自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

このことばはどうも

2014-08-20 | 随想

普通に使われていることばでも,どうも自分が使うとなるとためらってしまうことばがあります。そして,そのためらいを捨てちゃダメだなと自分に言い聞かせているようなところがわたしには時折あります。それが価値観というものかと思います。

たとえば,『議会だより』(本市)の次の一文です。議会での一議員の一般質問と,それに対する理事者側の答弁です。みだしは『まちの活性化を目指すひとづくりを (答)著名人の活用には研究が必要』というもの。以下その部分の抜粋。

(問)交流人口の促進からも市出身の有名人・スポーツ選手等の功績を讃え,常設展示を行い,観光とまちづくり,人(ママ)づくりの取組ができないか。

(答)著名人の方々を地域資源として活用し,その展示館という新しいご提案として受け止める。

提案は各議員の重要な政治活動の一つですから問題はないとしても,その答弁にものの感じ方の貧困さをわたしは思ってしまったのです。これは先に書いた,わたしの価値観です。字句どおりの答弁だったとしたら,たぶん,日頃から培われてきたお役人的な発想がついつい出てしまったのでしょう。

人を“資源”と割り切って,それを“活用”するとはどんなセンスの持ち主なのかなあと,ふと立ち止まって考えてしまいました。たしかに,“人的資源”ということばがあって,辞典にも明記されています。しかし,“資源”と見られる人の立場から改めてこれらのことばを見つめると,果たしてふさわしいものか,印象のよいものかどうか,気になります。


そもそも資源とはもともと「産業の原料や材料になる物質」(『新明解国語辞典』)という字義をもったことば。たいていの人なら,立ち止まってよくよく考えてみればそのとおりの印象をもたれるのではないでしょうか。わたしは平凡な人間ですが,固有名詞と人間的尊厳をもって存在している以上,原料・材料のようにモノ扱いはしてほしくないと思います。それはまるで,構造物を構成する単なる一部(ブロック)ではないでしょうか。

扱い方だってそうです。自分の何かが役立つならば役立てていただくのは光栄と思う方は多いにちがいありませんが,一方向からの都合で“活用”するだなんて,じつにいい加減なことば遣いに思えてきます。名が売れた人,そうでない人,そんな違いはまったく関係ありません。

質問者側の議員のなかに,わたしと似た印象を抱かれた方があったのでしょうか。すこし気になりました。

ことばの使い方には,使い手の生き方哲学・センスが包み込まれています。ことばはこころの窓です。行政に携わる方々には,感じるこころを磨いていただくよう期待します。 

(付記)写真は本文とは関係がありません。