本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間としての本当のあり方

2020-12-08 20:14:00 | 住職の活動日記

いつもぐうたらな生活なのに

めずらしく今日は夜明け前

5時ごろ目が覚めて

妙に頭がさえてきたので

起きて十地経の講義の写経を

始めた、

そういえば

といってはいけないのですが

今日はお釈迦さまがさとりを

開かれた「成道会」です。

 

満月の日の早朝に、

出家後七年、

お釈迦様35歳の時

さとりを開かれ仏陀となった

といわれています。

一応、日本では

12月8日となっていますが

インドでは生まれた日も

さとりを開かれた日も

涅槃に入られた日も

5月の満月の日となっています

 

さとりを開かれた成道ですが

これはただ座って

さとりを開かれたと

いうのではなく

「降魔成道」ということが

対になっています

魔を降し、成道された

悪魔との闘いがあるのです

お釈迦さまの悪魔に向かっての

言葉があります

 

「第一軍は欲望であり、

第二軍は嫌悪と呼ばれ、

第三軍は飢渇であり

第四軍は渇望と呼ばれる。

第五軍は無気力の蔓延であり

第六軍は恐怖と呼ばれる

第七軍は疑惑であり

第八軍は偽善と頑固さある。」

 

と述べられて

人間の心の欲望や

恐怖心からくる恐れ

そして利得や名声

そこからくる思い上がりや

他人を見下す心を

悪魔として見抜かれて

その正体を見抜くことによって

悪魔を降していかれたのです。

 

そこから

四諦の真理をさとられ

八正道の実践項目を

表されています。

 

ということは

人間としての本当のあり方

真の人間の姿とは

人間の本当の願いは何か

人間として生まれた意義は何か

ということを問い詰められ

さとりという形で

人間としての本当のあり方を

見出されたのだと思います。

 

よくお寺の門前とかに

「諸悪莫作」(しょあくまくさ)

「衆善奉行」(しゅぜんぶぎょう

という一句が掲げられています

この文句は

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ

といって

仏教とは何かと問われたとき

仏教とはこれだ言えるものが

この七仏通戒偈です

過去の七仏に通じていわれる

根本の戒ということです。

 

仏の定められたおきてを守り

悪を防ぐ、ということが

諸悪莫作であり、

進んで善を行うということが

衆善奉行ということです。

 

戒にはこの二つの意味があります

戒によって悪を防ぐ

という一面と

今度はさらに進んで善を行え

という一面です。

 

言われてみると

とても単純な簡単にも

思えてきます

悪を止め、善を行え

というのですから

真理の言葉は複雑ではなく

単純明快な言葉です。

 

ところが、

分かってはいるのですが

いざこのことを実践しようとする

これがなかなか出来ないのです

分かってはいるけど

実践できないという

大きな問題にぶつかります。

 

なぜできないのか

こういうことを突き詰めていくと

では、

真の人間像とは

ということが問題になり

人間ということを解明していくと

人間としての本当のあり方

というものが見えてきます

こういうところに

お釈迦さまのさとりということの

意味が見いだせてくると

思います。

 

『十地経』もそうですが

分かってはいるけどできない

ということを明らかにしていく

そこに『十地経』で説かれる

実践の問題が出てくるのです

分かっているけどできない

何が邪魔してできないのか

そういうことを逐一

説いているのが『十地経』

のように思っています。

 

また妙なことですが、

世間では12月8日は開戦の日

真珠湾を攻撃した日です

そして、

ジョンレノンが暗殺された日

でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 

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四善根位(しぜんごんい)

2020-12-07 21:07:23 | 十地経

「四善根位」ということも

逆算するように知ったのです。

十地経講義も「忍」ということが

続いていまして、

六波羅蜜の中で第三番目

「忍辱波羅蜜」というのがあって

というところから、

 

「それから今度は行の位では

こういうのがあって、

煗(なん)、暖かいという

意味ですね。

煗・頂・忍ですね。

こういう位があるんですよ、

行の位にね。」

 

ということが出てきます

不思議なことに

50年ほど前に聞いた「煗」なん

という言葉がずっと

頭の片隅に残っていたのです。

聞いたときは意味も分からず

おもしろい言葉という

ことしか残っていませんでした

 

ちょうど講義を読んでいる時

こういう漢字だったのかと

あらためて知って、

辞書を引いてみると

「四善根位」という言葉に

出くわしました。

 

四善根位とは

煗位・頂位・忍位・世第一法位

の四つです

煗位とは、あたたかみ

ということで、

あたたかいということが

火の前ぶれであるように

煩悩を焼きほろぼす

見道の智慧の火に近づいて

その前ぶれとして

善根が生じてくるという

位なのです。

 

煩悩をめっする予兆として

智慧の火が直ぐに

燃え上がるのではなく

あたたかみが起こってくる

というのです

 

このことを講義の時

とても楽しいそうに説明されて

おられました

そういう微妙な感情を

「煗」ナンという一文字で

表してる

何だかその記憶だけが妙に

心のどこかに残っていたのです

 

それでみてみると

煗位というのは面白いたとえで

この位にまでくると

たとえ退いて悪行を作っても

いつかは必ず

涅槃のさとりに至る

ということです。

炭火の燠オキのようなもので

一旦火がついたら

小さな炭火でも暖かさを

たもっているという

ことなのでしょう。

 

それから

忍位というのは

ここまでくれば善根が定まって

もう動くことがない

「不動善根」という位で

悪趣に落ちることはない

というのです。

 

『十地経』が始まる前

最初は初歓喜地ですが

そこが始まるのは

この四善根位をを修めてから

という前提があります。

『十地経』では

その「四善根位」を略して

初歓喜地から始まっている

ということです。

 

私にとっては

50年来のどこか残っていた

疑問が解けたような感じです。

 

 

 

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師走の背割提

2020-12-06 20:25:40 | 住職の活動日記

背割堤の桜も

葉を落としていることだろう

と思いつつ出かけてみると

 

 

葉を落とした木の枝が

不思議な造形を見せている

子どものときに読んだ

童話の木々たちのようで

今にも動き出しそうに

見えてくる

 

 

葉が落ちたおかげで

太陽の日をふんだんに

浴びることができる

しかしまだ

 

 

葉を蓄えている木々たちも

落ちかけの太陽を浴びて

真っ赤に染まっている

 

 

途中、不思議な光景に出会った

黒猫が枝の上に

上手に止まている

多分この時間は餌も頂き

本人は安全と思う場所で

一服しているのかもしれない

 

 

背割提の三川合流のところ

ここが折り返し地点です

ここまでゆっくり歩いて20分

ここの場所は遮るものもなく

よく日が当たるせいか

桜の落葉もせず美しい紅葉を

見せている

 

 

この時期はまり花を見ることは

ないのですが

やっと見つけた一輪です

アレチノギクという花かも

しれません?

 

日曜ということもあって

河川敷きではテントを張り

お弁当を食べバトミントンとか

遊ぶ家族連れを見かけます

 

夕日を背に受けての帰り道

振り返ると

 

 

日に照らされた木々たちも

美しい姿を見せています

 

 

本当に日が落ちるのが

早くなりました

 

 

こうやって見る自然の姿は

何とも言えない造形美を

つくり出しています

 

 

これからしばらく休んで

来春にはまた美しい桜の花を

咲かせてくれるでしょう

 

 

ススキの群れがあったので

その中の面白い形があったので

おさめました

バックは空なのですが

おもしろい一枚です。

 

何でもないところですが

出かけてみると

そのたびごとに面白く不思議な

出会いがあるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「忍」ということ

2020-12-05 20:04:53 | 十地経

『十地経』でも

「無生法忍」ということが

出てきますが

安田先生が仰るように

このことは一つのキーワード

のように思います

講義の中でも繰り返し

このことは出てきます。

 

「忍という字は非常に古い、

遠い起源をもっとるというんです

これは第一に行としては、

波羅蜜ですね、六波羅蜜とか。

波羅蜜でも、『十地経』では

十波羅蜜になってますけど、

『般若経』は六波羅蜜。

この波羅蜜の思想というのは

非常に古いんですけど、

その中に、忍波羅蜜というのが

ありましょう。

忍辱波羅蜜、第三番目です。」

 

と、このように出てきますが

忍、忍辱という言葉は

はずかしめや悩みを耐え忍ぶ

というように出ています。

熟語としては

「忍辱衣」ニンニクノコロモとか

袈裟のことなのですが

袈裟を着るということは

耐え忍ぶということを

身に纏うということです。

 

戒律ということも

普通には自分を縛るもの

というように思っていますが

そうではなく

自分を誘惑から守ってくれる

鎧みたいなものです。

エネルギーの分散を防ぐ

というか、

あれやこれやと気になる

人の気持ちをカッコに入れて

一つに集中させてくれるものが

戒律ということです。

 

そういう意味では

「忍之一字衆妙之門」

という言葉もあります

忍の一字は衆妙の門と

忍耐の一語を守ることが

多くの事を成し遂げるのに

一番大切なことである、

ということです。

 

「ならぬ堪忍するが堪忍」

という言葉もあります

たやすい堪忍なら誰でもできるが

どうにもがまんできない

つらさ苦しさをじっと堪え忍ぶ

ことこそが本当の堪忍である。

ということわざもあります。

 

また、『十地経』にでてくる

「初歓喜地」ということも

「堪忍地」ともいいます。

初めて聖者となったという

大いなる喜びが起こってくる

ということですが、

それは今までの堪忍の賜物

という意味もあるのでしょう。

 

「忍」という字は

ここでは「無生法忍」という

この忍は

認識の認で言遍が略されて

「忍」となったということで

無生の法を認識する

無生無滅

生じもしないし滅することもない

『般若心経』では「不生不滅」と

でてきますが

空ということの相は

不生不滅であると

ということは

縁に応じて何ごとにもなる

その原動力が「空」と

いうのでしょう。

空の認識ということが

「無生法忍」ということが

できると思います。

 

『十地経講義』では

いたるところにこのことは

出てきます

安田先生もこのことは

ずっと課題だった

ということでしょう。

繰り返し語っておられます。

 

私にとっても

分かったようでわからない問題

ずっと課題として

考えていかなければならない

ことのようです。

 

 

 

 

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無能の自覚

2020-12-04 20:08:02 | 十地経

ドキッとするこういう一文です。

 

「何か、僕は、

清沢満之という人は自分の

述懐を述べるのにですね、

こううことをいっとる。

思惟というものの限界を極める

ということはですね、

つまり自分が無能であるもんだ

ということを自覚することが

実は一番骨の折れる仕事であった

と、こう清沢満之が告白しとる

でしょう。

骨の折れる仕事だと。

自分が無能であるということを

ですね。

努力すれば、

無能にもなるんじゃないと、

無能ということが自己の本質だと

いうことを知るということが、

これが求道の上で一番骨の折れる

仕事だったと、

こういうような告白ですね。」

 

私にも大きな誤解があったようで

何か一生懸命勉強して

多くの知識を身に着け

また理論を学び煩悩に打ち勝つと

 

ところがこれが

求道という立場になると

教えを聞けば聞くほど

自分が何も知らなかった

まったく無能であった

ということに気づかされる

それが求道ということです。

何か自分がはっきりしてくる

ということですね。

 

以前望遠鏡で土星の環を見たとき

それまでぼんやりしていたものが

望遠鏡を通してみると

はっきり見えてきて

小さな点の集まりで

さほど美しくもなかった

ということがありました。

 

最近では

携帯の写真でもスノーという

アプリがあって

これを通すと

輪郭がぼんやりとしてきて

顔のシミ・皺などがぼやけて

何とも美しい姿に変身するという

代物です

 

まったく関係のないたとえですが

何ごともぼんやりしているうちは

それなりにそういうものなのです

が、

勉強も同じで

やらないうちは

何でも知ったかぶりして

言えるものなのですが

すればするほど

何かしら分かりかけてくると

自信がなくなり

言えなくなってくるものです。

 

今まで生きてきた中で

それなりの知識なり

知っていることを

ひけらかしたいものですが

それがいざ聞法を始めると

知っていたことが微塵に砕かれ

ていくものなのですが

これがなかなか

うち砕くことが出来ないのです

 

一番身近なところでは

いつもそばにいる家内です

大事にしてきたものを

遠慮もなく木っ端微塵に

うち砕いてくれます。

まあそれがいいのでしょうが

結婚ということも

そういう意味では

剛情我慢の自分のエゴを

否定してくれるのは家内

という存在が大切なのかも

しれません

ある面では坊さんの修行より

厳しいかもしれませんね。

 

話がそれましたが

自分が無能であるということの

自覚はそれほど大変な

ことなのです。

 

『般若心経』にも

「一切顛倒」という一文が

あります

一切は顛倒であった

逆さまだったというのです

少しぐらいの間違いではなく

全部がさかさまという

これも全否定を表しています

何気なく読んでいますが

自分のこととして

読んでみるととても厳しい

ことが書いてあります。

 

なかなか全否定ということは

できないものです。

言われた時は仕方なく屈服する

のですが

その先から、

お尻は上がっているのです。

ここが「一番骨の折れる仕事」

といわれる所以でしょう。

 

年取ってからの修行は

ここですね!

 

 

 

 

 

 

 

 

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フレイル予防で健康長寿

2020-12-03 16:48:10 | 住職の活動日記

宇治市役所から

「フレイル予防で健康長寿」

という冊子が届きました。

 

 

 

「フレイル」??

聞きなれない言葉です。

けど、

健康長寿とありますから

私たち老人に向けての

案内でしょう。

 

フレイルという

聞きなれない言葉は

2014年日本老年学会が

提唱した言葉のようです。

健康な時から要介護へ移る

その中間を言うようです。

 

もとは「Frailty」フレイルティ

が語源で、

「虚弱」「老衰」「脆弱」という

意味になります

そういえば、子供のころから

虚弱体質といわれていた私は

ずっと「フレイル」状態

だったのでしょう。

 

中を開いてみると

 

 

要介護と健康の間

フレイルの状態をほっておくと

要介護になりますよ

ということです。

 

 

これが気になったら

「フレイル」かも!?と出ています

まあ、今のところ

疲れやすいのは仕方ありませんが

ご飯も美味しいし、

何ごとも面倒なことはないし

体重も不増不減ということで

まだ大丈夫かな?

 

しかし、こういうことは突然

やってきたりしますので

軽く見てはおれません。

 

 

フレイルを防ぐには

美味しく食べて、適度の運動

ということのようです。

 

この手紙は

家内には届いてないので

たぶん、ある年齢に達したので

こういう注意しましょうと

いうことで届いたのでしょう。

 

「フレイル」と

聞きなれない横文字を使わずに

年寄りにはそれなりの言葉で

伝えた方がいいように思いますが

年寄りというくくりで

言ってしまえば苦情が出たりと

それなりの配慮をされての

言葉なのかもしれません。

 

そういう私も

この年になって

初めて運動らしきものを

始めています。

明日はヨガの教室で

昨日は筋トレ

筋トレのトレーナーは

えらく鍛えてくれるのです

70過ぎの年寄りにむり言うな

と言いたいくらい

「ガンバレ!もう少し!」

とカツを入れてきます。

行くまでは気が重いのですが

やってみると

あとがスカッとするので

また頑張ろうという気になる

ということで、

嫌々乍らでも続けています。

 

何はともあれ

美味しくいただき

身体を動かし

本を読み、それを書いて

と日々続けられることは

何よりのことと思っています。

 

フレイルの悪循環

ということもありますので

動かなければ筋力が落ちる

筋力が落ちれば

なおさら動くのが億劫になる

すると

いよいよベッドがお供という

ことになってしまいます。

 

いつまでこうやっておれるのか

考えれば不安なようで

また日々は楽しくもあり、と

自分自身の姿を見ていかなければ

と思っております。

 

 

 

 

 

 

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「しあわせ」と「ハッピー」

2020-12-02 20:07:44 | 住職の活動日記

「あなたを幸せにします!」

とか、

「わたし幸せになります!」

など、

どういうことが幸せなのか

分かりませんけど

簡単に幸せを連発しています。

 

しかし、このことも

以前から気になっていたのです

高校生の時

ヒルティ―の「幸福論」という

本を読んだことがあります

何が書いてあったのか

覚えていませんが

幸福ということが気になって

いたということでしょう。

 

また、横文字ではハッピーと

幸せな気分の時

「わたしハッピー」と

連発しています。

 

しかしながら

文字というものは

成立ちはよくできたもので、

幸せという「幸」という字は

夭ヨウと屰ゲキから出来ていて

夭は若死ということで

屰は反対の意味を持つので

死ぬべき時に死を免れる

という意味です。

 

簡単に幸せといいますが

その成り立ちは深い意味があって

死ぬべき時に死を免れた

という喜びというかよかった

そこから幸せという字になった

 

昔は人生50年

いや、もっと早く若死する

ということは当たり前だった

そういう状況のなかで

死を免れたという

そこに本当に幸せという

感情が湧いて出たのでしょう。

 

意味の内容から似たものに

「有り難う」

という言葉があります。

これは仏教用語で

「軈てヤガテ死すべきものの

 今いのち有るは有り難し」

いつ死ぬか分からない

そういう中にあって

今いのちがあることは

有ること難し

有りうべからざることがあった

そいう内容を含んでいます。.

 

では、英語のハッピーは

「ハッピー」というと何だか

軽い気がしますが、

この言葉もなかなか

Happyということも

Happenというたまたま偶然に

起こるということが語源で

偶然の幸運がたまたま起きた

ということです。

 

どちらの言葉も

その成り立ちは何かしら

意味深いものを含んでいます。

 

お経を読む時

最初に唱えるのは「開経偈」

といって、

「無上甚深微妙法

 百千萬劫難遭遇」

この上なく深くて微妙で妙なる

法は、百千萬劫という

とてつもなく長い時間の中で

たまたま出遭うものである

というような意味ですが

「難遭遇」遭うこと難し

どれだけ長い時間を費やしても

遭うことが出来ないのだ、と

その法にゆくりなくもたまたま

出遭うことが出来たという

喜びの言葉です。

 

すべてのことはたまたまです

出遭うことも死を免れることも

偶然のなせる業

その偶然をただよかったと

受け流してしまうのではなく

そのことを自分のことと

引き受けて

ゆくりなくも出遭いがあった

であればその出会いを大切に

してゆくところに

幸せということも

ハッピーということも

単なる幸せではなく

出会うまでの縁の深さを思うと

受け取り方も違ってくるようです

 

人と人との出会いも

こんにちは、さようなら

という出会いもあれば

目と目が合った瞬間から

この人でなければという

出会いもあります。

 

しあわせということも

その文字の成り立ちを見て

思い直してみると

さらに幸せという感情が

深くなるように思います。

 

 

 

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生涯現役もいいけれど…!?

2020-12-01 20:41:15 | 住職の活動日記

知り合いの社長さん

80歳過ぎても現役で頑張って

社員の給料もソロバンで計算して

という、見事な現役を貫いて

おられます。

 

しかし、この「役」ということも

「お役御免になる」とか

また、

「役に服す」ということもあり

調べてみると、

 

「役」という字は

ぎょうにんべん「彳」(道)に

武器(竹の杖)を手に持った

「殳」(ほこ)とからなり、

つえをもって巡り歩く警護

という意味です。

そこから使役という意味に

なったということです。

 

そういうことから

1番目の意味は、いくさ

ということが出てきます

西南の役とか前九年の役など

昔は戦争のことを役といいました

そして、

2番目に人民に課する労役

という意味が出てきました。

 

「役人」という字も面白く

やくにん、と読めば

お役人というように官公庁に

勤める人のことです。

これを、えきにん、と読めば

にんそく、人夫のことで

まったく反対の意味になります。

 

ということからすれば

「役」ということも

何かしら公の役につくという

役目を背負うという意味があり

労役という

ニュアンスも感じられます。

 

ですから

「お役御免」といいますか

役を免じられて

やっと自分の時間がもてた

ということもあるようです。

 

私も65歳を境目に

お役御免となり

やっと

自分の時間をもてるようになり

好きなことを

時間に追われることなく

出来るということもあります

 

振り返って

人生ということを考えてみると

仕事に就いているという

役目があるということは

それなりに大事なことなのですが

一つ気になることは

師匠の言葉で、

「えらい、呑気な話やね!

忙しい忙しいで自分を忘れしまい

売僧マイスになってはいかんだろう

本当に自分の人生を考えなければ

あっという間に

時間が過ぎてしまうぞ」

ということでした。

 

このことは自分では一生懸命

お寺のことで忙しくしていて

頑張ていたつもりでしたが

そのことで有頂天になり

自分を見失っていたのでしょう

 

本当に、忙しい忙しい

といっていたら、

気がついた時には

もうすでに目前に死が迫り

自分の人生を考えずに

終わってしまうかもしれません

これほど惨めなことはありません

 

ということは

逆説的に考えれば

現役を退いてからが本当の人生で

静かに生きる意味とか

自分の剛情我慢の心を

対治していく

大切な時間だと思います。

 

インドでも(古い時代ですが)

人生を三つに分けて

青年期、

それからしっかり働き家族を養う

という働きの時代

最後はゆっくりと人生を考える

そういう時期

があると聞いています。

 

それからすれば

現役を離れる、お役御免になる

ということは

本当に素晴らしいことだと

思います

これからが本当の人生

ということなのでしょう。

 

けれども、どちらも人生

現役を貫くのもそれは素晴らしい

また、現役を離れれば

今までの人生を振り返り

人生の意味の深さを考え直す

それも素晴らしいことだと

思います。

 

 

 

 

 

 

 

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