かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「寛解」という考え方

2010年06月05日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
ちょっと日が経ってしまいましたが、上毛新聞のコラム「視点 オピニオン21」の5月21日(月)の記事で、NPO法人こころの応援団代表、千代田すみ子さんの「病気前と違った自分に ―『寛解』という考え方―」と題した記事が出ていました。

「(略)けがや他の病気は治療すれば元に戻りますが、心の病気は病気になる前に戻ったとすると、再び病気になります。」

 この一文を見たときにわたしはすぐに「べてるの家」を思い出しました。
「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの、もう何年もほったらかしにしてしまっているページですが、かみつけの国 本のテーマ館

 病気は勝手に治るとよくない、といった視点で上手な病気との付き合い方について、精神疾患であっても明るく元気に生きていける実践例を紹介しています。


 このことを千代田さんは、さらにわかりやすく次のように説明してくれています。

「なぜなら、この病気になる方の多くが一生懸命で、きちょうめんであり、こだわりが強く、すぐ実行したがるタイプだったはずだからです。

ですから病気が治るということは『病気になる前と違った自分になる』ということです。
このような状態を『完治』ではなく、『寛解』といいます。

この考え方を、家族や友人、仕事場、そしてなによりご本人が理解していかなければ『寛解』にはつながりません。
しかし、この考え方を受け入れるにはとても長い時間を要するようです。」

簡潔な文のなかに実によくまとめられています。

このNPO代表の千代田さんは、沼田の「ごったく広場」にもかかわられているようなので、どこかでお会いしているのかもしれません。


この「寛解」という考え方、必ずしもこころの病の場合に限った問題としてではなく、ひろくわたしたちの日常で経験することで大切なものの考え方としてとらえたいと感じました。

医者に頼るような疾患でなくても、事故や災害、身内の不幸やちょっとした他人の言葉で深く傷ついてしまった場合など、こうした「寛解」をようする事例は、わたしたちの身の回りに事欠きません。

ところが、医学的にはこの「寛解」という言葉、千代田さんのような解釈ではなく、症状が一時的に軽くなったり、消えたりする状態のことを指し、そのまま治る可能性もあるが、再発する可能性も残した状態のことを言っているらしいので、気をつけてつかわなければなりません。

職業医師の立場からは、完治したのかどうか、再発するかどうかの解釈がわかれるようなことは当然、容認することは出来ないと思います。
しかし、私個人としては、なんとなく千代田さんの解釈で「寛大」に、この言葉が但し書き付きで広がることを願います。

このひとりひとり異なる長い「寛解」の時間は、わたしの日常の仕事上でかかわる問題でもあります。そんなこと言ってる余裕はないなどと言う日々の自分との闘いでもある。

どちらが大事か、どちらが価値ある時間か、考えればわかることなのだけれども。
コメント
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