本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

迷いを迷いと知れば…さとりになる

2021-02-19 20:29:53 | 十地経

十地経の講義でも

上っ面で聞いているせいか

単純には

立てとおっしゃる

立つと坐れとおっしゃる

一体どうすればいいのか

という疑問が起こってきます

両方のことを言われているようで

これというような

決め手がないように思えてきます

同じようなことを三浦先生も

思っておられたようで

安田先生に聞かれたら

「だから、よく考えなさい」

という答えが返ってきたそうです

 

今また、こうやって

読み返していると

やはり丁寧に話されていることが

よく分かります。

 

「この廻転エテンということが

自覚道の要点だと思うんです。

迷った者を、染分ゼンブンを捨てて

つまり迷っているものを捨てて

それからその正反対のさとりを

外からもってくるじゃない。

そうすると、

さとりは天下りになります。

 

キリスト教の神を立てれば

啓示ということになります。

外から輸入してくるんでもない

そういうもの、啓示は信仰や。

自覚ではない。

御言葉のままにということになる。

そうかといって

我々の考えを、

迷っている我々の考えを

積み重ねて合理化して、客観化して

究竟的なものに達するんじゃない。

そうすると

理論で一切を解決しよう

ということになるでしょう。

人間を延長して究竟するという

ことになると、それは人間主義

でしょう。

それでは理性の道です。

そうかといってそれをやめて、

さとりを天下りでもらおうと、

こういうことになると

奇蹟でしょう。

啓示でしょう。

だからして、奇蹟でもないし、

そうかといって

積み重ねでもない。

 

そうすると第三の道は

どこにありますか。

それは転テンでしょう。

迷いを迷いと知れば、

迷いの全体がさとりになる

わけです。

廻転エテンですね。

これが自覚道です。

 

迷っているのも意識だし、

さとるのも意識です。

迷っとる意識がさとる意識に

転ずるんです。」

 

こういう話です。

私にとっては聞いただけでは

なかなか分からなかった問題が

こうやってじっくり

読み書きすると

ほどけていくような気がします。

しかし、

この「転」ということが

曲者で、

迷いを迷いと知る、

とありますが、

かといって、迷いもなかなか

楽しい面もあり

上手に迷わせてくれれば

これに越したことはないのですが

「どうせ私をだますなら

 だまし続けて欲しかった」

という歌がありますが、

そういう具合に迷っていれば

一時的には楽しいこともあります。

 

でもここで言われるように

ついつい、私たちの考えが及ばない

のなら、いっそのこと

簡単に天下り的にさとりという

そういう奇跡が起これば

と思ってしまいます。

その反対に、人間主義で

何でも人間の考えでどうにかなる

ということでも行き詰まりが

出てくると思います。

 

そこで、こういう

迷いを迷いと知るということ

何が迷いなのか

お経には厳密に書いてあるので

そこのところを

迷いの内容を見ていく必要が

あるように思います。

 

 

 

 

 

コメント
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