本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

真如 ありのまま

2020-12-20 21:11:07 | 十地経

「真如」という言葉も

講義の中でよく出てくる言葉です

分かったような …

でも改めて問われると

分からないような、

 

そこで念のため辞書をみて見ると

真如、インドの言葉では

「タタター」といい、

意味は、

もののありのままのすがた

というようにあります。

 

如来という言葉もあります

如からやって来たもの

ということで如来、

タターガタといいます

タタターからアーガタは

来るという意味ですから

 

また、真如ということは

如如とも如実とも単に如とも

いいます

ものがあるが如くにおかれてある

あり方、ということです

 

「ありのままで~」

というような歌もありましたが

この場合は英語で

「Let it go」 というようです

そういえば、

子どもたちがさかんに

レリゴー、レリゴーといって

いたようです。

 

ありのままということも難しく

その人の本当の姿ということです

が、これが私のありのまま

といわれても

なかなかそうとは言い切れません

 

如来ということも

如からやって来た人

本来の人間からやって来た

というか、

真なる姿に戻った

または真なる姿から来た

ということで、真如という

のかもしれません。

 

今いる私からは

本当の自分ということは

分からないと思います

自分を超えてみて

そこから見直してみると

自分という姿が見えるのでしょう

 

自分を見るということも

仏教には三道といって

見道・修道・無学道という

ことがあります

修行の一つの段階ですが

この見道という位が

『十地経』でいうと

第一番目の初歓喜地にあたる

のですが、

まず見道というのが

いろいろな聞法思惟によって

初めて智慧が起こって

仏教の真理が観えたという位

 

そこから

いよいよ具体的な物事に対して

何度も何度も繰り返して

修練、修行していくという位が

修道ということです

先生は、「雑夾性」という言葉で

よく言われておられます

見えたとしてもまだそこには

智慧の中にも不純物がある

それを取り除いていくのが

修道だと、

『十地経』というのは

その修行の道程だと、

 

最後に、無学道があります

世間では無学というと

へりくだった言い方ですが

仏教では仏の位を無学道と

いいます

もはや学ぶべきものは何一つない

ということで無学といいます。

 

こういう立場に来れて

初めて、「如」

本当の自分の姿ということが

見えてくると思います。

 

ありのままの本当の自分

ということは

あえて言えば、

自分にとって都合のいい自分

ということでしょう。

 

ですから、ありのままの姿

というのは

そう簡単には見えないと思います

それは、すべてのことにおいて

自己中心的に見ているので

自分にとって損か得か

という判断で物事を見ている

そういう立場では

本当に自分というのは

なかなか現れてこないのでしょう

 

ありのまま、といっても

なかなか難しいものがあります。

 

 

 

 

 

 

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散歩の途中で見かけた一本の南天

2020-12-19 20:11:26 | 住職の活動日記

通るたびに気になっていた

小さな南天

 

 

溝の淵のわずかな隙間に

根をお下ろしたのです

種はどこから飛んできたか

周りを見渡すと

5mほどの道の向かい側に

南天の木があります

飛んできたのか転がってきたのか

ちょうど溝の隙間に納まり

根を下ろしたのでしょう

 

 

今年生えたようなものでは

ないようです

たくさんの実が落ちて

その中の一つがここに納まった

さいわいわずかな土もあり

水も程よく流れてきて

こうやっていのちを繋いでいます

 

 

そう思いながら見ると

南天、結構生命力があるようで

この岩の間にも芽吹いています。

 

種が落ちたからといって

生え出てくるものでもなく

石の上では生きられないし

また水が多くても

種は腐ってしまいます

そして日も当たらなければ

育たないでしょう。

 

命が育っていくということは

本当に沢山の縁があればこそです

どの縁が一つ欠けても

命は芽生えないでしょう。

 

それから「南天」が気になり

見て歩くと

いたるところで見かけます

「南天」は「難転」に通じ

難を転じてくれるということで

家の鬼門とか玄関に植えて

邪気を防いだのでしょう。

 

 

お店の玄関先です

実はなっていないものの

グラデーションで紅葉しています

 

 

北野天満宮の南天

見事に生っています

この葉を見て思い出すのは

赤飯といえば南天の葉と奈良漬け

縁起のいいお赤飯に難を転じる

南天を添えたのでしょう

しかし、今はその葉もプラスチック

になってしまいました

 

 

マンションの入り口にも

やはり植えてあります

 

 

この南天も玄関の入り口近く

あります。

 

この寒い冬の時期に

真っ赤な実を付ける南天は

見ていても元気をもらえそうな

そういう姿で伸びています。

 

さて、溝の淵に生えた

「根性南天」

掃き掃除のときに取られて

しまうかもしれません

不用意に踏んづけられて

枯れてしまうかもしれません

しかし、

だんだん大きくなっては

邪魔者になり切られてしまうかも

生き物が順当に育っていくのは

本当に難しい

あらゆるご縁の賜物です

それこそ

「今、命有るは有り難し」

です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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無上菩提

2020-12-18 20:57:58 | 十地経

「無上菩提」ということ

難しく言えば

「阿耨多羅三藐三菩提」

インドの言葉そのままでいうと

アノクタラサンミャクサンボダイ

となるのです

別な訳し方には

「無上正等正覚」

(ムジョウショウトウショウガク)

簡単には「無上菩提」と

 

この上ない究極の菩提(さとり)

ということです

上がないという表現

とても面白いともいます。

普通、私たちは厳しい修行とか

すると、もうこれで

自分は最高の位に行った

とか思ってしまいますが

そういう心を否定して

上がないのだ、

修行に終わりはないという

ことを戒めているのでしょう。

 

読んでいる所は

第65講

昭和53年5月30日です

講義の終わりに、

「仏教が一番、徹頭徹尾

自らに依ってある願を

明らかにするために、

一切は他に依ってあるんだと。

他に依ってある

ということによって、

実体性を破るんだ。

仏教学の特色というのは

形而上学でもないんだ。

神学でもない。

その、存在論ですね。

そんなことが今僕の頭に

あるんですけどね。

長い間うろうろしてきましたけど

何十年。

今年僕は70、

70ぐらいにならんと

分からんもんです、年寄らんと。

70年かかって結晶してきた思想

ですけどね。

大体分かるでしょう。

いおうとするところは。」

 

というところで結んでおられます。

安田先生は昭和57年(1982)

2月19日に亡くなられました。

ですから、この講義は

亡くなられる4年前になされた

ものです。

 

70過ぎても何も分からず

いまだウロウロしている自分が

恥ずかしくもあり

今まで何をしてきたのだろうと

考えさせられます。

 

逆に講義の前を見ると

「菩提心を修行する場所は

厳しさの世界で、

厳しさを逃避したらそれは

阿羅漢になってしまう。

無上菩提心、願心というのもを

修練する切磋琢磨する場所は、

厳しい人間の世界しかないんだ

煮ても焼いても食えん、

穢土ですね。

それだけが清浄を生み出してくる

 

だから政治問題でも経済問題でも

それからイデオロギーの問題でも

この厳しさこそが

無上菩提心を磨く、

一番近づいとる場所なんだ。

そういう意味で、

人間の世界と無上菩提心と

いうものは絶対反対で

結びついとるんです。

 

人間の中で人間に耐えるんじゃ

ないんですよ

人間の一番底じゃない

人間の底を破った底がある

人間を背負うような底があるわね

そうでしょう、

そういうもの…、

人間の底を破るが故に

人間を上に超えてしまうんだ

そういうものがないと

生きれんでしょう。

 

無上菩提がなければ

自己を失わずに不動である

ということはできんです。

上がないんですから。

だからわしはもう

仏教を卒業したということは

ないんです。

上がないんですから。」

 

と続けられておられます

こころにグサッとくる言葉

難しいですけど

アップしました。

分からん言葉ですけど

何かしら感じることがあります

難しくても

齧カジってみるのも

おもしろい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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仏教の存在論

2020-12-17 21:07:29 | 十地経

「存在論」

安田先生も、存在という概念が

やかましい概念でしょう。

と仰っておられるように、

難しい問題です。

ちなみに、広辞苑には

あらゆる存在者が存在者として

もつ共通の特質やその根拠を

考察する学問。

アリストテレス以来、

形而上学の基礎的部門。

と出てきますが、

 

『十地経講義』ではさらに続けて

「本当に深い真理というものは

そんないかめしいもんで

あるもんじゃないと思うんです。

ああいう体系とか組織と

いうようなものに幻惑される

必要はないと思うんですよ、

深い真理はね。

転んどるもんだと思うんです。

ニュートンのりんごみたいに、

足元に。

ただ気がつかんだけだ。

そういうのが本当に深い真理なんだ

足で踏んどるわね、真理を。

 

あまり近いから分からん、

というだけの話です。

そういうものを表す真理は

真如というんだ。

仏教の理というのはっ真如の理

なんだ。

普通の理性的な理というような

意味じゃない。

 

だから、あるのは、

ただあるんじゃないのであって

依ってあるんだというんです。

これがロゴスなんです。

あるのはあるんじゃないんだ。

あるという経験をいっとるんじゃ

ないんだ。

あるのは依ってあるんだと。

したがってそれ自身としてはない

依ってある限りにおいてあるんだ

これが仏教の存在論だ。

どこにもない存在論。

これほど単純なことはない

依ってあるんだ。

したがってそれ自身としては

ないんだと、

こういう意味でしょう。

 

それが実践になるとどうなるか

とうとですね…

つまり他に依ってあるわけです

だからこれを、依他起エタキ

というんです。

他に依って起こるわけです。

あるいは依他起とか依他生とか

因縁生という意味です。

他に依ってある。

自己自身に依ってある

わけじゃないんだ。」

 

というように続くのですが、

仏教でいう存在論は縁起という

それ自身としてあるのではなく

他に依ってある

ということです。

私自身があるということは

両親がありまたその両親があり

また生きていくうえでは

水や空気、いろいろな食べ物

私に関わってくるあらゆる人々

どれひとつなくしても

私というものは成り立たない

ということです。

 

因縁ということも

辞書には、

結果を生ぜしめる内的な直接の

原因が因で、

外からこれを助ける間接の原因が

縁である。

というように出てきます。

 

風邪をうつされた、というけど

内的原因としては

身体が弱っていたとか

何か他の病気を持っていたとか

いろいろな原因があるわけで

それがたまたま

風邪を引いている人に出会った

ある程度距離を保っていたら

よかったのですが

近距離で話したり食事を共にして

知らないうちに相手の唾液とかが

身に付いてしまった。

ということがあると思います。

相手だけが原因ではなく

自分にも縁を持っていた

ということです。

 

お釈迦さまのさとりも

「縁起の法」「因縁生の法」と

いわれているように

縁起という、縁に依って起こる

これが仏教の根幹です。

単純明快といえば

これほど単純なことはないと

思いますが、

何故かしら、何かいろいろあると

人のせいにして

自分では責任を取りたくない

というのが

私たちの本性のようです。

 

 

 

 

 

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HV・PHV・EV・FCV

2020-12-16 17:15:15 | 住職の活動日記

前を走っている車

ハイブリッド(HV)の

プリウスです。

エコカーとしてアメリカでも

評判の車でしたが、今や、

アメリカではプリウスは

エコカーではなくなったのです。

というのは、今や

エコカーというのは

EV(電気自動車)ということです。

 

HVというのはハイブリッド車

エンジンと電気の組み合わせ。

PHVというのは

HVに電気も充電できる

短い距離であれば電気だけで

走れる車ということです

EVは電気自動車

夜に家で充電し昼間は走る

ですから一切のCO2は出しません

最終のエコカーは

FCVという水素で走る車

ということです。

 

菅総理も宣言したように

2030年代にはガソリンエンジンの

車を販売を禁止する

2050年までには脱酸素

温室効果ガス排出量をゼロにする

と表明されました。

 

後10年でガソリン車の新車販売

はなくなるという

俄かに信じがたい気もします

いま日本で走っている車は

ほとんどがエンジンの車

電気自動車(EV)といえば

日産のリーフぐらいです。

 

そのような中世界の潮流を見ると

アメリカではテスラ―が席巻して

それが世界中に広まっています

その次に来るのが中国です

EVといえば日本はもはや

10位以内にも入っていません

ドイツ車も日本では

あまり見かけませんが

結構、3位4位と上手に位置

をキープしています

ちょっと前までは日本車が

世界の中心のような位置でした

いつの間にか

日本だけがガラパゴス化している

ようにも思います。

 

日本の事情としては

電気自動車(EV)にするに

しても充電設備が間に合わない

ような気もします

高速道路では充電待ちの渋滞が

あったりもします

ガソリンであれば2.3分もあれば

満タンですが

EVの場合は急速でも30分も

かかってしまいます。

 

また、EVが増えればその電気は

どうするのだろう

また、原発を稼働させなければ

間に合わないとも思います、が

これからは

太陽光発電でEVに充電し

その貯めた電気を夜に使う

そういうやり方も考えなければ

いけないようです。

しかし、EVの難点は

環境にいいものの値段が高い

そして走る距離が短いとことです

せめて、

300万円台で500キロ走る

というのが理想ですが、

 

今は電気は主に火力発電で

賄っています

ところが、新聞によると

火力発電でもCO2を出さない

という、

アンモニアを混焼すると

化学反応して出ないという

そういう技術の革新もあるようで

そうなれば原発の必要は

ないようです。

 

しかし何と言っても

究極のエコカーはFCV

水素で走る車です

酸素と反応させて電気を作り

出るのは水だけという

トヨタから新型のミライという

未来の車が発売されました

けど、値段が700万以上

一回の充填で800キロ走れる

もののまだ水素ステーションが

全国で130か所あまり

まだない県もあります

これもネックです。

 

また、コスト面をみて見ると

ガソリン 1km走るのに7円

これがHVだと、4円

さらに電気になると、3.5円

水素ですと5.5円となります。

 

今のところ世界の流れは

EV電気自動車です

普及するにはFCVよりも

早いような気もします。

そうなると

今までガソリン車を作っていた

会社、その各部品関係の会社群は

どうなるのでしょう

今まで日本の産業を支えていた

企業は大きなダメージを受けます

EVが浸透してくると

車の価格は5分の1になる

ということは車の会社は

収益も5分の1になる

ということです

これも大問題です!!

 

車が造られて100年

機械的な発展が

もはや電化製品の一部となる

そういう自動車になってきます

何だか恐ろしさと心配な面も

感じるのですが、

ふと、

自分のことを思うと

10年先、いないかもしれません

 

車の心配より

あんたの心配をしたらどうかと

言われそうですが、

クルマ好きの私には

どうにも気になることなのです。

 

 

 

 

 

 

 

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言語と道具

2020-12-15 20:39:29 | 住職の活動日記

人類・ホモサピエンスの進化

というか発達は

言語と道具を使いこなした

ということです。

言葉をもちその言葉によって

ストーリーを考え

そのストーリーを具体化するために

道具を作りました。

 

脳の中でいうと

言語をつかさどる部分と

道具を使う運動をつかさどる部分

とは別の部分ですが

しかし、この二つは密接な

関係を持っていて

この上手な連携が文明を発達させ

現在の私たちまで

進化してきたのでしょう。

 

ふと思ったのですが

「道具」という字には

「道」という字が使われています

「道」といえば、

ただの道路ではなく、

仏教では「仏道」という言葉も

あって、

修行の道程という意味を

持っています。

 

そこで、辞書を引いてみると

「道具」という言葉も

仏教辞典に載っていたのです。

「道具」とは

修道の用具の意で、

仏道を修めるために必要な

衣鉢その他のもの。

とあります。

さらに詳しくは

三衣(袈裟ところも)

六物(鉢とか坐具など)

百一物ヒャクイチモツ

(百というのは実数ではなく

 修行に必要な多くの物)

というような物がありました

また、密教では修法に必要な

用具を道具といいます。

 

やはり、道を修めるために

必要なものという意味です

お釈迦さまは厳しく規定されて

いたようで必要以上に持つことを

長物チョウブツといって

最低限必要な物しか持たなかった

ということです。

 

丁度、『十地経講義』でも

無上菩提ということが出てきて

この菩提という言葉も

ボディーの音写で訳すと

覚、智、知、道という言葉が

当てられ

仏の最高の菩提を無上菩提といい

そのままのインドの言葉では

阿耨多羅三藐三菩提といい

般若心経によく出てくる言葉です

 

言語と道具

仏教的には教えと修行

言葉を聞いてそれを実践する

人は言葉によってさとり

言葉によって迷います

言葉が正確であるということが

考える上で重要です

言葉がええ加減になると

思考も間違ってきて

それによる実践も間違ってきます

 

よく、こころを大切に

ということを言います

ではその実践とは

物を大切にするということです

物と心も深い関係をもっています

こころ、こころと叫びつつ

物を粗末にしていたのでは

知らず知らずのうちに

自分の心までぞんざいに扱って

しまうことになります。

 

言葉を使い道具を発達させて

きましたが

言葉が乱れてくると

考え方も間違ってきて

その考えで道具を作ると

大変大きな過ちをしてしまいます

間違った大きな野心で

道具を利用する人もいますが

それは戦争にも繋がりかねません

平和に利用すれば

大きな恩恵をもたらします。

 

この「言語と道具」

当たり前のようであり

また身近に迫った大きな問題も

AIとかいう問題

人類に貢献する代わりに

人類をも支配してしまいそうな

危険性も持っています。

 

これからの大きな課題では

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

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今年の漢字は『密』

2020-12-14 20:06:27 | 漢字

今年の漢字は「密」になりました

コロナの感染を防ぐには

「三密」を避けるということで

この「密」が選ばれたのでしょう

 

この字もよく書く字で

でも、バランスが難しく

何度書いても綺麗に書けません

また、真言密教ということもあり

弘法大師の言葉に

「三密加持すれば速疾に顕る」

ということもあって、

また似ていますが

「般若波羅蜜」の蜜は

下が山ではなく虫になっています

 

今一度「密」ということを

調べてみました。

漢和辞典には、

「密」というのは

山の木が生い茂っていることで

閟ヒツに通じて、

ひそかという意味になりました。

そこから

意味もたくさん出てきて

1.秘密という「ひそか」

2.内密という「ひそかに」

3.こまやか、すきまがないという

 「密雲」とか言う言葉もあり

4.数が多いという「稠密」

5.しずか(静)、やすらか

 という意味もあり

6.ちかづく、くっつく「近密」

などなどの意味があります。

 

「三密」というのは

3か6などの意味でしょう。

また「密教」という場合は

1の意味になります。

 

真言密教という場合の密教の

反対の教えは顕教といいます。

簡単には顕教は顕れたという教え

経典の言葉のうえに表されている

あらわに説かれた教え

ということでしょう。

反対に密教は表面からは

受け取ることの出来ない教え

ということでしょう。

 

私たちも自分を振り返ってみると

分かっているようで分からない

自分とは何かと問われて

こうですと言えるものは

ないのではないでしょうか

同じように

仏さまの心の内といっても

まして分かることは出来ません

それこそ隠された秘密な

ことなのです

 

よくよく見てみると

何気なく

私たちは分かったつもりで

また他人のことも分かった

ことにして

お付き合いをしています

秘密の者同士が分かったつもりで

接しているというのは

おかしくもありますが

また、秘密だからこそ

何ごともないように障りもなく

付き合うことが出来るのかも

しれません。

 

真言密教でいう「三密」は

身密・口密・意密で

人間の行いを

身体ですること、

口で言うこと

心で思うことの三つに

集約したのです

その三つの行為に「密」を

付けたのは

それが仏さまの行為になると

それを「三密」というのですが

 

これも適切かどうか分かりませんが

よく小僧時代に言われたことがって

「お金欲しいか?」

「はい欲しいです!」

と答えると

「若いうちは使い方が分からない

間違って使えば大けがのもと」

「本当にお金を使えるのは

仏さまだけだ!」

と言われ、なにかしら

分かったような

キツネにつままれたような

気がしていたのです。

 

ところが、今頃になって

お金の使い方の難しさを感じます

本当に使い方を間違えれば

人も傷つけ自分も損なって

しまいます

ですから、儲けるより

使い方が本当に大切です。

 

そのように

お金を使うという

身密一つとっても

人間が使うと身業という

自分中心の使い方しかできないし

これが

仏さまが使うとなると

自分ということはさておき

他人がいかに豊かになるかを考え

人を生かす、そしてお金も生かす

そういう使い方ができるので

「三業」が「三密」といように

変わってくると思います。

 

コロナ禍にあっての

「三密」ということは

とても大切なことですが

真言宗でいう「三密」という

ことも、その行いすべてが

自分勝手でない

道理に敵っている

行いになっているか

振り返ってみるのも大切な

ことのように思います。

 

 

 

 

 

 

 

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『ホモ・ゼウス』

2020-12-13 20:04:37 | 住職の活動日記

NHK「ETV特集」で

ユヴァル・ノア・ハラリさんの

『サピエンス前史』と

『ホモ・ゼウス』という本を

題材にした番組が

放送されました。

 

とても衝撃的でした。

ハラリさんはイスラエルの

歴史学者で現在44歳

若い方ながらその視点は

今までにないもので

アッと驚くものでした。

上の二巻は今話題になっています。

 

ホモ・サピエンスというのは

ラテン語で「賢い人」という

意味ですが、今の人類を

指しています。

それにもじってでしょう

ホモ・ゼウスと

ゼウスは最高の神

ということですから、

人間が神になろうとしている

ということ、か

人間が神の領域に踏み込んだ

そういうことを

仰っているようです。

 

今の生命科学の進歩

それから人工頭脳AIの進歩は

目を見張るものがあります

人間がAIによって管理され

AIによって仕事もする

そういう時代がまさに

いま、来ているのです。

 

生命科学の進歩は

遺伝子操作で男女の区別

知能の勝れた人類を作り出し

遺伝子を変えることによって

病気にならない身体を作り

というように

神の領域を犯そうとしています

 

それは人間の格差も生み出します

勝れた人はますます豊かになり

そうでないひとは

労働に従事するという

人間が選別される時代が

来るのかもしれません。

 

そういうことからして

ハラリさんのテーマは

人間にとって幸福とは何か

以前と比べて人間は幸せに

なったのか

ということです。

 

そういう視点から人類史を

見ていかれる点は

考えさせられるものがあります。

最後に

ではどうすればいいのか

それは

「自分自身を知ること」

と結んでおられました。

 

ということは、

ソクラテスが言った

「汝自身を知れ」

という問いと重なってきます

仏教でも

「如実知自身」といいます

本当の自分自身を知る

自分の我執にとらわれない

自分を知るということです。

 

「ホモ・ゼウス」ということも

ある面からいうと

人間が考えた最高の状態と

いうことが出来ると思います

すべてが自分中心で

何でも自分の思うように出来る

そいうことからすると

仏教でいう

「天」という世界にも

似ているような気がします。

 

ハラリさんも

オックスフォード大学で

無常・空・無我を洞察する

瞑想をされたそうで

それが自分の人生を変えた

と言っておられます。

そういえば

お話を聞いていると

どこか西洋の一神教的な

考えではなく

それぞれの違いを認めていく

その中で人類のとっての

幸福とは何か

ということを考え続けて

おられるようです。

そういう立場で文明の構造を

見ておられるのは

とても興味深いものです。

 

 

 

 

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天人の五衰

2020-12-11 20:44:29 | 十地経

人間の迷いの世界「六道」

その一番上が「天人」の世界

人間の世界の上が天人

その下には地獄、餓鬼、畜生、

という世界があります。

下から順に

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人

その上が天の世界で

有頂天という言葉もあるように

人間が望む最高の世界

ということです。

 

その天の世界を一歩越えると

仏の世界、

声聞・縁覚・菩薩・仏(如来)

という世界になっていきます。

 

人間という字も

「人の間」と書きますから

地獄と仏の間、人と人との間

ということで

「間」あいだ、ま、ということで

悩みます。

 

その天の世界ですが

人間が考えた

最高の世界なのですが

その天人になって

それが最高というのではなく

滅びていくというのです。

それを「天人の五衰」

といいます。

 

まず、

1、衣服が垢で汚れてくる

2、頭に冠っている花の冠が

 しおれる

3、身体が臭くなる

4、脇の下から汗が流れる

5、自らの位置を楽しまなくなる

という五つの兆候が表れる

といいます。

 

天の世界というのは

面白いもので

人間と仏の中間にあり

いきなり人間から仏になっても

よさそうなのですが

迷いの最高の位として

天という世界があります。

 

このことはとりもなおさず

人間のあり方をよく見てみれば

そういう有頂天になるというか

調子がいい時は

そのようになっているという

ことなのでしょう。

 

天人五衰の兆候が表れると

次はどうなるかというと

人間の世界へ帰り

もう一度苦労してこい

ということがいわれます。

 

『十地経講義』で

「忍」ということがずっと

続いているのですが、

忍の背景というものが智慧である

そういうところから

「仏陀の背景を考えてみると」

ということに話が発展して、

 

「ゴータマブッダの背景は

どこからでてきたかと、

出てきたのは摩耶夫人から出た

摩耶夫人の子宮に宿った。

それで胎生タイショウという

それまでどこから出てきたかと

いうと、

象が入ってくる夢を見た

摩耶夫人から見るとね。

しかしそれは天におったわけで

化生ケショウして天におった

胎生以前に化生する天を

兜率天トソツテンというんだ

弥勒菩薩ミロクボサツの。

兜率天から摩耶夫人に下ったと。

 

なぜそんな必要があるかというと

それは無上菩提のためだと。

無上菩提を成就するためだと。

天におるんでは無上菩提はできん

無上菩提になるためには胎生

胎生というのは人間の世界に

出てくることです。

 

天ではあかん。

人間の世界に出てこんとね、

無上菩提を成就することは

できんのです。

なぜ天では無上菩提にはなれん

のかというと、

 

何か人間というものは

これは、厳しさと激しさ

これが人間を代表するんじゃ

ないでしょうか。

人間は地獄、餓鬼、畜生、

いろいろあるでしょう。

天もあります。

つまり人間の特色はどういうこと

かというと、

厳しさということに

あるんじゃないでしょうか。

煮ても焼いても食えんという

人間ね。

人間の世界というものの特色

じゃないでしょうか。

 

激しいんだ、反抗も。

抵抗も激しんだ。

そして、賢いんだ。

生きるために他を倒さなきゃ

生きれんようになっとるんです

他を犠牲にしなければ

生きれんようになっとる世界だ。

それで競争があるわね。

厳しさという、

一語でいえば厳しさというのが

人間的な生の特色じゃないかね」

 

ということですが、

気持ちのいい天の世界では

無上菩提心は芽生えないと

厳しい激しい人間の世界でないと

菩提心は芽生えないというのは

蓮の花が下には泥沼の蓮根があり

その泥沼があってこそ

あの美しい蓮の花が咲く

というのは、

そういうことを象徴している

ようです。

 

なにかその時でしたか

余談で、

学校も景色のいい

環境が良すぎるのも

勉強は出来んだろう

市井の雑踏の中でこそ

勉強ができるのではないか

弘法大師が造られた綜芸種智院が

都のまん中に作られたのは

そういう意味があるのではないか

ということを話されていました。

 

 

 

 

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北野天満宮、御土居の紅葉

2020-12-10 18:01:55 | 住職の活動日記

北野天満宮の紅梅が咲いた

という記事を見て

そこまで行くなら近くに

「さいき屋」さんの店もあり

足をのばしました。

 

 

古民家風のこじんまりとした店

 

 

「だし巻き」と「サバずし」の

お弁当を食べたことがあり

仕出しの店として有名です。

今どきのようにウーバーイーツ

にも対応しているようです。

 

そこから、北野さんへ

ところが、御土居(おどい)の

紅葉が期間延長で(13日まで)

一歩進むと

 

 

まあ大きな絵馬が掲げられて

います

今年は紅葉も長く見れるようで

 

 

人も少なく

この景色を独占するように

ゆっくり見れました

 

 

この欄干から見下ろす紅葉も

見事なものです

 

 

日が照りだすと一際映えてきます

 

 

ここからゆっくり御土居の上を

歩き紅葉の中を抜けていきます

 

 

御土居というのは

豊臣秀吉が京都の町を護るため

土盛をして大きな土塁を築いた

のです。

今はわずかにその面影を留め

この北野天満宮はよく残っています

 

 

ここがちょうど御土居の上を

歩いているところ

 

 

この上から天満宮の本殿を

間近に見て

 

 

ちょうど屋根の檜皮葺の葺き替え

のようです

 

 

ここら附近から御土居を下りて

下に流れる紙屋川沿いに歩きます

 

 

下から見上げる御土居のもみじも

美しい

 

 

御土居の土手に「悪水抜き」

という穴

御土居の内側に溜まった水を

外に出す側溝です。

 

 

紙屋川に掛かる「鶯橋」を渡り

反対側を戻るように歩きます

 

 

この鶯橋も紅葉と相まって

なかなかの風情です

 

 

このモミジ細い一本の木ですが

その紅葉の広がりは見事に

美しい形を作っています

 

 

この枯れたようなモミジは

樹齢400年を遥かに超えるようで

楓科としてはとても珍しい

秀吉の御土居建造が天正19年

1591年ですから

それ以前からこの紙屋川に

自生していたということです。

当時の紙屋川は度々氾濫しており

その濁流にも耐えて現在に

生き続けています

 

紅葉の葉はと見上げましたが

ほぼ落ちたようで

ものすごい枝ぶりだけが

天に向けて伸びています

 

 

これがお目当てだった紅梅

可愛く膨らんでいます

 

 

他の梅たちももう蕾を膨らませ

もうすぐ咲きそうな予感を

漂わせています。

 

 

ふと面白い光景が

縁起物の牛さん

皆さんがなでなでする

ということもあって

今は水洗いそれとも消毒中

結構大掛りにされていました。

 

思わぬ景色を独り占めに出来て

何よりでした。

 

 

 

 

 

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