日本に中国に摸した律令制度を取り入れ、国家という形を確立した藤原鎌足と不比等。
それは既存の日本の勢力とドロドロの戦いのうえになりたっています。
藤原氏の正体 (新潮文庫)関 裕二新潮社このアイテムの詳細を見る |
古代国家は、仏教を積極的に取り入れることで国づくりを推し進めた。
当然、天皇がその仏教導入の先頭にいたわけで、当時の天皇は神道の保護には積極的ではなかっただけでなく、その古来の神道のしきたりを持っていた物部氏を排斥すらした。
様々な信仰をもった地方豪族たちのゆるやかな連合体であった当時の日本を、仏教の力と律令制度の名の下に、一元化をはかろうとした中心に藤原氏がいました。
出自のよくわからない藤原鎌足が、どうしてこれほどまでに中枢の権力を握ることができたのか、関裕二さんは、鎌足は百済王豊璋であったと推論しています。
そんな馬鹿なと思いつつも、その論拠にはとても説得力があります。
しかし、鎌足、不比等にはじまった藤原氏の支配が、歴史の底流をみるといついかなる時代をみても、どの将軍の時代であっても、いかなる天皇の時代であっても、またいかなる政権の時代であっても、脈々と続いていることがわかります。
藤原氏は不比等の四人の子の末裔がそれぞれ、南家(藤原武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)にわかれ、互いに牽制し、覇を競いあいました。平安時代は、藤原氏内部の権力闘争から始まったと言っていいであろう。そして北家が勝利を収め、摂関政治がはじまるのである。 (関裕二『藤原氏の正体』280頁)
天皇を操り続け、時の政権をも常に左右する力を持った藤原氏、それは現代につながる、トップに責任と権限を与えない官僚制度そのものであるようにも見えます。
一条、二条家や西園寺家、近衛家などに限らず、地方から自力で這い上がる人びとに常に立ちはだかる勢力として根深く日本社会に存在し続けています。
美智子皇后や雅子さんは、そうした表には見えない勢力との闘いのなかで生きているのではないでしょうか。
と言っても、美智子皇后は、民間とはいえ名門中の名門、正田一族の出。
江戸時代には館林の豪商で、近代に入ってからは日清製粉創業家となった。それだけでなく、正田家は学者一族としても知られています。 そこには雅子さんの立場とは比較にならないほどの開きがあります。
もちろん天皇家の内部は、そういった雑音とは無縁ともいって良いほどしっかりとした矜持があるから国民からの信頼を得ているのですが、その周辺に連なる血縁、血脈のネットワークの力は、私たちの想像を超えたものがあります。
それは時としてオモテの政治経済の現象以上の影響力を持っていたりもするものです。
日本の歴史を通じてこうした絶大なる支配力を持ち続けている藤原氏が(を?)祀る興福寺、春日大社へよることも、今回の旅の楽しみのひとつです。