魏志倭人伝をなぞって邪馬台国までやってきたがここで話を九州に戻そう。南九州から北上しながら領土拡大を進めてきた狗奴国であるが、阿蘇山周辺まで進出したことで必要とした製鉄原料である褐鉄鉱を十分に手に入れることができた。したがって狗奴国はそれ以上の領土拡大の必要はなくなったわけだ。しかし、ふと気がつけば女王国連合の国々が勢力をもつ北部九州(北九州倭国)まで目と鼻の先、まさにその裏庭に迫っていた。強大な国力を誇る狗奴国にその背後を突かれる形となった北九州倭国は大きな危機感を持ち、その大いなる危機感は狗奴国との戦いへと急がせた。これが魏志倭人伝に記される倭国と狗奴国の戦いの発端である。
末盧国や伊都国、奴国、不弥国など倭人伝に記された約30ケ国は互いに争った倭国大乱の後に邪馬台国の女王卑弥呼のもとで連合国家としてまとまった。しかし、南九州の狗奴国はこの連合国に属するどころか連合国と戦わなければならない関係にあったようだが、それはどうしてだろうか。
倭国は大陸の華北平原あたりから戦乱を逃れてやってきた人々や、交易のため、あるいは逃亡者として朝鮮半島からやってきた人々が土着の縄文人とつながることによって弥生人である倭人となって各地で建国した国々の連合国家である。言い換えれば、これらの国は華北や朝鮮半島を祖国とする民族で成り立っており、その結果として魏を後ろ盾とすることとなった。
一方、狗奴国は同じ大陸でも江南地方からやってきた人々が南九州土着の縄文人と交わって弥生人となって建国した国である。つまり、狗奴国は江南を祖国とする民族による国であると言える。江南の地は春秋時代には呉(句呉)が建ち、その後、戦国時代に楚の領土となり、秦、漢(前漢・後漢)と続いた後、三国時代には再び呉が建国された。春秋時代の呉とはまったく関係のない国であるが、倭国が魏とつながっていたように狗奴国はこの呉とつながっていたのかもしれない。
この通り、狗奴国が女王に属さなかった理由は「互いに違う民族であった」ということである。しかも当時は三国時代、それぞれの祖国の地は大陸の覇権を争うライバル国であった。狗奴国は倭国と戦いこそすれ互いに手を取り合うことは決してなかった。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
末盧国や伊都国、奴国、不弥国など倭人伝に記された約30ケ国は互いに争った倭国大乱の後に邪馬台国の女王卑弥呼のもとで連合国家としてまとまった。しかし、南九州の狗奴国はこの連合国に属するどころか連合国と戦わなければならない関係にあったようだが、それはどうしてだろうか。
倭国は大陸の華北平原あたりから戦乱を逃れてやってきた人々や、交易のため、あるいは逃亡者として朝鮮半島からやってきた人々が土着の縄文人とつながることによって弥生人である倭人となって各地で建国した国々の連合国家である。言い換えれば、これらの国は華北や朝鮮半島を祖国とする民族で成り立っており、その結果として魏を後ろ盾とすることとなった。
一方、狗奴国は同じ大陸でも江南地方からやってきた人々が南九州土着の縄文人と交わって弥生人となって建国した国である。つまり、狗奴国は江南を祖国とする民族による国であると言える。江南の地は春秋時代には呉(句呉)が建ち、その後、戦国時代に楚の領土となり、秦、漢(前漢・後漢)と続いた後、三国時代には再び呉が建国された。春秋時代の呉とはまったく関係のない国であるが、倭国が魏とつながっていたように狗奴国はこの呉とつながっていたのかもしれない。
この通り、狗奴国が女王に属さなかった理由は「互いに違う民族であった」ということである。しかも当時は三国時代、それぞれの祖国の地は大陸の覇権を争うライバル国であった。狗奴国は倭国と戦いこそすれ互いに手を取り合うことは決してなかった。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。