久しぶりに異次元高校生の二人と遅くまで話をした。
日ごろ私は、大切な本を彼らか教えてもらうことも多い。
そこで、それぞれの推し本や萌え作家は誰かといった話題になり、いろいろ出し合った。
宇佐美りん
鈴木涼美
S・ソンタグ
鈴木涼美
S・ソンタグ
ユク・ホイ
ドストエフスキー
ニーチェ など
ドストエフスキー
ニーチェ など
とりあえず #石牟礼道子 に勝る萌え作家はいないということに話は落ち着いたのだけど、振り返ると、そうしたところに名前の出る作家は皆、書いてることの1割もこちらが理解出来ないことが多い。
(1割も理解出来ないというのは、そこの3人のなかでは私だけで、彼ら高校生は、私よりずっと正確に理解して、記憶もしている(^_^;))
それにも関わらず、それらの作家の本で私たちは、たった一行にも満たない表現で、まるで世界が分かったような気になってしまう。
誤解を生んだり、正しく理解されていないことが多いのも、そうした作家に共通している。
では、表現が下手だから誤解を生んだり正しく読まれないのかというと、決してそうではない。
深いところを指し示しているから、容易には届かないのだ。
「大切なことは、そっちではない」
「行くべき方向はこっちだ」
と強烈なメッセージを投げかけるので、誰もが右往左往しながら訳もわからないままどこかに導かれていく。
歴史を振り返ってみると、芭蕉が旅に出るとき、ガイドブックも紹介映像もない時代、ひたすら先人西行らの短い言葉だけでイメージを膨らませ、そこまで行かずにはいられない気持ちを湧き起こした。
そのような力が優れた作家や思想家の文章に共通してある。
大事なこと、深い問題ほど、誤解も生みやすい。間違いも起こしやすい。
悲しい現実だけど、優れた人ほど影響力が大きいがために、誤解や間違った行動を導きやすいのも事実。
その最たる例が、マルクスである。
マルクス自身は、常に具体的歴史状況を精緻に記述しながら語っていても、後世の人々は安易にテーゼとして形式化してしまい、果ては独裁や虐殺にまで至ってしまう。
その種はマルクス自身によりものなのか、誤解・曲解する側が悪いのか。
マルクス自身は、常に具体的歴史状況を精緻に記述しながら語っていても、後世の人々は安易にテーゼとして形式化してしまい、果ては独裁や虐殺にまで至ってしまう。
その種はマルクス自身によりものなのか、誤解・曲解する側が悪いのか。
他にダーウィン、ニーチェなども同じ運命をたどっている。
ドストエフスキーの深さもそうした類い。
ドストエフスキーの深さもそうした類い。
日本では、折口信夫が鋭い直感からその論理の先にある世界を指し示してくれる存在として思い浮かびますが、凡人が容易にその全容を感じ取ることは難しい。
そもそも古くから折口学(縦書きで哲学)などと言われるほどだからw
そもそも古くから折口学(縦書きで哲学)などと言われるほどだからw
でもそれでも行く価値のあるところこそ、恐れずに踏み込むべきなんだと改めて気付かせてくれたとても楽しい夜だった。
おかげでこの日わたしは、お金の起源が物々交換ではなく、借用書=負債に始まるというデヴィッド・グレーバーの『負債論』と、贈与による負い目こそが、贈与交換の核心であるとのマルセル・モースの『贈与論』。それと中沢新一の自然からの純粋贈与との関係を整理することができました。
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