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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

旅のイメージ

2009年05月04日 | 歴史、過去の語り方
今月の12日から17日にかけて奈良・吉野・熊野へ行く準備で、いろいろな本を読み漁っているところですが、どうしても欲張りすぎた旅になってしまいがちで、テーマを絞り込むことがとても難しい。

それでも、昔からこちらの方面へ行く時は、いつもこだわっている視点があります。
うまく説明できないこじつけのような話なので、軽く受け流してください。

日本の歴史・文化をたどる時に京都・奈良は誰もがたちよる場所ですが、わたしは昔から京都・奈良というふたつの歴史都市だけでなくずっと気にしている視点があります。
それは、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線に蓄積した日本の歴史ということです。
文化、経済、軍事は昔から日本列島の東西に流れ、揺れ動いて来ましたが、その長い歴史を通じてこの縦の線の上では、ぶれることなく過去の歴史が一貫して蓄積されているのを感じるのです。

ふるい文化や思想を否定することなく、そのまま保持したまま新しいものを積み重ねていく日本特有の文化の姿が色濃くみてとれる地域なのです。

こうした見方を気付かせてくれた一番の契機は、白洲正子の『かくれ里』や『近江山河抄』などで知る近江に対する一連の関心でしたが、これらを契機に近江を訪ねるたびに、古代から近代にいたるどの時期をみても、この縦軸が大事な契機になっているのを感じるようになりました。

琵琶湖はただの湖、日本列島の真ん中の穴ぼこではない。
水運の柱である瀬戸内海以上に、中枢の交通の要であったことを信長は知り抜いていました。

神武東征や北九州の文化圏からヤマト文化圏への変遷、源平の戦いはもとより吉野で楠正成と力を蓄えた新田義貞と九州で立て直しをはかった足利尊氏の戦い、戦国の信長が戦った相手たち、あるいは宗教の歴史をたどっても、常に力を蓄えた場所は、なぜか都での政治ではなく、この縦の線上の山の中でした。

個人的に興味のある一向宗なども、ずっと都以外のこの縦の線上で勢力を広げています。

そうした視点をより一層、明快に意識させてくれたのが、日本列島を「〆」(=締める)の時になぞらえた見方です。
これは文字の形状が日本列島の骨格をイメージさせるだけでなく、筆順と筆の筆致も、日本の文化の流れや風水的な気の流れにも合致してみえるのです。

大雑把にいうと、本州を北から南へ走り、跳ね上がったところで朝鮮半島=大陸へとつながる。
そして縦に下ろす先が能登半島から始まり、力強く紀伊半島の先、熊野で終わる。

熊野(伊勢も含む)が死のへの旅立ちの場、補陀落渡海の地であるだけでなく、なんらかのエネルギーが行きつく先としてあるよに私には見えてならない。

まったく感覚的な印象のことですが、ずっとこだわっていることです。
コメント
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