投馬国の次はいよいよ邪馬台国である。邪馬台国の位置については九州説、畿内説、その他もろもろ、それこそ百家争鳴の様相である。畿内説は纒向遺跡がその都であるということでほぼ一致している一方で、九州説については様々な場所が比定されている。魏志倭人伝に記された邪馬台国に至る道程にある末盧国、伊都国、奴国、不弥国の各国が九州内でほぼ確定されている、方角や距離を考えると九州を出て本州に向かうことは考えにくい、とくに北九州にはそれと思しき遺跡が豊富にあり比定がしやすい、などの理由で候補地が多くあり畿内説のように1つにまとまっているわけではない。
小学6年で邪馬台国や卑弥呼を初めて習ったときに大いに興味を覚えた。邪馬台国がどんな国で卑弥呼がどんな人物であるかではなく、それが謎に包まれていることに興味を持った。もともと謎解きが好きな子供であったので、いつかは邪馬台国や卑弥呼を自分で解き明かしたいと思った記憶がある。そんな私が考えている邪馬台国の場所は「大和の纒向」である。あまりに普通すぎるのだが、その主な理由は、倭人伝における方角のズレを考慮するとその位置に矛盾が生じないこと、投馬国(出雲)から水行と陸行の両方が必要なこと、纒向遺跡が2世紀後半から4世紀前半の遺跡であり卑弥呼の時代に符合すること、鬼道を使う場所として相応しい神殿のような建物跡が検出されたこと、外来系土器の出土状況から西日本各地との交流や交易の様子が確認できること、ホケノ山古墳や箸墓古墳など卑弥呼の時代に合う初期の古墳が付近にあること、などである。
しかし、これらの理由以上に何よりも現地に行ってみて直感的に「ここだ」と感じたことが最も大きな理由かもしれない。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
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