今や世界中がSNSなどで、自分や相手がどこにいるかを意識することなく簡単につながってしまう時代です。
そのためか、相手との間での自然や季節のギャップを否応なしに感じさせられることも少なくありません。
私のいる群馬で言えば、早くも2月には渋川市の方から福寿草の開花が伝えられ、月夜野歳時記の3月の写真で福寿草を使ったことに無理があったかと一時は心配しましたが、今年の月夜野では3月末になっても福寿草はまだ真っ盛りです。
また3月末ともなれば桜の開花が伝えられる時期ですが、これも月夜野ではようやく梅が咲き始めたところ。
今年に限らず、梅と桜は北へ行くほど、ほぼ同時期に咲きます。
しかし、こうした地域による季節のギャップ以上に深刻に感じられるのが、一見、同じような自然風景を見ていながら、そこにある自然そのものに都会と田舎では、たいへんな次元の差があり、同じ言葉を交わしていながらも、また同じ写真や映像を見ていながらも、そこには大きな感覚のギャップがあることを屢々感じてしまうことです。
そんなことを言っても、実際には久しぶりに群馬の山奥から東京に行って、都会にある公園や庭園などを歩いたときは、都会生活をしていながらも東京のど真ん中にこれほど豊かな自然があるのかと驚かされたりもします。
まして明治神宮や皇居の森のホンモノ度は、群馬の自然と比べても決して遜色どころか、その完成度の高さには驚かされるほどです。
それにもかかわらず多くの人びとには、都会から群馬の山々を見れば、そこには羨む自然が溢れているように見えます。
また、その同じ群馬の中でも、高崎、前橋の都会に比べたら、渋川市や沼田市へ入った途端により山々が近づき、より豊かな自然に近づいたことを感じます。
さらにそこからこの月夜野の地へ来れば、いっそう山々がせまり、都会では味わえない田園風景を目にすることができます。
それでも、そこで目にしている風景は、まだ「里」の風景です。
ここからさらに藤原や片品などの方面へ向かえば、圧倒する自然を目にすることになります。
都会の公園であろうが、里の風景であろうが、山深い森林であろうが、普段私たちが目にする自然は、どれも私たちの心を圧倒する豊かさを持った崇高な世界であると感じるのは事実です。
ところが、そのどのレベルの美しく豊かな自然の中にも、大事な欠落したものがあることを一体どれだけの人が感じることがあるでしょうか。
目に見えているものの中に欠落したものは、見ることができません。
なかなか気づくことはありません。
それは何も絶滅したニホンオオカミやニホンカワウソなどのことを言っているわけではありません。
ほんの30〜40年前の日本の風景の中に、当たり前のようにあったもの。
一体どれだけたくさんのものが、この目の前の風景の中から消えていることでしょうか。
それは先の東京オリンピックの頃まで、日本中どこにもあった風景や自然のことです。
私の記憶にかすかに残る昭和30年代。
昭和40年代もなんとかその範囲に入れることができるでしょうか。
学校の行き帰りに田んぼの畦道を通れば、その脇の堰や小川でゲンゴロウ、タガメやイモリ、メダカなど至るところで見ることができました。
畑の横を通れば、モンシロチョウ、アゲハチョウ、てんとう虫などは、たくさん見ることができました。
おそらく、それら以外に名も知らない昆虫や微生物を含めたら、一体どれだけの生き物たちが姿を消していることでしょうか。
運良く、絶滅危惧種に指定され保護の対象になった生き物などは限られています。
それらの消えた存在の多くは気づかれることないまま、公園や観光地の周辺で私たちは、何とか「豊かな」自然を取り戻す活動を精一杯行ってきました。
この月夜野に限らず、各地で行なわれている「ホタルの里」づくりなども、貴重なホタルの生息域を取り戻すことに計り知れない意義はあるものの、その周辺の田畑の自然環境の中にいたその他の昆虫たちを含めた生態系を取り戻すような活動ができている地域はとても限られています。
ここで安易に自然農法の復活だけを呼びかけてしまうと、「人権問題」とまで言われる現実の農作業現場の切実な問題を圧殺することになりかねません。
かといって減農薬技術も進んだいま、人体に影響のない範囲だからといって、虫の食べない、寄り付かない農産物を人間が食べることは俄かには同意しがたいものがあります。
大切なのは、いまの農薬の安全基準や環境基準値をクリアしているかどうかではなく、そこに本来の健全な生命の連鎖が維持されているかどうかということです。
生命の連鎖に必要なものが、欠けることなく揃っているかどうかということです。
産業としての農業との折り合いを考えれば、それは確かにどこでもすぐに出来るようなことではないかもしれません。
しかし、健全な生命をひとたび想定することが出来さえすれば、それが昆虫の保護であるのか人間の保護であるのか、さらには経済活動の保護であるのかを問わずに、共通の課題として解決のためのプログラムが日程に上がってくるものと思います。
1856年3月23日
ぼくは「自然」と昵懇(じっこん)になりたいーーその気分や習慣を知るために。
原始の自然がぼくにはいちばん興味がある。
ぼくはたとえば春のすべての現象を、ここにこそ完璧な詩があると考え、限りない努力を尽くして知ろうとする。
そのあげく口惜しいことに、ぼくが所有し読み終えたのは落丁本でしかなく、ぼくの祖先たちが初めのほうのページやもっとも荘重なくだりをいくつも破りとり、台なしにした箇所も多かったことを悟る。
神にも比すべき超人がぼくより先に現われて、星のなかでも極上のものを、いくつか抜き取ったなどと思いたくはない。
ぼくが知りたいのは、欠けることのない天空と欠けることのない大地。
文−ヘンリー・ディヴィッド・ソロー 選及び写真−エリオット・ポーター
『野生にこそ世界の救い』
山と渓谷社 1982年 定価4,900円+税 絶版
目の前にある大自然の風景パノラマのひとつひとつにちゃんと通し番号やページがふってあれば、どのページが欠けているのかは、容易に気づくことができます。
ページのふられていない本に欠けたページがあることに気づける条件は、そこに書かれた文章の文法の正しさではありません。
どんな大事な文章が欠けていても、全く違和感なく読めてしまうことは決して珍しいことではありません。
欠けているかどうかわからない普通の文章は、よほど注意深く見つめ読んでいる人でなければ気づかないものです。
もしも、欠けていない文章と比較することができれば、それはいとも簡単に発見することができるものですが、 まだそれを見たこともない場合には、その文脈のなかに流れている生命力の美しさをよほど注意深く観察しなければ、気づくことはありません。
でもここに至ってようやく、私たちは「美しさ」という主観領域の何たるかという実像にも少しだけ迫れたかに思えます。