先日の 「 熊日すぱいす 」 に菩提樹苑が掲載されました。
お墓のまもり方についての相談会
「 無縁墓地が増えていることをご存知ですか ? 」
という副題のもと、
「 少子化・核家族化による承継者の問題、
子どもの結婚・転勤など、
さまざまな事情で弔う縁者がいない“無縁墓地”が
増えていることをご存知ですか。
お墓の承継についてお悩みの方は、
菩提樹苑の相談会にご参加ください。」
という内容です。
また、菩提樹苑では 「 全日本墓苑協会認定の墓地管理士 」 が
お一人お一人相談にのってくれるそうです。
以前も 「 NHKのドキュメンタリー 」 で
『 無縁社会 』 というものを取り上げていました。
生きている人間の世界も死後の仏さんの世界も無縁になっていくという
悲しい現実があるようです。
( 無縁社会、ということもNHKが作った造語なのですが )
「 無縁 」 という言葉には
なんとも寂しい響きが伝わってきます。
このこともよくよく考えていかなければいけない問題です。
しかし、よく考えてみると、
お寺 とは有縁世界だと思います。
「 一切衆生 」 とか 「 南無三界万霊 」 というように
一切の生きとし生けるものはすべてが何かの縁でつながっているのです。
すべてのいのちを供養していくのは私たちの務めです。
だから、無縁ではないのです。
新聞記事で、
病気の母が一人娘に迷惑をかけたくない、
自分が死んだ後は海に散骨してほしい。
娘は母の言うとおり、三回忌が終わって海に散骨に行った。
しかし、全部はまくことができず、半分はお寺に預けている。
ということを読みました。
散骨 ということも、本人はいうけれども、
供養ができるのなら、供養してほしいというのが
本音ではないかと思います。
海が好きだったから、といって、まくほうの立場はしそれでいいかも知れませんが、
まかれた海で漁業に携わっているかたらすれば、
これまた、迷惑な話だと思います。
私としては 「 無縁 」 ということはないのだ、
お寺としてはどこまでも供養していく、というのが立場です。
生きとし生けるいのちはどこかでつながっている。
それによって生かされている、私たちが供養していくのは
私たちの責務ではないかとも思います。
そういうことも考えておかなければいけない問題ですね。
時間が取れれば相談されるといい智慧をいただけると思います。
お墓のまもり方についての相談会
「 無縁墓地が増えていることをご存知ですか ? 」
という副題のもと、
「 少子化・核家族化による承継者の問題、
子どもの結婚・転勤など、
さまざまな事情で弔う縁者がいない“無縁墓地”が
増えていることをご存知ですか。
お墓の承継についてお悩みの方は、
菩提樹苑の相談会にご参加ください。」
という内容です。
また、菩提樹苑では 「 全日本墓苑協会認定の墓地管理士 」 が
お一人お一人相談にのってくれるそうです。
以前も 「 NHKのドキュメンタリー 」 で
『 無縁社会 』 というものを取り上げていました。
生きている人間の世界も死後の仏さんの世界も無縁になっていくという
悲しい現実があるようです。
( 無縁社会、ということもNHKが作った造語なのですが )
「 無縁 」 という言葉には
なんとも寂しい響きが伝わってきます。
このこともよくよく考えていかなければいけない問題です。
しかし、よく考えてみると、
お寺 とは有縁世界だと思います。
「 一切衆生 」 とか 「 南無三界万霊 」 というように
一切の生きとし生けるものはすべてが何かの縁でつながっているのです。
すべてのいのちを供養していくのは私たちの務めです。
だから、無縁ではないのです。
新聞記事で、
病気の母が一人娘に迷惑をかけたくない、
自分が死んだ後は海に散骨してほしい。
娘は母の言うとおり、三回忌が終わって海に散骨に行った。
しかし、全部はまくことができず、半分はお寺に預けている。
ということを読みました。
散骨 ということも、本人はいうけれども、
供養ができるのなら、供養してほしいというのが
本音ではないかと思います。
海が好きだったから、といって、まくほうの立場はしそれでいいかも知れませんが、
まかれた海で漁業に携わっているかたらすれば、
これまた、迷惑な話だと思います。
私としては 「 無縁 」 ということはないのだ、
お寺としてはどこまでも供養していく、というのが立場です。
生きとし生けるいのちはどこかでつながっている。
それによって生かされている、私たちが供養していくのは
私たちの責務ではないかとも思います。
そういうことも考えておかなければいけない問題ですね。
時間が取れれば相談されるといい智慧をいただけると思います。