車のなかで妻にふと「手間ひまかける」の「ひま」ってなに?と聞いた。
つまり、「手間をかける」は普通にわかるけど、「ひまをかける」ってことはどういうことなのか突然理解できなくなってしまったからです。
すると、妻はあっさり、
「ひま」ってのは「時間」のことでしょ、という。
ああ、そうか。
わたしは納得して、話はそれで終わってしまった。
ところが、しばらくして私の最初の疑問は、そういうことではなかったような気が漠然と湧いてきました。
手間ひまかけるのひまが時間だとしても、手間とは違うものをかけることの意味が言葉には表現されているはずで、そこに何か引っかかるものを感じていました。
そもそも、妻に手間ひまかけるのひまってなんだと聞いた最初の動機は、今の世の中、手間ひまかけることがいかに大事かということの話と、それが大事たと思う自分は「手間」より「ひま」の部分ばかり十分にかけているよなと、冗談話にもっていきたかったのだということを思い出しました。
それが、あっさり妻に結論を出されてしまったので、当初の冗談話に持っていくことを逸してしまったわけですが、その冗談話の真意や背景も、「ひま」が「時間」であってはちょっと違うのではないかという気がしてならないのです。
そこでもう少し考えてみると、現代の「手間ひまかける」の「ひま」が「時間」だとしても、それが単純に「手間」の繰り返しや量を増やすことだけが「時間」の実態になっていることが問題として見えてきます。
ただ手間数を多くすることではなく、手間のないただの時間も大事な中身ではないかと。
私がそんなことを意識するもう一つの背景になる出会いが最近ありました。
地元で、農業を産業化しない百姓の真髄を極めている田村貞重さんの言葉です。
最近、親しくさせていただいている田村さんといろいろな農業談義を聞いていた時に、田村さんが「今の人は、待つということができないんですよ」といいました。
育ちが遅い、病気にかかる、甘みが足りないなどのちょっとした症状が出ると、今の人は、すぐに肥料を足したり、薬を与えたりしてしまう。
どうしてそのような症状が出ているのかを考えず、その後どのように発育するのかを注意深く見守ることもしない。
待てないんですよ。
畑の作物の話をしているのですが、そのまま子育て論を聞いているような錯覚に陥ってしまいます。
もう一度、
「今のひとは、待つということができないんですよ」
これがただ手数を増やすことだけが「手間ひまをかける」ことではないことであると感じた理由です。
これは、ただ「待つ」ということでもありません。
大事なのは、今ある状態が一目見ただけでは、どうしてそうなるのか簡単にはわかるものではないということです。一つの結果は、様々な要因が絡み合っていたり、目に見えないものが影響していたり、時間をかければ自然に解決する問題であったり、即断困難な背景が溢れています。
だからこそ、見守る、調べるなどの手間が必要になってくるわけです。
農業や教育・子育てに限らず会社経営・経済においても、すぐに結果が出るようなこと自体が怪しいのです。右肩上がりの時代であればベースが伸びていたので、ちょっとした努力をすればすぐに結果が出たような気がしますが、右肩上がりの時代かどうかにかかわりなく真の結果を求めるのであれば、5年10年は見守るようなことは必然であることと思います。
スピードそのものに価値がある現代では、真の原因や背景を探ることなく、結論を下してしまうことがあまりにも多いのです。
確かにスピードは大事で、何事も手間ひまをかければ良いというものではありませんが、少しはただ手数を増やすだけではない「手間ひま」をかけることを、もう少し心がけていきたいものです。
以上、サボるのが忙しくて、なかなか仕事をしている暇のない私の長〜い言い訳でした(笑)
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