。
 今年もマルチをかけないでサツマイモを植えました。一昨年、黒マルチをかけて苗をうえました。畝の真砂土がマルチの下で固くかたまり、芋の出来がわるかった。昨年はマルチをかけませんでした。ツル上げをしようと思った頃には、手がつけられないほど茂ってしまいました。ツルボケ気味で、よくなかった。今年は土がよくなったし、ちゃんとツル上げをするつもりです。
 でも来年から黒マルチをかけて植えます。

 大豆は200本ちかく苗を植えたのですが、一本も枯れたりしおれたりしないで、元気に生長しています。畑にスズメが群れでやってきて、パッと飛びたつときがあります。ムシを食っているのでしょうか。写真の大豆を上から撮りました。葉っぱがきれいな感じです。有機無農薬の大豆はもっと葉っぱをムシが食ったり葉巻ムシが葉を傷めたりするものですが、なんか、見とれてしまいます。電撃殺虫器とスズメ軍団のお蔭なのでしょうね。
 午後は公民館の中庭/生垣の刈跡/溝/を道子さんと掃除しました。
「汗かきついで」にゴミステーションにまわり、草刈りをしました。前回の草刈りはブログで調べたら5月30日でした。45日もたっています。草の密度がすごくて刈るのに手間取りました。刈った草は干しておいて、明日集めて燃やします。
 バス停のベンチまわりも草を刈りました。道子さんに「85歳になったら〈ゴミステーションの草刈り〉やめるってブログに書いてあったけど、元気でもやめる?」ときかれました。
 来年の10月か。そのときになってから考えます。
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〈スズメ〉観察はおもしろい。

2021年07月14日 18時26分42秒 | 古希からの田舎暮らし
 パソコン机の前の窓(半分)にマジックミラー・シートを貼りました。窓に近寄ると「パッ!」と飛びたっていたスズメが、素知らぬ顔で粟をついばんでいます。
 もっと近くで見たい。道子さんのリクエストもあって、窓のすぐ前の屋根(トタンの波板)に粟をまいてみました。目の前1メートルもないところですから、スズメは警戒するのではないか。

 窓ガラスの〈マジックミラー・シート〉越しに撮りました。16羽のスズメが写っています。スズメでない小鳥もいるかもしれません。とにかく20羽超の小鳥が、実に一生懸命に粟をついばみます。ぼくのまく「粟」の量はしれてます。一羽の食べる量はわずかでしょう。
 このスズメたちは「裏山に住みはじめた」のです。一羽のスズメではありません。二十羽超のスズメ軍団です。粟だけで生きられるわけがない。かれらは木の葉っぱのムシをとって生きている。益鳥です。この集団が前の畑のムシを食ってくれると、すごくタメになる。電撃殺虫器が「蛾」をやっつけ、葉に卵を産みつけるのを阻止する。卵が幼虫になって葉っぱを食っていると、スズメがムシをとってくれる。一羽でなく20羽超というのがすごい。
 それと、スズメたちを見ているとあきない。道子さんはいろんな「ドラマ仕立て」を想像しながら見てるみたいです。先日弱っていた「あのすスズメのヒナ」も群れの中にいるでしょうし。
 どうやらスズメ観察にはまりましたな。道子さんは日に何度どなく、窓をのぞいてたのしんでます。

 今日7月14日は裏山の祇園さんにお参りする日です。二人でお参りするつもりでしたが、午後雨が降り、粘土の山道がぬれてしまいました。滑って転んで、手をついて骨折でもしたらこわい。ということで、参道山道の入り口で拝みました。

 ふだんは落ち葉の降り積もる道ですが、当番の方がきれいにしておられます。ちょうど当番の方が来られたので、ささやかなお供えを託しました。7月24日は愛宕さんにお参りする日です。晴れて山道がかわいていたら、今度は山頂までお参りします。
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〈高齢者認知機能検査〉を受けました。

2021年07月13日 21時31分12秒 | 古希からの田舎暮らし
 10月には84歳になります。ぼくの運転免許証を更新する年です。(まえの更新から3年目)免許証を更新すると87歳まで運転できます。「運転免許証返納適齢期」であることはよく知っていますが、田舎では車で移動できないと困ります。
 13日は更新のための『高齢者認知機能検査』を加東自動車学校で受けました。いっしょに受けた人は11人。簡単な筆記検査ですが、緊張しました。
 いまはテスト用紙は、自動車学校でなく、公安委員会で採点します。結果は一週間後にハガキで知らされます。このテストにパスすると、高齢者講習を受けることができ、それから免許更新です。
 道子さんは、車で出掛けるときは隣りに乗ります。〈付き添い〉というか〈補助〉というか。幹線道路に出るときは左右を確認して「左ヨーシ!」とか、掛け声をかけます。ぼくは、自分でも左右を確認してから幹線道路に乗り入れます。(道子さんの掛け声だけで発進するとあぶないときがあります)。
 村の中の道は30キロで「とろとろ」走りますから、溝に落ちないよう気をつければ大丈夫です。
 87歳になったら、また更新するか。更新すると90歳まで運転することになります。
「高齢者があんまり先のことを考えても仕方がない」。そのときになってから考えます。道子さんは「そのときは自動運転が進歩してるから大丈夫よ」といいます。
「ああ! 高齢者。高齢者!」なんとなくそうつぶやいてみました。
  
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蝮退治棒をつくりました。

2021年07月12日 18時06分37秒 | 古希からの田舎暮らし

 写真のネジ釘のつき出ているのは『マムシ退治棒』です。ご近所にもマムシが出るので、おつくりしました。簡単な棒ですが、マムシは、こちらがにらんでいると逃げません。こちらが突っかけると突っかけ返してきます。「マムシは気が弱く、臆病かもしれない。逃げるとますます怖くなるから、にらんだり、突っかけたりするのかもしれない」という気もします。でも毒蛇です。咬まれたら入院です。
 マムシはあまりウロウロしませんし、退治するしかありません。
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知事選挙の投票所にもなるので、剪定しました。

2021年07月11日 00時01分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 7月18日は兵庫県知事選挙があります。うちの村の公民館も投票所になります。少し見栄えよくしようと、中庭の垣根を剪定しました。

 この植込みはしばらく剪定していません。去年までは老人会で草刈りや剪定をやっていました。しかし老人会が「休会(休部)」になったので、だれも世話をしない。それでは困るので、今日はぼくが垣根の剪定をしました。
 20メートルの電気コードを持っていき、電動バリカンで生垣を刈りました。

 少しいい眺めになったかな。
 足元の草/中庭の草/は、14日ころに刈ります。そのあと道子さんと有志の方に、草引きと掃除をしてもらいます。前庭のほうは剪定のイメージがわかりません。そのままにします。
 公民館まわりの草刈りがいつまでもできるわけじゃないけど、85歳まではやりましょう。といっても来年の9月までですけど。

 さて、ぼくが「ノモンハン戦争」で、もう一つ思っていることがあります。
 近年、雑誌や著作(本)で、「ノモンハン事件では日本が負けたわけじゃない。日本の兵隊はかなりやられたけど、ソ連だって日本を上まわる戦死者がある。日本のほうが戦死者が少ない。『日本が勝った』と言うべきだ」というようなヘンな文を雑誌に載せたりする学者がいます。
 ぼくは思います。「大学の先生になるほどの人なら、戦争の原因/関東軍の何がわるかったか/だれが引きかきまわしたか/なぜ負けたか/はわかっている筈です。それなのに「日本が勝ってる」というようなウソを書いて、それが後世に残って、もの笑いになって、はずかしくないのだろうか」。
 ぼくも教師をしてましたから、ウソ/間違ったこと/を教えることがないように気をつけました。
「権力者に都合のいいことを教える学者」を『御用学者』といいますが、かれらは「自分が努力して身につけた学識経験がはずかしめられる」と思わないのでしょうか。
 自分からそんなものにはまる学者がいる。不思議に思います。
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〈ノモンハン戦争〉について その2

2021年07月10日 09時12分20秒 | 古希からの田舎暮らし
 ぼくの高校生の頃、『十五対一』/『インパール』/『潜行三千里』/などの本が、父の本棚にありました。当時、話題になっていたから父が買ったのでしょう。家には読む本が乏しかったので、ぼくも読みました。
 これらはみんな、辻政信の本で、ベストセラーになっていました。辻政信は衆議院選挙に立候補すれば第一位で当選し、「講演会がある」といえば数千人の聴衆が押しかけました。
 ノモンハン戦争を引き起こして、かき回し、負傷・入院している将校を見舞って「オマエのせいで負けた」と責めたて(暗に自殺を迫ってピストルを置いて帰り、将校はピストルで自決しました)。
 口八丁手八丁で、講談師みたいにしゃべり、都合のいい事ばかり書き、作戦の神様と持ち上げられたり、銅像を造ろうという話があったり。辻はノモンハン戦争のあと左遷されたかと思えば、また東京の陸軍参謀本部に返り咲き、ガダルカナルの無茶な作戦をおしすすめ。そんな嘘っぱちの出まかせ軍人だったとは、ずっと後で知りました。
 辻政信の書いた本はいくつか復刻されて書店に並んでいます。ナチを追及するドイツでは絶対にあり得ないことです。買って読む人がいるから復刻したのでしょう。自分を含め、日本人の〈あまさ〉を歯がゆく思います。
 昨日引用した『ノモンハン戦争』の文のあとに、田中克彦はこう書いて、ペンを置いています。かれの、〈くやしさ〉が伝わります。


 辻政信 …… この人は並でない功名心と自己陶酔的な冒険心を満足させるために、せいいっぱい軍隊を利用した。そうして戦争が終わって軍隊がなくなると、日本を利用し、日本を食いものにして生きたのである。
 私たちが、占領軍としてではなく(占領軍の東京裁判でなく)、日本人として裁かねばならないのは、このような人物である。このような人物は、過去の歴史の中で消えてしまったわけでは決してない。今もなお日本文化の本質的要素として、政界、経済界のみならず、学会の中にまで巣くっているのである。
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岩波新書『ノモンハン戦争』を読みました。

2021年07月09日 17時03分53秒 | 古希からの田舎暮らし
 ノモンハン事件(本当は「戦争」だったが「関東軍の独断専行」を隠すために、陸軍では「事件」と呼ぶことにした)は昭和14年夏にあった戦争です。戦争は関東軍(日本陸軍)対ソ連軍で4カ月間戦われ、ソ連の機械化部隊の前に貧弱な装備の関東軍が敗れました。
 先ごろ亡くなった半藤一利の『ノモンハンの夏』がこの戦争の背景や経過をよく伝えています。ぼくはこの本を3回読み返しました。する必要のない戦争を仕掛けた張本人は、関東軍の「辻政信」でした。東京の陸軍参謀本部は辻政信の勝手な独走を止められなかった。陸軍の身内に対しては生ぬるい指示命令しか出せなかった。そしてモンゴルの草原で数万の日本の兵士が戦死しました。
 ノモンハン事件のことは「読んだら腹が立つばかり。もう読むのをやめよう」と思っていたのですが、岩波新書『ノモンハン戦争 …… モンゴルと満州国』田中克彦著 2009年6月発行 という本を見て、図書館で借りました。
 田中克彦はモンゴル語を習得した学者です。モンゴル語/ロシア語の戦争の文献にも自分であたり、戦争をした双方のいきさつがきちんと書いてありました。新しい視点に感心して読みました。でも戦争のいきさつには、もう触れないでおきます。
 ただ辻政信について書かれた文を引用します。


 辻は、敵弾雨あられと降る中で抜刀し、直立して絶叫していても、かれにだけは弾があたらなかったというような伝説がひろめられるほど、特異な、豪胆さをそなえた人物だったらしい。辻は、ノモンハン戦を拡大し続け、停戦後は国境確定の交渉すらもぶち壊そうとした。また第二次大戦では、悲惨な南方作戦(ガダルカナル戦)を企画し、敗戦後は戦犯としての追及を逃れるために、僧侶になりすまして東南アジア各地に潜伏した。
 辻政信は、英軍の追及を逃れてタイなどに身を潜め、1948年日本に帰国した後、50年に『ノモンハン』/『潜行三千里』/『ガダルカナル』などベストセラーを書き、52年、故郷の石川県一区から衆議院議員として立候補して最高点の票を得て当選し、今度は政治家として生まれ変わった。55年には、ソ連と中国から招かれた38人の国会議員の一人として訪問団に加わっている。
 辻は、自らを「逃避潜行した卑怯者」として、「その罪の万一をも償う道は、世界に魁けて作られた戦争放棄の憲法を護り抜くために …… 余生を捧げる」とその著書に書いた。
 そして代議士になるや否や、「憲法を改めて祖国の防衛は国民の崇高な義務であることを明らかに」すべきであると訴えるようになった。
 辻は、並みの日本人から抜き出た印象深い発言や行動で人々の支持を得て、時代に巧みに適合していった。その才能は一種独特の魅力によって支えられていたであろう。
 辻政信 …… その人は並でない功名心と自己陶酔的な冒険心を満足させるために、せいいっぱい軍隊を利用した。そうして戦争が終わって軍隊がなくなると、日本を利用し、日本を食いものにして生きてきたのである。
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雨で家に「とじこめられ」てます。

2021年07月08日 10時30分00秒 | 古希からの田舎暮らし
「田舎暮らし」って〈外で何かする〉ことですね。雨で家にとじこめられると、手持ち無沙汰です。
 で、「田舎暮らし」を考えてみました。「晴耕雨読」/「行雲流水」/「悠々自適」/ ……。と書くと高尚な感じですが、現実はそんな心境になってません。
 ぼくも年寄りなりに退屈して、4日に一度くらい外に出てみます。田舎のスーパーに行っても目ざましいことはありません。田舎道を車で走っても田舎の景色だけです。
 本を読みかけると、すぐ眠くなる。テレビを見るとなんとなく時間は過ぎていきます。ブログを書くのは「いい仕事」みたいになってます。ついでにパソコンで何か見る。〈you tube〉を見てると時間はつぶれます。メールや電話をする友だちは先に逝ってしまった。取り残されたような気分も。
 なんかなー。これでいいのかなー。
 
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裏山の芝生を刈りました。

2021年07月07日 20時31分51秒 | 古希からの田舎暮らし
 歳をとって、家で暮らしていると、時間の「距離感」というか「遠近感」というか、そんなものがぼんやりします。「仕事したこと」は覚えているけど「いつしたか」。
 裏山の柴刈りをしたのは覚えてるけど、いつしたか。
 そんなとき便利なのがこのブログです。
 裏山の芝生を、いつ刈ったか。調べてみたら6月14日に刈ってました。22日目の今日、芝生を刈りました。雨はよく降ったし、気温は高いし、草はよく伸びていました。
 刈りおえた写真です。いつも同じアングルで、すんません。

 今回は家側の斜面も全部刈りました。 
 夏は2週間に一度刈るのがいいですね。8月まではそうします。
 注文した〈マジック・ミラー・シート〉が届きました。さー、貼るか。なれない仕事には「ためらい」があって、「今日はやめとこ。また気力の充実した日にやろ」になりました。
 裏の餌台に飛来する野鳥は、スズメではない。スズメにとてもよく似てる。1,2羽と思っていたけど、10羽以上が群になって飛来する。
 さ、シートを貼って、本格的に観察するぞ。口ばっかりだけど。
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もう一人の「ある女性」

2021年07月06日 03時56分00秒 | 古希からの田舎暮らし
 NHKのテレビ番組「プロジェクトX」で、大変な苦労をして電気釜を日本の主婦におくった〈町工場社長の奥さん〉を紹介しました。(NHKの本を引用して)
 もう一人、そんな女性のことを書きます。名前は『御木本うめ』。真珠の養殖をはじめた御木本幸吉の嫁さんです。
 ぼくが知ったのは就職して2年目でした。夏の職員旅行で伊勢志摩に行き、ミキモト真珠島で、御木本幸吉の生涯を見ました。彼がはじめて養殖真珠をつくった「苦労」がよく伝わる展示でした。
〈うめ〉は17歳で御木本幸吉のもとに嫁ぎ、五人の子どもを産み、夫の「真珠養殖への思い」を実現させようと苦労しました。賢い女でした。家業のうどん屋をもりあげ、夫の夢をささえ、真珠への夢を手伝いました。
 赤潮で死んでしまったあこや貝をねばりづよくこじあけて、半円真珠を見つけたのもうめの手柄でした。うめは、養殖の半円の真珠ができるようになったあと、32歳で病死します。
 御木本幸吉はその後、真円(まん丸)真珠養殖に成功し、世界中に真珠をひろめます。うめが亡くなったとき幸吉は38歳でした。それから96歳まで元気に生きます。お金持ちの著名人になり、世の為、人の為に、さまざまな事業をやります。
 まわりの人は幸吉に「再婚」をすすめます。外国の要人たちが真珠島を訪れるのに、もてなしに妻の存在は大事です。しかし幸吉はうめの死後、その話に耳をかしませんでした。
 展示には、うめの銅像もあります。うめと二人で、死んでしまったあこや貝をこじ開けている絵も掛けてあります。幸吉は、うめを失ったこころをなぐさめようと盛大な法要をします。そこにこんな文が書いてありました。幸吉の言です。「いくら盛大な法要をしても、こころのさびしさはいかんともしがたい」。 (そんな趣旨の文だったと思います)
 そういう出会い方をする人もいる。つよくこころに残っています。
 
 
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