本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自燈明・法燈明

2021-02-02 19:53:17 | 十地経

自らというと

自分の考えかと思ってしまいがち

ですが、

自というと、

自己もあり、自我もあります

ですから、自分の我執

ということではないはずです。

そこで、講義では

 

「法に依れということをね、

それから自己に依れと。

こういう意味は

これはダルマ、これはアートマン

アートマンは我とも訳しますけど

法と我とに依れと。

けどこの場合、

我執に依れという意味では

ないんであって、

我とか法とかいうのは

これは言葉ですから、

法という言葉。

法というのも我というのも

言葉にすぎんです。

だから我といっても

自我という見解を立てるのなら

それは言葉に迷っている、

言葉に固執しているわけです。

法というものも、

法という言葉に固執すれば、

やはり法に迷っている

ということになる。

だから、

一切法は無性であると、

その固執を破るわけですね。

 

そのときに、

他に依るなと、と書いてある。

それが強いんでしょうや。

他に依るなと。

法以外のものに依るなと、

法に依れと。

自らに依れと、他に依るなと。

他に依るということを

禁じてあるのが

仏教の面目なんです。

 

神とかそういうものを

立てるんじゃないですわね、

仏教では。

インドの宗教でも、

ギリシャの宗教でも、

セム民族の宗教でも、

何かを立てるわけです。

超越的な存在者を立てる。

それと違っているのが

仏道というもんでしょう。

立てないんだ。

 

神はないんだ、

ということをいうんじゃない、

あるかも知らんけど。

神はないんだということも

主張ですしね。

あるというのも一つの主張です。

 

論証がいるわね。

何故あるんかと。

ないなら何故ないのかという

論証がいるでしょう。

だからして、

無神論というようなことでも

ないんです、仏教は。

あるかもしらんけど、

ただ必要がない。

頼る必要がない。

 

法を立てるといっても、

法を考えて立てるんじゃ

ないんです。

法を発見したんだ、

法は見いだしたもんです。

だから、法を見ると。

見という字が非常に大事なんです

考え出したもんじゃない、

思索でね。

出会ったもんです。

 

だから法に出会った最初の人が

ゴータマ・ブッダなんです。

歴史上の仏陀として出てくる。

釈迦仏でしょう。

だから初めて法を見出したんです

それによって立てるわけですわ、

法をね。

作ったんじゃないですわね。

仏陀が法を考えて

作ったんじゃない。

法に出会ったんだ。

出会ってみたら法は初めから

あったもんです。

 

法によってその法を鏡として

自己を照らすというんで、

自己に依れというわけです。

法を鏡として、自己に依る。

自分を見ようと思っても

自分は見えんわね、

鏡に映さなきゃ。」

 

というようにあります。

自と法ということ

お釈迦さまの最後の言葉

「己を灯として

 他を灯としてはならない

 法を灯として

 他を灯としてはならない」

という言葉は

如何に私たちが他を依り所と

しているかということです。

自と法とを灯とする、ということは

本当に難しいことです

他に依った方が

はるかに簡単なように思います。

 

この事はずっと続いていきます。

 

 

 

 

 

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