魏志倭人伝に記された邪馬台国は大和の纒向にあった。そして日本の史書である記紀によれば、古代にこの纒向付近に宮を置いた天皇がいることがわかる。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の3人である。書紀では、崇神天皇は「磯城の瑞籬宮」に、垂仁天皇は「纒向の珠城宮」に、景行天皇は「纒向の日代宮」にそれぞれ宮を設けたとなっている。古事記ではそれぞれ「師木水垣宮」「師木珠垣宮」「纒向之日代宮」とされている。崇神天皇は第10代天皇とされているが、その崩御年をみると書紀では「辛卯」となっており該当しそうな西暦年に置き換えると211年、271年、331年のいずれかになる。古事記では「戊寅」となっており同様に西暦にあてはめると198年、258年、318年のいずれかとなり、一般的には318年であると考えられている。いずれの場合をとっても崇神天皇は弥生時代後期あるいは末期の天皇ということになり、纒向遺跡の繁栄した時代と見事に重なる。すなわち、崇神天皇は邪馬台国の王であったと考えられる。そして倭人伝において邪馬台国は投馬国(出雲)の次の国となっていることからも、崇神天皇は出雲から大和にやってきた王であったと考えたい。
しかし、魏志倭人伝では邪馬台国の王は女王であった。とすると、崇神天皇は倭人伝では何者とされているのか。卑弥呼が共立された場面で「年已長大無夫婿有男弟佐治國(年すでに長大なるも夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む)」と記述されているが、崇神はここに登場する「男弟」ではないかと考える。鬼道を用いた卑弥呼はいわゆるシャーマンとして神託を司り、それを受けて実際に政治を行なったのが男弟の崇神だったのではないか。そして女王卑弥呼の死後、この男弟である崇神が王(天皇)になったが残念ながら倭国をまとめることができずに混乱をきたした。
(このあと、神武王朝、崇神王朝という呼び方をするが、神武王朝は初代神武天皇から第9代開化天皇まで、崇神王朝は第10代崇神天皇から第15代仲哀天皇までを指すこととする。同様に、応神王朝を第16代応神天皇から第25代武烈天皇までとする。)
崇神王朝と神武王朝は奈良盆地で睨み合う状態、すなわち両王朝が並立する状態に陥ったことは先に書いたが、記紀によると崇神天皇は第10代天皇であり、初代が神武天皇である。これはどういうことだろうか。私はこのように考えている。記紀の編纂を指示した天武天皇は大陸江南の流れを汲む一族の系列、すなわち神武一族の後裔であったので、天武は自らの祖先である神武を天皇家の開祖として初代天皇に仕立てた。同時に崇神天皇およびその後の天皇(垂仁、景行、成務、仲哀)も倭国の王として存在し、その存在を消すことができなかったため、実際は並立していた神武王朝と崇神王朝を万世一系の考えに従って神武王朝→崇神王朝と順番に成立したことにした。これが、神武、崇神ともに「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれる所以である。さらに言えば、この神武王朝と崇神王朝を統合したのが応神天皇であった。
卑弥呼の死後、神の宣託を告げる巫女を失った崇神はいったん自らがその役割をも担おうとして「王」となったが、やはり各国がそれを許さなかったため、あらためて台与に巫女役を担わせることにし、自分は政治に専念するようにしたところ、うまく回りだした。結果として大和に入ってからの神武はなかなか崇神を倒すことができず、しばらく両王朝が並立する形になった。書紀では崇神王朝のときに四道将軍の派遣、熊襲征伐、日本武尊の活躍などが記されている。四道将軍の派遣先である吉備や丹波は神武と同盟関係にあった国(これについては後に触れる)であり、熊襲にいたっては神武の故郷である。九州での戦いで敗れ、大和では女王卑弥呼を死に追いやられた邪馬台国崇神王朝は狗奴国神武王朝に対して反撃に出たのだ。
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しかし、魏志倭人伝では邪馬台国の王は女王であった。とすると、崇神天皇は倭人伝では何者とされているのか。卑弥呼が共立された場面で「年已長大無夫婿有男弟佐治國(年すでに長大なるも夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む)」と記述されているが、崇神はここに登場する「男弟」ではないかと考える。鬼道を用いた卑弥呼はいわゆるシャーマンとして神託を司り、それを受けて実際に政治を行なったのが男弟の崇神だったのではないか。そして女王卑弥呼の死後、この男弟である崇神が王(天皇)になったが残念ながら倭国をまとめることができずに混乱をきたした。
(このあと、神武王朝、崇神王朝という呼び方をするが、神武王朝は初代神武天皇から第9代開化天皇まで、崇神王朝は第10代崇神天皇から第15代仲哀天皇までを指すこととする。同様に、応神王朝を第16代応神天皇から第25代武烈天皇までとする。)
崇神王朝と神武王朝は奈良盆地で睨み合う状態、すなわち両王朝が並立する状態に陥ったことは先に書いたが、記紀によると崇神天皇は第10代天皇であり、初代が神武天皇である。これはどういうことだろうか。私はこのように考えている。記紀の編纂を指示した天武天皇は大陸江南の流れを汲む一族の系列、すなわち神武一族の後裔であったので、天武は自らの祖先である神武を天皇家の開祖として初代天皇に仕立てた。同時に崇神天皇およびその後の天皇(垂仁、景行、成務、仲哀)も倭国の王として存在し、その存在を消すことができなかったため、実際は並立していた神武王朝と崇神王朝を万世一系の考えに従って神武王朝→崇神王朝と順番に成立したことにした。これが、神武、崇神ともに「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれる所以である。さらに言えば、この神武王朝と崇神王朝を統合したのが応神天皇であった。
卑弥呼の死後、神の宣託を告げる巫女を失った崇神はいったん自らがその役割をも担おうとして「王」となったが、やはり各国がそれを許さなかったため、あらためて台与に巫女役を担わせることにし、自分は政治に専念するようにしたところ、うまく回りだした。結果として大和に入ってからの神武はなかなか崇神を倒すことができず、しばらく両王朝が並立する形になった。書紀では崇神王朝のときに四道将軍の派遣、熊襲征伐、日本武尊の活躍などが記されている。四道将軍の派遣先である吉備や丹波は神武と同盟関係にあった国(これについては後に触れる)であり、熊襲にいたっては神武の故郷である。九州での戦いで敗れ、大和では女王卑弥呼を死に追いやられた邪馬台国崇神王朝は狗奴国神武王朝に対して反撃に出たのだ。
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