本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「 OJIGI 」  長友選手

2012-01-13 22:31:26 | 住職の活動日記
 「 MOTTAINAI 」 と同じく、

「 OJIGI 」 も国際語になるのではと、ローマ字で書きました。


 インテルの 「 長友選手 」 ゴールを決めるとお辞儀をしています。

 「 OJIGI Performance 」 として、新聞にも取り上げられ、

向こうの方もぎこちなくも、お辞儀を真似ておられました。


 「 頭を下げる 」   東洋独特の作法でしょう。

このことは、仏教に由来しているのではないかと思います。


 「 南無阿弥陀仏 」  とか  「 南無妙法蓮華経 」 とか

真言宗では 「 南無大師遍照金剛 」 と、唱えます。

「 南無 」  インドの言葉で 「 ナマス 」 という言葉が訳されずに

そのまま音写されたのです。

今でも、インドでは朝夕の挨拶は 「 ナマステ 」 と、合掌して頭を下げます。


 そういうと、西洋人は挨拶といっても、頭を下げることはしないようです。

握手して、顔を見て、目と目をそらさないようです。

ここらにも、生きてきた歴史の違いがあるようです。

目をそらし頭を下げたら、殺されるかもしれない ??  というような

こともあったのでしょうか。

頭を下げるということは、あまりしないようです。


 仏教では、お辞儀、という簡単なものでなく、

「 五体投地 」 といって、体全体を投げ出すのです。

チベットの方々が 「 ポタラ宮殿 」 へ向かって、

尺取虫のように、体を投げ出しながら進んでいかれる、という

とても感動的な姿を拝見したことがあります。

 あの姿が 「 南無 」 という、自分の身を投げ出すという

姿なのです。

 一見、今の時代からすると、

「 頭を下げる 」 

どことなしか、人に負けたような、屈服したような

感じさえ、にもとられ、あまり進んでされなくなったように思います。


 若いときは、人に頭を下げる、ということは

自尊心が許さないものです。

 しかし、年とともにでしょうか ?

頭を下げるという、安心感のようなものを感じます。

 厳密には 「 頭を下げたのではない 」 

      「 頭が下がる 」  ということです。

人間の本質は 「 頭を上げたい 」 のではなく、

ほんとうは 「 頭が下がる道 」 が欲しいのです。 

なにか、「 道 」 というものにふれて、

満足して頭が下がる、ことが出来るのだと思います。


 偉人といわれる方々は、

自分が満足して、頭が下がるものを発見されたのだと思います。

茶道にしろ、歌の道、または各宗派のお祖師といわれる方は

その 「 頭が下がる 」 ことによって無限の道を見つけられたのです。



 長友選手も、自分だけの力ではない、皆さんのおかげで

ゴールを決めることが出来た、

そういう思いをこめて 「 OJIGI 」 をされたのでしょう。

「 おれが決めた 」 といわずに、

すべてのおかげと、謙虚に頭を下げる、

西洋の方には 「 OJIGI Performance 」 と、

とても新鮮な行為と写るのでしょう。


 このことも、国際語として皆さんに認識されると、いいですね。





コメント
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