古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆倭国vs狗奴国 戦闘の様子

2016年09月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 先に見たように狗奴国はあくまで邪馬台国そのものではなく女王国連合、すなわち倭国の南で境界を接する国であったので、狗奴国の戦いの相手は邪馬台国ではなく、倭の国々であった。倭人伝の記述「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」は倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼が対立していた状況を伝えており、このことからも戦闘の当事国は倭国と狗奴国であることがわかる。もちろんこの場合の倭国は北九州の国々、すなわち北九州倭国を指す。狗奴国と北九州倭国の境界あたりで両国の戦闘があったと考えられるので、次にその様子を見てみよう。

 次の図は、松本寿三郎氏、板楠和子氏、工藤敬一氏、猪飼隆明氏の共著による「熊本県の歴史」に掲載された弥生後期後半の鍛冶遺構の分布を示すものである。特に北九州倭国と狗奴国の境界に近い北方を中心に主な遺跡を順に示す。

      弥生時代後期後半における主な鍛冶遺構 (『熊本県の歴史』より)


■狩尾遺跡群
 阿蘇山北西部の外輪山の麓、熊本県阿蘇市に所在する湯の口遺跡、方無田(かたなた)遺跡、前田遺跡の総称である。湯の口遺跡からは縄文時代の土器片と石鏃、弥生時代の終わり頃から古填時代の始めにかけての竪穴住居跡45基が発見された。鉄器は鉄鏃55点など総数331点が出土、また鉄滓を除く鉄製品の出土した住居跡は34基で全住居跡の約8割を占める。また、13号住居跡は鍛冶工房の姿を如実に残しおり、これらの分析の結果、この遺跡内で鍛冶および鉄器生産がおこなれていたという結論になった。また、有力者の墓と思われる箱式石棺が横に並んで3基発見された。
 方無田遺跡からは弥生時代中期始めと弥生時代後期終わりの竪穴住居跡や墓穴が多く見つかった。特に、弥生時代中期の住居跡は阿蘇谷において弥生時代最古として注目されている。弥生時代後期の鉄器は鉄鏃11点を含め30点が出土した。
 前田遺跡では弥生時代終わりの竪穴住居跡13基と、同時期とみられる掘立柱建物が見つかった。遺構の時期や広がりの様子からみて西隣りの方無田遺跡と同じ弥生のムラの一部と思われる。鉄器は5点、また、3軒の住居跡からは直径約5ミリの濃青色のガラス玉が各1点ずつ、いずれも住居跡中央から出土した。6号住居跡には折れた柱が立った状態で出土した。柱が焼け炭化したために残ったもので、当時の家屋構造を知る上で貴重なものである。

■池田古園遺跡
 湯の口遺跡、方無田遺跡、前田遺跡から少し距離をおいているが狩尾遺跡群と一連の流れにある遺跡である。弥生時代中期の土器片、弥生時代後期の竪穴住居跡35基、周溝遺構5基が検出された。鉄器は、鉄鏃54点を含む161点が出土した。

■池田遺跡
 こちらも先の狩尾遺跡群の一角を占める遺跡である。弥生時代後期の竪穴住居跡9基が検出された。このうち鉄製品の加工を主体とした鍛冶施設とみられる6号住居跡では42点の大量の鉄製品と鉄滓の広がりを確認した。鉄製品の出土数は一住居跡としては狩尾遺跡群では群を抜く数である。

■下山西遺跡
 阿蘇山中央火口丘の先端、狩尾遺跡群からはカルデラを挟んで東方3.8kmのところに住置する。34基の竪穴のうち、古墳時代の1基と時期不明の2基を除いて弥生時代終末期のものである。さらに丘陵の最先端部に4基の石棺があり、このうち3基から鉄剣1本づつが出土し、1基からガラス玉が出土した。石棺の中には大量のベンガラが入れてあり、被葬者は阿蘇黄土を利用したベンガラの生産と関わりのある者であろうと推定される。また、152点の鉄器が出土し、特に鏃の占める割合が高い。白川・大野川流域の弥生後期の鉄器の総合的な分析によれば、この地域は鉄器生産と流通について地域的特長を示し、北九州地域とは異なる様相を示す。なお、下山西遺跡の西南約300mからは、大正4年(1900年)に中細銅戈1本が発見されている。おそらく下山西遺跡と関係あるものと思われることから、この下山西遺跡は阿蘇谷の弥生期の有力集落のひとつとみてよい。

■西弥護免遺跡
 熊本県菊池郡大津町にあり、総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡、198基の土壙墓群住居跡群を囲む環濠の総延長1キロ以上の大遺跡で、総数581点の鉄器が出土している。このうち298点の鉄器片は173号住居跡に集中して出土した。鍛冶工房とみられるこの住居跡出土の鉄器は、形のわかる鏃5点・やりがんな2点のほかはすべて針状か幾何学形の細片であり、再加工のための鉄素材という性格をもっていると思われる。

■方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡
 熊本県山鹿市方保田にあり、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した環濠集落遺跡である。広さは35~40haと広大で吉野ヶ里遺跡(およそ50ha)に匹敵する。これまでの調査結果から住居跡80軒、埋葬施設21基のほか、幅8mの大溝や多数の溝が確認され、外敵から集落を守っていたことが分かっている。出土した鉄器は破片も含めると170点を超え、全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されるとともに、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。巴形銅器をはじめとする数多くの青銅器も発掘されており、この地の権力者を中心に形成された集落であると考えられる。

■諏訪原(すわのはる)遺跡
 熊本県玉名郡和水町にあり、弥生後期~古墳時代初めの73軒の竪穴住居跡のうちに鍛冶工房とみられる焼土や鉄滓、鉄片を多数ともなう住居跡が調査されている。5号住居跡から鉄片118点、7号住居跡から鉄滓、39号住居跡から鉄片200余点が出土している。鉄片はいずれも細片で、製品の型どりをした後の鉄屑が、あるいは再加工のために工房に集められた回収品かとみられている。

 以上は熊本県教育委員会などによる各遺跡の報告書、奥野正男氏の「鉄の古代史 弥生時代」、菊池秀夫氏の「邪馬台国と狗奴国と鉄」などを参照したが、奥野氏はその著書で弥生時代の「後期後半から終末期にかけて、九州では熊本・大分両県に鉄鏃の増加が目立つ。その出土遺跡は熊本県玉名郡・菊池郡・山鹿市・阿蘇郡など、主に福岡・熊本県境の山間部に多い。山鹿市方保田遺跡、阿蘇町下山西遺跡、大津町西弥護面遺跡などからは、いずれも多数の鉄鏃を主とし、数百点の鉄器が出土している。筑紫平野や熊本平野などにみられる平地集落と比べ、けっして耕地に恵まれているとはいえないこれら山間部の集落に、多量の鉄鏃が集中しているのはなぜだろうか。私は、いま熊本・福岡の県境となっている大牟田、玉名、菊池にかけての山地は、三世紀頃も、邪馬台国と狗奴国との国境地帯だったと考え、当時この国境一帯のムラに、鉄鏃を集中させるような軍事的緊張がつづいていたものと想定している。」と述べている。私は基本的にこの考えに賛同する。ただし、氏が「邪馬台国」としている個所を「倭国」あるいは「北九州倭国」と読み替えておきたい。


鉄の古代史―弥生時代
奥野正男
白水社


邪馬台国と狗奴国と鉄
菊池秀夫
彩流社




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする