2011年3月、まだ少し雪の残る時期であったが取引先の工場を訪問するために出雲に出張の機会を得た。午後からの用件であったので午前中の時間を利用して、出雲空港からタクシーで荒神谷(こうじんだに)遺跡、加茂岩倉遺跡、神原(かんばら)神社古墳の3箇所を訪れた。ここでは荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡について、そのときの印象をまじえて確認しておきたい。
まず荒神谷遺跡であるが、荒神谷博物館や出雲観光協会などのサイトをもとに整理すると、この遺跡は島根県出雲市斐川町神庭西谷にあり、1983年に広域農道(出雲ロマン街道)の建設に伴う遺跡分布調査が行われた際に須恵器の破片が見つかったことから発掘が開始され、1984年に山あいの斜面から358本もの銅剣が出土した。さらに翌年にはその地点からわずか7m離れた同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。
銅剣はいずれも長さが50cm前後、重さが500g余りの中細形c類で、製作時期は弥生時代中期後半と考えられている。鋳型が見つかっていないため製作地は不明であるが、形式がすべて同じなので同一地域で製作された可能性が高く、出雲製の可能性も否定できない。銅鐸は6個とも高さが20cm前後、国内最古の型式のものが1個あるほか、それよりもやや新しい型式のものが1個あり、製作時期は弥生前期末から中期中頃と考えられている。製作地は近くの加茂岩倉遺跡出土の銅鐸との関連性などから北部九州製の可能性が高いといわれている。銅矛は中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は銅剣とほぼ同じか若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があることなどから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
銅剣358本は丘陵の南向き斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に刃を起こした状態で4列に整然と並べて埋められていた。銅鐸は鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で交互に2列に並べられていた。銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の向かって右側に16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。銅剣、銅鐸、銅矛のいずれもが祭祀の道具として利用されていたが、ある時期に何らかの理由でここに埋納されたと考えられている。
(筆者撮影)
それまでの通説であった北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏、近畿を中心とする銅鐸文化圏という考え方を覆す世紀の大発見ということであるが、そもそも考古学とはそんなもので、これまでもこれからも新しい発見の積み重ねで解き明かされていくものである。それはさておき、現地ではレプリカによって発掘時の状態がかなりリアルに再現されていた。第一印象は、なぜこんな辺鄙な山あいに重要な祭器がこれほど大量に埋められていたのか、ここで何が起こったのか、という疑問だった。そしてこの場で盛大な儀式が行われた映像が頭に浮かばず、ひとりのリーダーと数人の側近者がひっそりと、そして粛々と祭器を並べて埋めていく様子が浮かんだ。とくに銅剣358本が4列に隙間なくびっしりと並べられている状態を目の当たりにしたとき、銅剣がよほど重要なものであり、1本1本を手に取りながら慎重に丁寧に並べていく姿が思い浮かんだ。
あらためてそれぞれの製作時期を見ると次のようになる。
銅剣・・・弥生時代 中期後半
銅鐸・・・弥生時代 前期末~中期中頃
銅矛・・・弥生時代 中期後半(銅剣とほぼ同じか若干後)
銅鐸については、その内面の突帯の磨耗状態から長期に使用されたことがわかるという見解があり、これをもとにその使用時期を中期後半頃までと想定すると、銅剣、銅鐸、銅矛ともに製作時期あるいは使用時期として弥生中期後半という一致が見出せる。とすると、これらが埋納された時期として弥生時代後期前半という考えが成り立つのではないか。
出雲では弥生前期から中期末あるいは後期前半にかけて銅剣、銅鐸、銅矛といった青銅器を祭祀に用いる集団がいた。銅鐸および銅矛の製作地から考えて、この集団は北部九州とのつながりを持っていた。しかしその集団は、弥生後期に何らかの理由でそれらの祭器をまとめて埋納してその祭祀を止めてしまった、と考えられる。
ここでもうひとつ確認しておくことがある。彼らが祭器として用いた青銅器、とくに銅剣や銅矛はいずれも初期段階においては実用的なもの、すなわち実戦で用いる武器であったはずだ。それがなぜ武器としての用途を捨てて祭器専用となったのか。
これについてはいずれ専門家の考えを調べようと思うが、今のところ私は次のように考えている。これらの青銅武器は他者を制圧するためのものであり、すなわち力の象徴であった。当初は武器として用いながら、一方でその力を持ち続けることを神に祈るための用具、すなわち祭器として用いた。初期の祈り方としては戦いの場で剣や矛をかざして「頼むぞ!」という感じだろうか。それが徐々に戦勝祈願の儀式になり、そのための祭器として用いられるようになったのだろう。
しかし製鉄技術が一般的になり、より殺傷力のある鉄製の武器が普及するようになると銅製の武器は実戦用途を失い、祭器としての用途のみで使われることとなった。結果として銅矛などはまったく実戦で使えないような大型で幅広なものになっていった。荒神谷において青銅器を埋納した集団は製鉄技術に長け、鉄製武器を保有していたはずだ。そうであるからこそ、大量の銅剣や銅矛に武器としての価値を認めず、埋めることに躊躇はなかった。
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まず荒神谷遺跡であるが、荒神谷博物館や出雲観光協会などのサイトをもとに整理すると、この遺跡は島根県出雲市斐川町神庭西谷にあり、1983年に広域農道(出雲ロマン街道)の建設に伴う遺跡分布調査が行われた際に須恵器の破片が見つかったことから発掘が開始され、1984年に山あいの斜面から358本もの銅剣が出土した。さらに翌年にはその地点からわずか7m離れた同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。
銅剣はいずれも長さが50cm前後、重さが500g余りの中細形c類で、製作時期は弥生時代中期後半と考えられている。鋳型が見つかっていないため製作地は不明であるが、形式がすべて同じなので同一地域で製作された可能性が高く、出雲製の可能性も否定できない。銅鐸は6個とも高さが20cm前後、国内最古の型式のものが1個あるほか、それよりもやや新しい型式のものが1個あり、製作時期は弥生前期末から中期中頃と考えられている。製作地は近くの加茂岩倉遺跡出土の銅鐸との関連性などから北部九州製の可能性が高いといわれている。銅矛は中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は銅剣とほぼ同じか若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があることなどから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
銅剣358本は丘陵の南向き斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に刃を起こした状態で4列に整然と並べて埋められていた。銅鐸は鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で交互に2列に並べられていた。銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の向かって右側に16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。銅剣、銅鐸、銅矛のいずれもが祭祀の道具として利用されていたが、ある時期に何らかの理由でここに埋納されたと考えられている。
(筆者撮影)
それまでの通説であった北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏、近畿を中心とする銅鐸文化圏という考え方を覆す世紀の大発見ということであるが、そもそも考古学とはそんなもので、これまでもこれからも新しい発見の積み重ねで解き明かされていくものである。それはさておき、現地ではレプリカによって発掘時の状態がかなりリアルに再現されていた。第一印象は、なぜこんな辺鄙な山あいに重要な祭器がこれほど大量に埋められていたのか、ここで何が起こったのか、という疑問だった。そしてこの場で盛大な儀式が行われた映像が頭に浮かばず、ひとりのリーダーと数人の側近者がひっそりと、そして粛々と祭器を並べて埋めていく様子が浮かんだ。とくに銅剣358本が4列に隙間なくびっしりと並べられている状態を目の当たりにしたとき、銅剣がよほど重要なものであり、1本1本を手に取りながら慎重に丁寧に並べていく姿が思い浮かんだ。
あらためてそれぞれの製作時期を見ると次のようになる。
銅剣・・・弥生時代 中期後半
銅鐸・・・弥生時代 前期末~中期中頃
銅矛・・・弥生時代 中期後半(銅剣とほぼ同じか若干後)
銅鐸については、その内面の突帯の磨耗状態から長期に使用されたことがわかるという見解があり、これをもとにその使用時期を中期後半頃までと想定すると、銅剣、銅鐸、銅矛ともに製作時期あるいは使用時期として弥生中期後半という一致が見出せる。とすると、これらが埋納された時期として弥生時代後期前半という考えが成り立つのではないか。
出雲では弥生前期から中期末あるいは後期前半にかけて銅剣、銅鐸、銅矛といった青銅器を祭祀に用いる集団がいた。銅鐸および銅矛の製作地から考えて、この集団は北部九州とのつながりを持っていた。しかしその集団は、弥生後期に何らかの理由でそれらの祭器をまとめて埋納してその祭祀を止めてしまった、と考えられる。
ここでもうひとつ確認しておくことがある。彼らが祭器として用いた青銅器、とくに銅剣や銅矛はいずれも初期段階においては実用的なもの、すなわち実戦で用いる武器であったはずだ。それがなぜ武器としての用途を捨てて祭器専用となったのか。
これについてはいずれ専門家の考えを調べようと思うが、今のところ私は次のように考えている。これらの青銅武器は他者を制圧するためのものであり、すなわち力の象徴であった。当初は武器として用いながら、一方でその力を持ち続けることを神に祈るための用具、すなわち祭器として用いた。初期の祈り方としては戦いの場で剣や矛をかざして「頼むぞ!」という感じだろうか。それが徐々に戦勝祈願の儀式になり、そのための祭器として用いられるようになったのだろう。
しかし製鉄技術が一般的になり、より殺傷力のある鉄製の武器が普及するようになると銅製の武器は実戦用途を失い、祭器としての用途のみで使われることとなった。結果として銅矛などはまったく実戦で使えないような大型で幅広なものになっていった。荒神谷において青銅器を埋納した集団は製鉄技術に長け、鉄製武器を保有していたはずだ。そうであるからこそ、大量の銅剣や銅矛に武器としての価値を認めず、埋めることに躊躇はなかった。
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