「 MOTTAINAI 」 と同じく、
「 OJIGI 」 も国際語になるのではと、ローマ字で書きました。
インテルの 「 長友選手 」 ゴールを決めるとお辞儀をしています。
「 OJIGI Performance 」 として、新聞にも取り上げられ、
向こうの方もぎこちなくも、お辞儀を真似ておられました。
「 頭を下げる 」 東洋独特の作法でしょう。
このことは、仏教に由来しているのではないかと思います。
「 南無阿弥陀仏 」 とか 「 南無妙法蓮華経 」 とか
真言宗では 「 南無大師遍照金剛 」 と、唱えます。
「 南無 」 インドの言葉で 「 ナマス 」 という言葉が訳されずに
そのまま音写されたのです。
今でも、インドでは朝夕の挨拶は 「 ナマステ 」 と、合掌して頭を下げます。
そういうと、西洋人は挨拶といっても、頭を下げることはしないようです。
握手して、顔を見て、目と目をそらさないようです。
ここらにも、生きてきた歴史の違いがあるようです。
目をそらし頭を下げたら、殺されるかもしれない ?? というような
こともあったのでしょうか。
頭を下げるということは、あまりしないようです。
仏教では、お辞儀、という簡単なものでなく、
「 五体投地 」 といって、体全体を投げ出すのです。
チベットの方々が 「 ポタラ宮殿 」 へ向かって、
尺取虫のように、体を投げ出しながら進んでいかれる、という
とても感動的な姿を拝見したことがあります。
あの姿が 「 南無 」 という、自分の身を投げ出すという
姿なのです。
一見、今の時代からすると、
「 頭を下げる 」
どことなしか、人に負けたような、屈服したような
感じさえ、にもとられ、あまり進んでされなくなったように思います。
若いときは、人に頭を下げる、ということは
自尊心が許さないものです。
しかし、年とともにでしょうか ?
頭を下げるという、安心感のようなものを感じます。
厳密には 「 頭を下げたのではない 」
「 頭が下がる 」 ということです。
人間の本質は 「 頭を上げたい 」 のではなく、
ほんとうは 「 頭が下がる道 」 が欲しいのです。
なにか、「 道 」 というものにふれて、
満足して頭が下がる、ことが出来るのだと思います。
偉人といわれる方々は、
自分が満足して、頭が下がるものを発見されたのだと思います。
茶道にしろ、歌の道、または各宗派のお祖師といわれる方は
その 「 頭が下がる 」 ことによって無限の道を見つけられたのです。
長友選手も、自分だけの力ではない、皆さんのおかげで
ゴールを決めることが出来た、
そういう思いをこめて 「 OJIGI 」 をされたのでしょう。
「 おれが決めた 」 といわずに、
すべてのおかげと、謙虚に頭を下げる、
西洋の方には 「 OJIGI Performance 」 と、
とても新鮮な行為と写るのでしょう。
このことも、国際語として皆さんに認識されると、いいですね。
「 OJIGI 」 も国際語になるのではと、ローマ字で書きました。
インテルの 「 長友選手 」 ゴールを決めるとお辞儀をしています。
「 OJIGI Performance 」 として、新聞にも取り上げられ、
向こうの方もぎこちなくも、お辞儀を真似ておられました。
「 頭を下げる 」 東洋独特の作法でしょう。
このことは、仏教に由来しているのではないかと思います。
「 南無阿弥陀仏 」 とか 「 南無妙法蓮華経 」 とか
真言宗では 「 南無大師遍照金剛 」 と、唱えます。
「 南無 」 インドの言葉で 「 ナマス 」 という言葉が訳されずに
そのまま音写されたのです。
今でも、インドでは朝夕の挨拶は 「 ナマステ 」 と、合掌して頭を下げます。
そういうと、西洋人は挨拶といっても、頭を下げることはしないようです。
握手して、顔を見て、目と目をそらさないようです。
ここらにも、生きてきた歴史の違いがあるようです。
目をそらし頭を下げたら、殺されるかもしれない ?? というような
こともあったのでしょうか。
頭を下げるということは、あまりしないようです。
仏教では、お辞儀、という簡単なものでなく、
「 五体投地 」 といって、体全体を投げ出すのです。
チベットの方々が 「 ポタラ宮殿 」 へ向かって、
尺取虫のように、体を投げ出しながら進んでいかれる、という
とても感動的な姿を拝見したことがあります。
あの姿が 「 南無 」 という、自分の身を投げ出すという
姿なのです。
一見、今の時代からすると、
「 頭を下げる 」
どことなしか、人に負けたような、屈服したような
感じさえ、にもとられ、あまり進んでされなくなったように思います。
若いときは、人に頭を下げる、ということは
自尊心が許さないものです。
しかし、年とともにでしょうか ?
頭を下げるという、安心感のようなものを感じます。
厳密には 「 頭を下げたのではない 」
「 頭が下がる 」 ということです。
人間の本質は 「 頭を上げたい 」 のではなく、
ほんとうは 「 頭が下がる道 」 が欲しいのです。
なにか、「 道 」 というものにふれて、
満足して頭が下がる、ことが出来るのだと思います。
偉人といわれる方々は、
自分が満足して、頭が下がるものを発見されたのだと思います。
茶道にしろ、歌の道、または各宗派のお祖師といわれる方は
その 「 頭が下がる 」 ことによって無限の道を見つけられたのです。
長友選手も、自分だけの力ではない、皆さんのおかげで
ゴールを決めることが出来た、
そういう思いをこめて 「 OJIGI 」 をされたのでしょう。
「 おれが決めた 」 といわずに、
すべてのおかげと、謙虚に頭を下げる、
西洋の方には 「 OJIGI Performance 」 と、
とても新鮮な行為と写るのでしょう。
このことも、国際語として皆さんに認識されると、いいですね。