以降,当たり前ながら教育委員会は混乱を極めました。臨時の教育委員会も度々。審議は,「暫時休憩」の反復で,時には深夜にも及びました。わたしまで,暫時休憩を求めて,教育長の発言の真意をたださなくてはならないといった状況だったのです。住民との摩擦も増えるばかり。そのなか,教育長はただただ首長の指示を受けて動くだけ。不用意な発言が相次ぎ,学校教職員との軋轢も増していきます。学校である生徒指導事案が発生した際,その処理を巡ってはほんとうに疲労困憊。
わたしたちは処理を指示されるだけ。ご自身は公務中もご自分の研究分野に係る原稿書きに専念。早退も度々。職務に専念どころではありません。結局,こうしたつけは,事務局職員や教育委員に回ってくるばかりだったのです。わたしは,通常の公務に加え,県教育委員会からは何度もまちの教育の現況について報告を求められました。
当時,教育委員とは「これほど教育について情熱を持って議論する教育委員会は,このまちのほかないのでは? 将来,手記でも書きたいですね」と語り合ったことが脳裏から消えることはありません。教育委員会のあり方としては,お手本のような実態でした。マアいうなれば,ゲリラ豪雨が襲ってきたという状況だったわけです。そして総じていえば,教育長を除く各教育委員は全身全霊で難局を乗り切るために職責を全うし,まちの教育に責任を持とうと議論に議論を重ねられたのでした。
あとの話は割愛します。以上から反省点としてあげたいのは,首長が交代するごとに政治の影響を受け,教育が翻弄されることをどう防ぐか,ということです。今回の案では,政治からの中立性を保たなくてはならないはずの教育推進の責任機関が,たった一人の判断で右に揺れ,左に揺れという具合に,いのちの育みに対する無責任さを露呈してしまうことになります。教育長が独りよがりで傲慢だったり逆に無力だったりしたら,と思うと怖くなります。教育長の資質・能力は,ほんとうにピンからキリまであります。トンデモ人物だと,教育行政に対する信頼感が薄らぎ,不信感が募るばかりでしょう。
教育再生実行会議の今回の提言について,ある報道記事の見だしは『教育長の権限強化へ』でした。単純に強化して,事が解決するほど問題は簡単なわけではないのです。
以上,書いてきたような事態が生じないように歯止めをかけなくてはなりません。具体的な歯止策が提示し得ない,あるいは形式的な制度改革に流れている実行会議の案からは不安しか感じとれません。わたしが経験したような現実は全国的にみても,複数あったはず。そういう事例に目を向けて,しっかりした案をまとめていただきたいものです。
それなら,どんな手が考えられるか,そのことを次に考えようと思います。
(つづく)