goo

島原とは、揚屋と置屋(壬生・島原散策13)


写真は、島原の大門

島原とは
島原はもちろん、昔の花街です。
最初は豊臣秀吉の許可で、今の京都御苑の南側にありました。
それが徳川家康により、東本願寺の北側に移転になりました。
その約40年後、今度は徳川家光により、現在の場所に急に移転になりました。

当時は、朱雀野(しゅしゃかの)といい、島原とはいわれていませんでした。
しかし、急に移転命令が出たのもだから、移転はてんやわんや。
その状況が先年にあった“島原の乱”さながらであったので、ここが“島原”といわれるようになったそうです。

揚屋(あげや)と置屋(おきや)
揚屋はただの宴会場で、直接芸妓さんを抱えてはいません。
そこで、芸妓の所属事務所である置屋から芸妓さんを派遣してもらうのです。
そしてその置屋が「輪違屋」で、揚屋が「角屋(すみや)」だった訳です。

揚屋と茶屋
共に芸妓を呼んで宴会する点では同じですが、揚屋の料理は自前、茶屋の料理は仕出し(外注)です。
また揚屋では昼間から俳句を詠み、お茶席の後に宴会をしていたので、大座敷に庭園と茶室がないと条件を満たしません。
そしてココ角屋は、その揚屋の条件を満たす唯一の現存する遺構だそうです。




コメント ( 3 ) | Trackback ( )