今日、広島原爆の日と9日の長崎原爆の日を迎え、福島第一原発事故の問題とあわせた核・原子力論議が盛んに行われています。
世論の多くは、速やかな原発廃止よりも、段階的な脱原発、つまり原子力への依存度を徐々に下げていく考え方が多いように聞こえます。
その理由は、再生可能な自然エネルギーなどへの転換をはかるにしても、現状のすべての原子力エネルギーを他のエネルギーに転換するには時間がかかることやコストの問題などがあげられています。
聞かれるかでもないことかもしれませんが、わたしは明確に、すぐにすべての原子力エネルギーを他の自然エネルギーに転換することはコストの問題があったとしても(それらの問題をクリアすることは現状でも可能だとも思っています)、今の原発は、即刻すべて停止させ、未だ技術的問題をたくさんかかえている「廃炉」にむけた努力を速やかにはじめるべきであると思っています。
「かもしれない」の議論は、双方の立場で、様々な言い分があることと思います。
しかしわたしは、あらゆる領域で「かもしれない」の問題が多いからこそ、議論のわかれることは、生命の安全を最優先させることが不可欠だと考え、それはゆずりません。
すみやかな廃炉で予想される電力不足とは、いったいどの程度のものなのか。
深刻な電力不足、節電が呼びかけられる夏も半ばにきている今、もう少し具体的にその見通しを推測することが可能な時期にきているように思えます。
前にも書きましたが、緊急に切実で大事な点は、総電力の抑制ではなくて、需要の跳ね上がるピーク電力のカットです。
この点に政策や技術を優先的に振り当てれば、目の前の問題はそれほど困難なことではないのではないでしょうか。
今日の本題はこのことではありません。
広島・長崎の日にあらためて原爆の問題と原子力の平和利用の問題は、あくまでも別の問題として考えるべきたという人たちと、「広島の原爆ドームの向こうに福島第一原発の破壊された建屋が見える」(佐野眞一)といった核問題として同根の問題としてとらえる人たちに分かれます。
わたしは後者の立場なので、その観点でいくつかのことを今日は書いておきたいと思いました。
原子力の平和利用として、とりわけオイルショックを経験してからは、石油に替わるエネルギーとして原発に大きな期待が持たれたこと自体は、歴史の必然の部分もあったと思います。
しかし、他方、核保有の口実としてそれがなされる危険を、私たちは北朝鮮の事例をみて身近な問題として知っています。
それでも、北朝鮮のような特殊な国の問題とは別だと言う人もいます。
原発と核兵器開発が、どの程度密着しているのかということについては、1974年のインドの例をあげなければなりません。
インドは1974年5月18日、研究用の原子力施設としておもにカナダから導入したサイラス炉というのを使ってプルトニウムを作り、再処理をしてプルトニウムを取り出して、そのプルトニウムを使って核実験に成功したのです。このときにインド政府は、「ブッダは微笑む」という暗号で実験の成功を伝えたといわれます。
このときのインドは、いわゆる平和利用のための施設、まったくの研究施設から核爆発装置を作り出して核実験を成功させたわけで、世界中、とくにアメリカにとっては大変なショックでした。(のちにアメリカの重水が冷却水として使われたこともわかり、アメリカは二重のショックをうける)
もちろん、だからといってどの国の原子炉も簡単に核兵器に転換できるわけではありませんが、無関係、別物であるといえる根拠はきわめて希薄であることは確かです。
ここに、ごく一部の人たちではありますが、先進国としての国力を持つためには日本の原子力技術開発は、絶対に不可欠であると考える人たちの根拠があります。またアメリカは、その他の一般諸国とは異なり、日本に対してはそれを容認して支援し続けた様々な背景もあります。
皮肉にも、アメリカ国内で原発がそもそもコストにあわないことが明るみになって、米国内の新規原発開発がとりやめられてから、その技術を海外に売ることで利益を確保しようとしだし、もちろんそれだけが理由ではありませんが、日本の原発開発も加速しています。
原発推進政策を、明確な意図をもって推進してきた人たちに石原慎太郎や、わが郷土の中曽根元首相などがいますが、彼らに共通しているのは、「国民(個人)」よりも「国家」を上におくという姿勢です。
先進国として対等に他国とわたりあうには「核」の保有は絶対条件であるという考えは、口に出せる人と思っていても口には出せない人の差はあっても、根強く一定層の人たちの間に存在し続けています。
「核」の力なくして対等な国際協調など、絵空事にしか過ぎないとの論理は、身近な人たちの間にも広く流布しています。
おまえらそれで何が守れるのだと。
これは、今のエネルギー問題の議論の構造でも同じです。
古くは産業革命後の世界が直面した人口爆発や食糧問題にはじまり、最近では水問題でも同じ構造が持ち出されます。
軍事だけではなく食料、エネルギーを含めた安全保障の根幹の問題が、ここにあります。
そこで今日こそあらためて問いたいと思います。
ふたつの世界大戦の惨劇を経験して、広島・長崎の悲劇を体験して、私たちは何を学んできたのか。
もう一度、考え直すべきではないでしょうか。
歴史から世界が学んだことはなんだったのか。
ふたつの世界大戦から、人類はその教訓を学びその後の世界は、ようやく最近再評価されだした戦勝国たちの横暴はありながらも、確実に一歩前に平和への決意を踏み出したことは間違いないと思います。
それでも世の中には、「核」の力なくして、アメリカの「核の傘」なくして、おまえら現実になにが守れるのだ!
同じように「原子力」への部分依存なくして、生活や産業の安定は、どう実現できるのだと声を荒げて主張する人たちがいます。
わたしは、それも現実には決して難しいことではないと考えているのですが、その議論はおいても、それらの考えの先に実際におきているのは、「国家」の利益を優先して「国民(個人)」の犠牲は当然のこと、あるいは多少は避けられないといった論理であり、また「より強い」国家があってこそ、国民の平和は保障されるものとの論理のもとに、それが「弱い国(者)を力で捩じ伏せる論理」であることを見逃してはなりません。
必ずその後に残るのは、広大な焼け野原であり、不毛化された大地と取り返すことのできない傷を負った人びとの姿です。
国を主語にした「力」によってだけ守られる「平和」は、私たちの「力」によってその欺瞞を暴露し続けなければなりません。
現実に「力」がなければ守れないではないか、という人たちの「狭い」力観。
「正義」のためには、他国の犠牲、自国民の多少の犠牲はやむをえないという「正義」がこれまでもたらしてきたことを、この時期は思い起こすべきでしょう。
もちろん、いかなる場合でもこうすれば絶対安全などという方法はありません。だからこそ、今、どちらの方向に向かうべきなのかを真剣に問わなければならないのです。
取り返しのつかない犠牲を避けることのできない実質の「弱い」力は、私たちの力でなんとしても押しとどめなければならないことを発信し続けたいと思います。
「今の原発は、即刻すべて停止させ、未だ技術的問題をたくさんかかえている「廃炉」にむけた努力を速やかにはじめるべきであると思っています。」
廃炉に向けた努力を速やかに始めるべきである点は賛成です。ただし、忘れてはいけないのは、原発は停止できないと言うことです。核分裂を停止させることは出来ますが、その後も崩壊熱が発生するので冷却を続けなければなりません。核分裂を止めても安全にはならないのです。少し増しになるだけです。
そして冷却をするためには電力が必要です。福島第1では、その電力が失われて事故になったのです。停止した原発の燃料を冷却するために原発を稼働しなくてはならないなどと言うアホな事さえ考えざるを得ないのです。
これこそが原発の本当の怖さです。
「生命の安全を最優先させる」ために必要なことは、運転を止めることではなく、止めた原発の燃料棒をどうやって確実に冷却するかです。(止めるなと言っているのではありません。)
運転停止は10年後の廃炉に向けた必要条件ではありますが、安全確保の十分条件ではありません。問題はかなりやっかいです。