纒向遺跡には前方後円墳の原型となった纒向型前方後円墳と言われる古墳がある。一般的な前方後円墳に比べて前方部の長さが短いホタテ貝型で後円部の高さが低いことが特徴である。その一つに纒向石塚古墳がある。全長が93m、後円部の径が60m、前方部の長さが33mの前方後円墳である。幅が20mもある周濠の最下層から出土したヒノキの板材の年代を調べると残存最外年輪の暦年は西暦177年との測定結果が出た。これについて年輪年代学の光谷拓実氏は、残存の辺材部の平均年代幅をもとに推計し「その伐採年はどうみても200年を下ることはない」と結論づけている。したがって周濠の年代は年代幅を最大限に見積もっても2世紀第4四半世紀(175年~199年)の造営とみなすことができるという。一方で石野氏は出土した土器の編年から210年頃の築造とする。そして周濠からは他に弧文円板や赤い色が付けられた鶏型の木製品、さらに根元だけが残った柱が立ったままの状態出土したことから、3世紀初頭の段階で被葬者を葬るときに木製葬具を用いた葬送儀礼が行われていたことが確認されたと指摘している。
同じく纒向型前方後円墳にホケノ山古墳がある。卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳の東250mのところにある。全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの規模である。橿原考古学研究所と桜井市教育委員会の調査によって積石木槨が現れ、幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いのなかに組合式のU字底木棺が納められていた。その板囲いを押さえる6本の柱とは別に4本柱と棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設を覆うような切妻造りの建物が墳丘の中に設けられており、これまでに見たことのない構造を持った埋葬施設であることがわかった。さらに画文帯神獣鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣類などが副葬されていた。放射性炭素年代測定では、出土炭化物から55年~235年の数値が得られたという。
私はこのホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと考える。鬼道を使う女王を埋葬するに相応しい埋葬施設を持っていること、卑弥呼が死去した時期に近い炭化物が出ていること、その大きさが魏志倭人伝にある「徑百余歩」と考えられること、がその理由である。後円部の径が60mであることから小さい歩幅ならちょうど百歩ほどとなる。
先述の纒向石塚古墳にほど近いところにある纒向勝山古墳も203年~211年という年代が得られており、纒向にあるこれらの纒向型前方後円墳が2世紀後葉から3世紀前半に築造されたことがわかっている。そして纒向型前方後円墳に続く初期の前方後円墳として卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳がある。石野氏はその築造年代を3世紀後半、280~290年と考えている。箸墓は陵墓参考地として宮内庁に管理されているため詳しい発掘調査ができないのが残念であるが、ホケノ山古墳を卑弥呼の墓と考える私はこの箸墓は台与の墓と考える。
このように纒向の地ではちょうど卑弥呼の時代の墓にふさわしい古墳が築かれていることがわかる。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
同じく纒向型前方後円墳にホケノ山古墳がある。卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳の東250mのところにある。全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの規模である。橿原考古学研究所と桜井市教育委員会の調査によって積石木槨が現れ、幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いのなかに組合式のU字底木棺が納められていた。その板囲いを押さえる6本の柱とは別に4本柱と棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設を覆うような切妻造りの建物が墳丘の中に設けられており、これまでに見たことのない構造を持った埋葬施設であることがわかった。さらに画文帯神獣鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣類などが副葬されていた。放射性炭素年代測定では、出土炭化物から55年~235年の数値が得られたという。
私はこのホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと考える。鬼道を使う女王を埋葬するに相応しい埋葬施設を持っていること、卑弥呼が死去した時期に近い炭化物が出ていること、その大きさが魏志倭人伝にある「徑百余歩」と考えられること、がその理由である。後円部の径が60mであることから小さい歩幅ならちょうど百歩ほどとなる。
先述の纒向石塚古墳にほど近いところにある纒向勝山古墳も203年~211年という年代が得られており、纒向にあるこれらの纒向型前方後円墳が2世紀後葉から3世紀前半に築造されたことがわかっている。そして纒向型前方後円墳に続く初期の前方後円墳として卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳がある。石野氏はその築造年代を3世紀後半、280~290年と考えている。箸墓は陵墓参考地として宮内庁に管理されているため詳しい発掘調査ができないのが残念であるが、ホケノ山古墳を卑弥呼の墓と考える私はこの箸墓は台与の墓と考える。
このように纒向の地ではちょうど卑弥呼の時代の墓にふさわしい古墳が築かれていることがわかる。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。