本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

足裏を拝む

2021-02-03 19:38:16 | 住職の活動日記

お釈迦さまが亡くなられて

荼毘(火葬)に付されるのですが

十大弟子の中で頼りにしていた

舎利子は先に亡くなられ

さらに目連尊者も

亡くなられています。

お釈迦さまの教団を

率いているのは摩訶迦葉です

ですから摩訶迦葉が着くまで

火葬を待っていたのです。

摩訶迦葉が来て荼毘に

付されますが、

教団は火葬には加わらず

在家の信者の方々で

執り行われたのです。

そして、

その遺骨を取り合ったとあります

その仏舎利(遺骨)は八つの部族

に分けられたといいます。

 

お釈迦さまの涅槃の後

それまではお釈迦さまが

中心でしたが

その方がいなくなったので

まだ、仏像とかは造られず

菩提樹とか輪宝とか仏足跡が

お釈迦さまの象徴的なものとして

その存在を示していました。

 

今でも見かけますが、

タイとかで僧侶や国王に対して

ひれ伏して足を拝むという

ことが行われています。

ひれ伏し足を拝む

つまり私たちがやっている

五体投地です。

 

足という存在を忘れがちですが

ふと気がついたのは

ヨガの教室でまず足裏を丁寧に

揉みほぐし、指を一本ずつ離し

手を足の指とで握手をして

足の指を回す

そういうことをしていて

足裏をじっと眺めると

随分苦労しているというか

手を入れてない

ということに気がつきます。

 

「妻の足裏を拝め」

といった方がおられます

苦労をかけた妻の足を拝み

揉んでねぎらうというのです

(まだ私はやっていませんが)

私達を黙って支え

どこへ行くにもまず足が身を運ぶ

その足の存在を忘れています。

 

仏教の言葉にも

「脚下照顧」という

自分の足元を見よ

ということがあります

前へ前へと言いながら

自分の足元を忘れていては

まず前には進めません。

それから、

『十地経』ですが

十地という「地」がついています

足がつくところは大地です

浮足立つ、ということもあります

足がちに付いていなければ

本当にことは出来ないのでしょう。

 

禅宗のお坊さんは

ほとんど素足で過ごします

これは大地に足をしっかりとつける

ということのようです。

今はほとんど裸足でいることが

なくなりました

昔は、リレーとかいうと

裸足になって走ったものです

最近では裸足の感覚をなくして

しまいました。

「しっかと大地踏みしめて」

ということがなくなったようです

 

「尊いのは 頭でなく

手でなく 足の裏である

一生人に知られず

一生きたない処に接し

黙々として

その務めを果たしてゆく

足の裏が教えるもの

しんみんよ

足の裏的な仕事をし

足の裏的な人間になれ

頭から 光が出る

まだまだだめ

顔から 光が出る

まだまだいかん

足の裏から 光が出る

そのような方こそ

本当に偉い人である」

 

という

坂村臣民さんの詩があります。

忘れてしまいがちな足の裏

今一度、じっと眺めて

丁寧にゆっくりもみほぐして

みてください。

是非、奥様の足の裏も

 

 

 

 

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