かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「分散」と「集中」ロングテールの実体(その2)

2008年07月13日 | 出版業界とデジタル社会

 

前回「分散」と「集中」のエネルギーを内包した台風のような渦が、常に生成、死滅を繰り返すことが必然であることを書きましたが、その巨大なスケールの渦を私たちの感覚でとらえることはとても難しいものです。 


台風、ハリケーンの姿は、わたしたちはテレビの気象図を見て知っていますが、現実の強風や大雨を見てその大きさを知るわけではありません。 
同じように恐竜の姿に例えたロングテール理論の場合も、その恐竜を見ているのは人間ですが、現実のその恐竜に例えた巨大市場の規模からすれば、恐竜の足元や背中にのっかった小さな蟻のような立場で全体を想像しているにすぎません。 


つまり、理論上「ロングテール」を語ることはできても、その当事者たちは、巨大な恐竜の背中にのった小さな蟻のような存在にしかすぎないので、自分の立っている場所が、恐竜の背中なのか、左足の爪の上なのか、尻尾の付け根にいるのかはまったく検討もつかない、ただ広い大地の上にたっていると誤解しているようなものです。 




実は、これこそ顧客の真実の姿なのです。 


よく、金太郎飴化する書店というたとえも昔から話題になりますが、どこにいっても同じような本しかないと感じる顧客のほんとうの姿は、実際にどこに行っても同じような本しかなかったということを言っているのではなく、それは、どの店に行っても自分の興味のある本が「1冊も」見当たらなかったという体験の別表現であるのだと思うのです。 


大半の現実は、何万、何十万とある在庫のなかから、ピンポイントで自分の興味のある本が「1冊」おいてあれば、その店はいい店に見えるものです。かなりの読書家でも数十冊や数百冊もの在庫情報を見て判断しているということはまずありません。 


この説明をするためには、ここであらためてamazonの登場とともににわかに注目されるようになった「ロングテール理論」のことをちょっとおさらいをしておきましょう。 
こらからの時代、まだまだ話題になりつづける言葉だと思うので。 



ことのきっかけは、2004年10月、米「ワイアード」誌の編集者クリス・アンダーソンが書いた記事だ。 
「1988年、ジョー・シンプソンという英国人登山家が、ペルー・アンデス山中で死に迫る体験を記した『死のクレバス――アンデス氷壁の遭難』(岩波現代文庫)という本を上梓した。同書はよい書評を得たものの、売上的にはそこそこであり、いつしか忘れ去られていった。それから10年後、おかしなことが起きた。ジョン・クラカワーが登山の悲劇に伴う『空へ――エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』(文春文庫)という本を書き、その本はセンセーショナルに売れた。すると、突然『死のクレバス』が再度売れ出したのである。  

                     (「ワイアード」誌より) 


 その謎を解く鍵は、アマゾンのリコメンデーション・システムにあった。 
 アマゾンで『空へ』を買ったユーザーの中にたまたま『死のクレバス』を買ったユーザーがいた。その結果、アマゾンのリコメンデーションで『死のクレバス』が紹介され、そのリコメンデーションを見たユーザーがまた買うことになり・・・・・・というループが起こり、市場から忘れられていた『死のクレバス』は10年の時を経て再び読まれることになった―――という次第だ。 


 アンダーソンは、このように埋もれた商品が見つけ出されるのが、ネットのニュー・エコノミー現象のひとつだとし、アマゾンでは、自社のランキングで13万位以下の売上げが、実に半分にまで及ぶと述べた。 


 同社の本の在庫は米国で200万点以上(日本は50万点)。売り上げの半数が13万位以下となれば、縦軸に売り上げ冊数、横軸に売り上げ順位をおいた場合、横軸は右へおそろしく長く伸びることになる。その反比例のような関数曲線を恐竜の姿に照らし、もっとも売れているベストセラー系を「ヘッド」、果てしなく右に伸びる売り上げ下位の書籍群を「 
ロングテール」と呼んだのである。
       森健『グーグル・アマゾン化する社会』光文社新書より 

 このアンダーソンが発表した「13万位以下の売り上げが半数を占める」という記述は、間違いであることがわかり、2005年春の彼のブログで、アマゾンにおける13万位以下の書籍の売り上げに占める割合は、全体の三分の一だとされた。 

 よくあることながら、もう遅い。 


 それで、このようなアマゾンの登場とともに、どうしてロングテール理論が注目されるようになったのかというと、よく誤解されやすいのですが、ロングテールに位置する商品群は、昔から存在してはいたということを見落としてしまっていて、アマゾンの凄いところは、そのロングテールの商品群をローコストの管理システムで顧客に手軽に見つけても らい、なおかつ手軽に手元に届けられるシステムをつくったところにあるのだということです。 


 最近流行りの500坪以上の巨大書店であれば、どこもそのアマゾンのロングテールにあたる商品群は、程度の差こそあれ店頭に持っています。 
 ところが、それを顧客が同じことをしようとするならば、広い店のなかから探し出し買うこと、もしその本が店に無かったならば他の大型店にまであるかどうかの確信のないまま行き、広い店内からまた探さなければならりません。 
 もちろん、店員をつかまえて聞くことも出来る、勝手知る店ならば、まっすぐにその棚に行って本を探しだすことも出来る、実際の棚を見ることでこそ他の面白い本を見つけ出すこともできる。 
 それら副次的なメリットがいかにたくさんあろうとも、アマゾンの場合は、どんな大型店よりも経費をかけずにピンポイントでお客の探しているものを素早く提供することが出来るのです。 


 もちろんそれだけの便利なネットシステムは、膨大な技術開発経費と設備投資資金をかけてこそ実現できているのですが、ピンポイントで探すものにたどりつけて手軽に購入できるという点においては、いかなる巨大書店であってもかないません。 


 この点から、先の恐竜の上にのった蟻のたとえを思い出すならば、顧客からすれば、恐竜の高い背中の上に這い上がる苦労をせずに、ワンクリックで背中のその場所に自分が立っていることが出来、それが尻尾の先であろうが、頭のてっぺんであろうが、その手間は関係ないどころか、まったく意識されていないということです。 


 ここまできてようやく「ロングテール理論の実体」というものが見えてきたでしょうか。


 のちに半分ではなく3分の1だったと訂正されながらも、その理論がもっともらしく普及している理由は、長い尻尾の部分が経営を支えているのだということにあるのではなくて、尻尾であろうが、胴体であろうが、頭であろうが、どの部分に位置する商品であっても手間とコストの負担を変えることなく、手軽に顧客のもとに届けられるシステムということにこそ、その核心があるのです。 


 このことを見逃して、店舗の巨大化だけをはかってロングテール部分を網羅しようとしても、アマゾンには勝てるはずがありません。増してや市場規模が、これから10年でピーク時の半分にまで縮小しようとしている時代でのことです。 


(前編、後編で終わるつもりだったのだけど、もう少し書かなければならないので、また次に続けます)

 

その1 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/d6849961bd583b9dc851ad074e812adf

その3 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/818b1e7f42b3efdd6c1a48c4bd13e649

 

 

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「分散」と「集中」ロングテールの実態 (その1)

2008年07月13日 | 出版業界とデジタル社会

前にクローズアップ現代での商品ランキング依存のことを書きましたが、
今も尾を引いている大事なとこなので、もう少し補足しておきます。

ひとつは、ランキングのいったい何が問題なのだろうか、ということです。

市場競争のもとにおかれる限り、公表するかどうか、それを見るかどうかにはかかわりなく、ランキングがあること、またそれへの否定的な見方があったとしても、それが無くなることはありません。

今、問題になっているランキングの弊害は、ランキングそのものが悪いのではなくて、
もう少し正確に言えば、その情報がトップ10に集中するということだと思います。

インターネット上の検索でも、検索結果の1位、もしくは最低限でも最初のページに表示されるようでなければ、そのサイトは「この世に存在しないに等しい」とも言われるほど、トップ10以下は圧倒的不利な立場にあります。

検索結果の上位にあることが、その情報の実体や価値以上に決定的に重要なことになってしまっているのです。

これと同じことが、本のランキングでもおきてます。

もちろん、それは総合トップ10だけでなく、ビジネス書、文庫、新書など様々なジャンルごとのトップ10が公表されているわけですが、いかにその分類を増やしたとしても、現実に市場に流通している本のアイテムからすれば、極めて特殊な情報であるとすら言えるほど、本来、トップ10というのは、一部の情報にしかすぎません。
このことは、あとで「ロングテールの実態」のこととして書きます。

これは、一見様々な情報が自由に氾濫しているようになったかに見えながら、その豊富な情報を受け手が整理・識別する能力がないと、結局、情報が自由になり増えれば増えるほど、その膨大な情報を選別して提供するビジネスがおこり、そのビジネス間の競争過程で情報の集中を招く必然性を持っていることのあらわれでもあります。

分野を問わず、自由な競争は、必然的に「集中」「寡占」「独占」を招くことは避けられません。

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏も、日頃膨大なPOSデータを見ながら、文化・価値観の多様化などと言っているが、実態は、どこをとって見ても、「多様化」などという現実はなく、文化・価値観の集中である、といったようなことを言っていました。

これは確かに資本主義社会のしくみが、こうした傾向を加速させたといえるかもしれませんが、歴史をよくみると決して今に限ったことではなく、「集中」と「分散」のエネルギーは常にどの時代でも存在していました。

それは、古代まで遡っても共通してあったことといえます。


歴史をみると、分散に対する集中という対比が一貫して、「集中」の流れに組しないものはアウトサイダーとしての地位に甘んじざるを得ませんでした。
この構図は数千年の人類の歴史でも大きく変わってはいません。

限りなく「中央」への覇権争いや市場競争への一元的エネルギーが常に働いており、
その流れから外れたものは、限りなく排斥されたり、差別されたり、虐げられた地位に落としこめられるのが必然でした。

ただし、ここにきて突然その構図が、昔とは急激に変わってしまったのです。

それは、あらゆる領域でおきている「集中」と「分散」のエネルギーが、現代ではすべての領域でボーダレス化したということです。
どんな一地方でも、限られた分野の話でも、マネー経済に限らず、食料、エネルギーをはじめあらゆる文化領域までボーダレス化してしまいました。

これまで、一地方や一国のレベルでだけみていた「分散」と「集中」のエネルギーが、まるで気象衛星写真を見るように、低気圧や台風の雲の渦が、ひとつの街、ひとつの地方、ひとつの国のなかだけでおきていたものが、突然地球レベルでダイナミックに地球全体を包み込んだ動きをするようになったのです。


これまでの個々の地域のなかにあった些細な渦は、この地球レベルのダイナミックな渦にすべてが飲み込まれてしまう時代になってしまいました。

いま私たちはこの破壊エネルギーに翻弄され、振り回されていますが、ここに至ってしまった経緯は、自然法則からみても必然であったといえます。
したがって、こうなったことが間違っているという指摘よりも、私たちはこれからどうするべきかをもっと真剣に考えなければならないのだと思います。


この「分散」と「集中」というエネルギーは、あらゆる運動エネルギーのなかでも、つくづく面白いエネルギーだと思います。


上下左右、前進後退などの運動よりもはるかにダイナミックです。

自然界は常に微妙なバランスの上になりたっていますが、そのなかでは絶えず繰り返される運動のもとで、高気圧圏と低気圧圏という対象領域を生み、それぞれの内部で「分散」と「集中」のエネルギーが必然的に拡大します。
しかし、その「分散」と「集中」のエネルギーは拡大を必然としながらも、一定のレベルに達すると必ず崩壊し、消滅します。

遠心力で外へ外へと広がるエネルギーと、求心力で内へ内へと集中するエネルギーが、対立、協調しながら、生成、死滅を繰り返していく姿は、なんとも不思議な世界です。

経営なども、エクセルの表やグラフで表現されるものではなく、こうした「分散」と「集中」の渦のなかでもっととらえるべきなのではないでしょうか。


また、長くなってしまったので、次にこの「分散」エネルギーを象徴する「ロングテールの実体」のことについて書くことにします。

 

 

 

「分散」と「集中」ロングテールの実態

その2 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/f82e08f492d2f3e6289027b4a2317c7d

その3 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/818b1e7f42b3efdd6c1a48c4bd13e649

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