日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

猿と雀

2012年09月19日 11時05分12秒 | 思うがままに

スワミ・サッチダーナンダ師の教えの中から抜粋しましょう。

       ★
私は子供の頃に聞かされた『パンチャ・タントラ』の中の小話を、今でも思い出す。

ある雨のこと。一匹の猿が、全身ずぶぬれで木の枝にすわっていた。同じ木の、ちょうど向かい合わせになった小さな枝に、一つの巣がぶら下がっていて、中に一羽の雀がいた。
雀はだいたい枝の先端に巣を作るものなので、それは垂れ下がっていて、微風の中でゆらゆら回転する。
巣は中がちゃんとした部屋になっていて、上は小部屋と応接室、下は寝室と、新しく子供が生まれてきたときのために、子供部屋まである。いや本当にそうなのだ。

それで、その雀が暖かくて居心地のいい巣の中から外を眺めていると、その哀れな猿の姿が目に入った。そこで雀は
「ねえ君、僕はとっても小さいだろ。君みたいに手もないし…。小さなくちばしだけしかね。でもそのくちばしだけで、こんな雨の日もあろうかと思って、ちょっとした家を作っておいたんだ。この中にいれば、雨が何日も降り続いたって、暖かいしね。何でもダーウィンとかいう人が、君たち猿は人間の祖先だって言ったんだってね。だったらどうして頭を使わないの?雨をしのげるような小屋を、ちょっとどこかに作ったら?」

それを聞いたときの猿の顔ときたら、ものすごい形相で、
「何だと、このチビ助め!俺に説教しようてのか。自分は巣の中にいて気持ちがいいもんだから、俺をからかってるのか?ようし見てろ、どういうことになるか思い知らせてやる!」

そう言うと猿は、その巣をずたずたにひき裂いてしまった。哀れな雀は雨の中に飛び出して逃げ、猿と同じようにずぶ濡れになってしまった―

         ★

私たちがアメリカに行き、スワミ・サッチダーナンダ師に直に会いたいと思ったきっかけはこの教えにあります。

スワミ・サッチダーナンダ師はさらにー
「こういう猿にはときどき出くわすものだがそこであなたが意見をすれば、それは侮辱と受け取られる。もしある人の中に少しでもそういう気配を感じたら、離れていよう。彼らはいずれ彼ら自身の経験によって学ばねばならない。そういう人に忠告すると、あなた自身が平安を失ってしまうだけだ」とおっしゃっています。

これは「ヨーガ・スートラ」慈悲喜捨という、人との関わりの中で心がけたい教えの中の捨のとらえ方です。
私たちは、どんな一瞬も「幸福、不幸、美徳、悪徳」という4つの環境のどこかにあります。だから4つの鍵さえもっていればどこに出くわしてもそれを乗り切ることができる…と。

幸福な人に出会ったら友愛(慈)の鍵を使い、心から喜んであげなさい。
不幸な人に出会ったら慈悲深い心(悲)で接しなさい。
美徳の人に出会ったらその人を羨むことなく、その美徳を喜び讃えなさい。(喜)
そして、悪徳な人に出会ったら捨(無関心)でありなさい。

しかし、私たちはこの真逆をやっているのが現実です。
人と人、国と国の関係を考えても他(人)の繁栄は妬ましい。自分さえ幸せならば人の不幸は何とも思わない。徳のある人を褒めると、必ず水をさす人がいる。つまり嫉妬するのです。そして、悪徳な人には、つい意見したくなる。

実践が難しいから修行なのでしょうね。

ここで改めて、この4つの鍵を胸に留めたいと思います。
やっぱり「心の平安」なくしてヨーガは語れませんね。(荻山貴美子)

コメント (2)
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