2009年に、「古代朝鮮の仏像はどこにある?」
といった記事を書きました。
ここで書いたのは、これほど日本に大きな影響を与えた古代朝鮮の仏教がありながら、わずかな石仏以外にどうして朝鮮本土には日本にあるような仏像が残っていないのかといったものでした。
ところが、この問いにズバリ応えてくれる本が出ていました。
国宝第一号 広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか? (静山社文庫) | |
大西 修也 | |
静山社 |
こつこつと売れつづけている本ですが、ようやく読むことができました。
タイトルは広隆寺の弥勒菩薩に焦点をあてていますが、中国、朝鮮を経て日本に仏教が入る経緯を広範囲な仏像の調査研究の積み重ねによって、その謎を解き明かしてくれています。
そもそも、わたしたちは古代朝鮮の文化が日本に渡来してきた要因は、亡命渡来人がもたらしてくれたものが多いものと思い込んでいた面があります。
勢力を拡大する高句麗や中国に追われた弱小国、新羅や百済から多くの亡命渡来人が日本にやってきたのだと。とりわけ亡命という性格から多くのすぐれた官僚、技術者たち日本にきたのではないかと思っていました。
本書の冒頭で、この見方が歴史のほんの一面に偏った見方であることを知らされます。
しかも、それは、現代の核技術輸出の事例との比較で。
現代でも最先端の技術、とりわけ核(原子力技術)などは、関係機関や周辺国の理解を得られないと簡単に輸出することはできません。
古代仏教は、現代のそれに匹敵するまさに最先端の文化、技術でした。
そんな時代のこと、高句麗の圧迫を受けて国家存亡の危機に直面していた百済は、救援軍の派遣を日本に要請するかたわら、百済外交の切り札として仏教を日本に伝える決心をしたのだと。
もちろん、朝鮮と日本との関係は百済一国との関係で成り立っていたわけではありません。様々な朝鮮半島内部の事情がからみあってうまれています。
最近では私たちも韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」などのおかげで、古代朝鮮の地名への理解があるので、プヨなどの地名がでるごとに、格別の思いもわきます。
そうした日本人にもかなり身近になった古代朝鮮と古代日本の歴史を、ひとつひとつの仏像の衣や台座のかたちの詳細な研究の積み重ねによって解き明かしてくれています。
このような著者たちの長年の研究の情熱が、前回の記事で李氏朝鮮時代にほとんど破壊されたといわれる古代の仏像の残存遺跡のなかから、歴史の脈略を解き明かし、さらには数々の新しい仏像の発見へとつながっていく。
終盤で30年前にわかった対馬の渡来仏の記述にいたると、歴史の積み重ねの謎解きの面白さ一気に増してきます。
奈良の都、中央でのみしか日本古代仏教をみてこなかった私たちに、対馬で90体をこす古代朝鮮の仏像がみつかった驚きは、おそらくまだ多くの人に伝わっていません。
地道な研究と発見の積み重ね立証のうえに、弥勒信仰、阿弥陀信仰から末法思想がどのようにそれぞれの時代に反映していたかなどを解き明かしてくれる本書は、実に内容の濃い1冊でした。
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