自分のホームページhttp://hosinou9.wix.com/hproを整理していてつくづく思いました。
右肩上がりの時代であれば、とにかくいろいろコツコツと努力を重ねていれば、失敗成功を繰り返しながらも、なんとかそこそこの結果はついてきました。
ところが右肩下がりの時代になると、ただ真面目にコツコツと努力を重ねていたのでは、なかなか結果がついてこないのです。
私自身、つい最近まで強調していた「議論・分析ばかりしてないで攻めてみよ!」という言葉の説得力も急速に衰えてしまっているのを感じます。
それは「まだ努力が足りない」からそうなのだ、というのも決して間違いではないのでしょうが、必ずしもそうとはいえない時代になってきていることを肝に銘じなければなりません。
最近こんなようなことを人と話していると、必ずひっかかるポイントがあります。
それは、こんな厳しい時代だからこそ、今のヒドイ政治を打開(解決)しなければならない、という視点です。
いつも議論の噛み合わせが難しいのですが、今の様々な社会問題が深刻で、それらを政治的に解決することが不可欠であるとこに異論はなく、まったくその通りで私もそれが大事であると感じていることをくれぐれもご了解ください。
ここで私が引っかかっているのは、深刻な政治的問題が解決しない限り、今の自分の状態は絶対に変えられないかのように思ってしまう思考のことです。
さらにはその延長で問われることですが、今の政治のレベルの低さを、政治家や指導者の能力不足の問題としてばかり取り上げる傾向が強く、それも確かに深刻な問題であることには違いないのですが、もっと自分たちの側の「創造力」や「自治能力」の不足の問題をとらえ直す必要があるのではないかということです。
政治的解決は、社会的弱者の救済のためには、譲れない現実は確かにあります。
でも、これも書き出すと長くなるので、ここではそうした視点の重要さを気づくきっかけになったひとつのことだけを記すことにします。
時代のパラダイムが大きく変わろうとしているような時、私たちに何が大事かを考えさせてくれるいくつかの重要な本のひとつに渡辺京二の『逝きし世の面影』という本があります。
大事な本でありながら、この1冊のなかには至玉のポイントがあまりにも盛りだくさんなため、一文にまとめあげることが難しく、私にはブログなどでまとめあげることがずっとできないままになっています。
それだけに、テーマを分解して、それぞれの話題で取り上げるべきなのでしょうが、ダイレクトには難しいと感じている矢先に、ちょうど他の著作を通じて渡辺京二の歴史観を知ることができ、そこに現代に切り込むべき大事な視点を発見することができました。
それは、ちょっと挑発的な表現です。
「日本マルクス主義史学は本質的に市民主義的民主主義者であって、資本制と一度たりとも真面目に闘ったことがない」(渡辺京二『日本近世の起源』洋泉社MC新書)。
彼らが闘っていたのは「資本主義」に対してよりも、実態からすると「伝統的権威主義支配」に対する闘いであったのではないかという視点です。
真面目に闘っている多くの人たちから袋だたきにあいそうな言葉ですね。
でも、私にはとても納得できる表現に思えるのです。
渡辺京二は、一貫したある姿勢をもって従来の様々な歴史認識に対する疑問を投げかけているのですが、すでに影響力は衰えたかのようなマルクス主義的歴史認識の未だに教条として引きずっている歴史観には執拗に疑問を投げかけています。
これもよく誤解の元になるのですが、歴史を語るときその教義、理論は間違っている、その宗派は問題だなどと語る場合が多いのですが、いついかなる教義や信仰であっても、時代を経て教条化するところにこそ大きな逸脱が発生しており、もとの仏陀やキリスト、親鸞や道元、マルクスやレーニンなどが決して言ってはいないところの何々主義もどきや何々派もどきが多くのゆがんだ実態を占めているのが現実だからです。
渡辺京二が執拗に批判しているのも、特定の思想や心情に対するものではなく、そうした「教条化」した思考のことです。
そもそもマルクスが、労働者階級の解放をうたったとき、それは人間は「労働」によってこそ「全人格的成長」が可能であるという前提で語っていたはずです。
それが、働くも者の敵が資本家であるという構図が決まってしまうと、資本家こそが労働者の敵であるとばかりに「労働条件」の改善要求ばかりが闘争目標になってしまう傾向に陥ります。
労働条件の改善は、大事で不可欠なことに違いはありませんが、よく批判の矢面にたつ公務員労働者にみられるように、えてして「より働かないこと」「楽な環境を得ること」が目標になってしまい、組合運動といいながらも発想では、どう転んでも職場をひとつの有意義な労働環境にするために経営者と折り合うことは不可能な構造になってしまうのです。
効率を追求するのは経営者の視点、という思考枠から抜け出せなくなっているのです。
世の中が右肩上がりで、多くの労働は大量生産の効率追求でパイが広がっていったような時代には、社会的不公平が拡大するなかで自分の取り分を取り戻す運動は、大きな意味を成果があったと思います。
確かに格差が拡大している現代だからこそ、さらに深刻なこの構図があるともいえます。
でも、私としては、そのことに異論があるのではなく、やはり「それでは軸足が違う」のではないかと感じずにはいられないのです。
先の渡辺京二が挑発的な表現で、「日本マルクス主義史学は本質的に市民主義的民主主義者であって、資本制と一度たりとも真面目に闘ったことがない」というのは、資本制ともし真剣に闘うならば、資本制の打倒も大事かもしれませんが、今の資本主義社会のなかでの「豊か」でクリエイティブな労働の実現をはかることこそが、つぎの社会を準備する核心用件であることを気づかせるものであると思うのです。
マルクスも資本制の中でこそ、次の社会を準備する条件が育つことを明言しています。
20世紀の経済発展を経て、過酷な競争環境下におかれた私たち働く人びとは、一度、競争に敗れると近世江戸時代以上に、すべてを失い、なにも持たざるホームレスになってしまうような厳しい現実があります。
しかし、一歩目を前にすすめれば、それはそうした厳しい現実はありながらも、必ずしもすべてがアトム化された孤立した個人の時代ではなくなってきていることにも気づきます。
近代市民社会の発展や近代自我の確立などの言葉とともに、これまで必至に旧来の伝統しがらみや共同体からの自立した個人を目指してきたここ数世紀の歴史が、行くつくところまでいきついた感のある現代。
それまでの「所属」こそがアイデンティティの証しであった時代から、あらゆる所属やしがらみからも自由になりうる可能性を持った時代に移行しはじめました。
でも、それはすべてが孤立したアトムの時代かに見えるのは、歪んだ経済競争の現象面で露出しているからであり、21世紀の展望から見直すならば、個人が縦横無尽に所属を選択したり、あらゆる社会的つながりを創造したりすることも可能な時代に入ったうえでの「アトム化」であるといえます。
余談になりますが、この所属のアイデンティティを喪失したアトム化した個人が、現代ではネット技術などの力にもより、自由なつながりを創造することが可能であることは、同じネット技術のなかでもfacebookのようなものではなく、ローカル性を発揮できるmixiコミュニティ機能のようなものの方が、今は劣勢ではありますが有効であることを感じます。
21世紀に一旦「アトム化」した個人が多様なつながりを獲得することを可能にするもうひとつの要因、背景は、20世紀型資本主義が商品経済においては「多様」で「豊か」な社会を実現したようでいながら、価値観やコミュニティなどでは極端に単層化した社会を築いてきてしまったことの反動があるとも言えます。
『逝きし世の面影』の時代をみると、貧しい暮らしのなかでもなんと多様な職業があり、多層な社会構造があったかということに現代の私たちは驚かされます。
この近世の見かけの身分社会のなかにある労働の多様性に比べると、現代の労働は、あまりにも「賃労働」の枠のなかで単一な狭い労働観しかないことに気づかされます。
現代では「モノ」だけは豊かにあふれて、価値観も多様化したといわれながら、世の中全体の階層は進歩のあかしとして単層社会化が津々浦々まで徹底されてしまいました。
ここに私は、単なるガラガラポンや政権交代などだけでは決して解決しえない構造問題の深淵を感じます。
ここで言っていることは、まさに「起業家精神」のことでもあるのすが、これまでの起業、独立の多くは、所属する会社や組織から別れて同じ業種の枠内で独立するといった面が主流だったのに対して、いま求められている「起業」とは、これまでに無かったものを創出しなければ事業の継続は難しい時代背景のもと、本来のただの独立ではなくまさに真の「起業」こそが求められているのです。
これこそが、本来の働くものの労働力の全面開花への本質的な一歩のはずです。
たしかに、まだまだ安易な起業をしても容易にには報いられない現実があります。しかし、仮に今いる組織から外に飛び出さなくても、そうした起業の精神を今いる職場のなかで発揮できない限り、多くの企業は衰退の道をたどらざるをえないのも事実です。
もちろん、ひとりで大胆な企業内起業家を目指しても、多くはただリストラの口実を経営者に与えるだけかもしれません。
にもかかわらず私が強調したいのは、首をかけるような難しい仕事を今いる場所でできない限り、仮に独立、起業しても直面する問題は同じで、ふたたび乗りこえられない壁に直面することが目に見えているからです。
そんなことやっていたら、首がいくつあっても足りないじゃないか、ともよく言われます。
しかし、「首をかけるような仕事」とは、そう頻繁に起こるものではありません。
まさにそのような「首をかけるような仕事」に出会ったその時こそが、より重要な問題を解決する創造的飛躍の大チャンスであるはずで、またそれこそが「労働」の本来もつ創造力の発現機会そのものであるはずです。
「首をかける」ような価値ある課題に出会えたこと、まさにそれこそが「労働」にこそ価値をみる側にとっては、「素敵なこと」なのです。
右肩上がりで工業化に突き進む時代の論理にくらべると、これはとても面倒くさい労働を要求しているように見えるかもしれませんが、より自分の幸せを実現できる社会としては、こちらの方が本流であると思います。
しかし、残念ながらここまでの話は、着実に支持され広がっている考えながらも、現代では未だマイノリティーの考えであることに変わりはありません。
大事なのは、突出したイノベーションのことではなく、すでに破壊されたかのような日常の暮らしや働き方の「しつらえ」レベルの再構築「創造」の時代に社会全体が移行し始めているのではないかということです。
ブラック企業や労働者への様々な締め付けのどれをとっても私は弁護するつもりはありませんが、働く者が「働きたいだけ」働き、すべてのエネルギーを直面している問題の解決のために全力投球する権利こそが、本来は、働くものの第一の権利であるはずです。
こうした発想を、いま多数の人に安易に求めることはできません。
でも、確実に時代のトレンドはこちらに向かいはじめていると感じます。
「賃労働」の批判よりも「労働」の創造そのものを軸にした活動
「生活環境」の批判よりも「暮らし」の創造そのものを軸にした活動
私のホームページhttp://hosinou9.wix.com/hpro にかかげたミッション
「今ある与えられた条件のなかにこそ、固有の解決策がある」
という目標は、政治的批判が先立ってしまうと、どうしても思考が途絶してしまう恐れが強いのです。
まわりに山積した社会問題は、どれひとつとっても片手間で解決できるようなことでありません。
政治的な取り組みにも、膨大なエネルギーと手間をかけなければなりません。
にもかかわらず、それ以上に思考と活動の軸足は、政治的な闘い以上に「仕事」と「暮らし」の再構築、創造にこそおかなければならないのではないかと感じるのです。
また、政治的な闘いの領域においても、これまで以上に伝え方、広め方の創造的革新が求められているのではないかと。
そもそも「創造」とは、今までになかったものを生み出す作業ですから、ちょっとなにかを学習しただけで出来るようなことではありません。そうした教育を一貫して受けて来なかった私たちに容易いことではありません。
でも、働くこと、学ぶこと、生きることの核心は、そこにこそあるのだということに、もう多くの人は気づきはじめています。
目の前に起きたことの解釈や批判に費やす時間よりも、圧倒的に多くの時間を、「わたしたち自身がこれから計画して起こすこと、試してみること」にこそ、時間と労力を費やさねばならないのです。
「息子やむすめたちに、努力に努力を重ねてふるさとを捨てさせるのは、もうやめにしたい。田舎に残った自分はだめだから、自分のようにならないで欲しいという自己否定は終わりにしたい。そうではない時代が、幕を開けつつあるのだから」広島県の最北部、庄原市の和田芳治さん『里山資本主義』より
誰かを責めている場合じゃない。
さあ、自分たちではじめよう♪
(映画「未来の食卓」のなかの子どもたちの歌)