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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

信長が生涯を通じて闘った相手

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
戦国時代を語るとき、私たちはどうしても信長、秀吉、家康、信玄、謙信などの力関係を軸に語りがちです。
しかし、戦国時代を切り開いて天下統一へ導いた信長の生涯をよくみると、
最も多く闘い、破れ、長期にわたって信長が争い続けた相手は
決して武田信玄でも、徳川家康でも、ましてや浅井、朝倉でもない。
信長が生涯を通じて闘い続けた相手は、
一向一揆に代表される浄土真宗であったといえるのではないでしょうか。

しかもその対峙する性格は、
武田信玄や上杉謙信、徳川家康などは、
どちらかというと領土拡張と天下取りのライバルであって
目指す方向では競いあってこといたものの必ずしも真っ向から対立していたわけではない。
考え方の面からも根本的に相反する相手とは、一向宗たちであったと思う。

堕落しきった坊主どもの総本山としての比叡山を焼き討ちしたこととは異なり、
一向一揆に対する闘いは、単なる仏教に対する弾圧目的だけではなく、
現実的な武装勢力としての脅威や、
天下統一の経済支配を確立する大きな障害として、
一大名の存在以上に、信長にとっては憎く邪魔でならない存在であったのではないかと感じられる。

現実に長島一向一揆には三度も負け戦を強いられたばかりでなく、その内容も
弟の信興を自刃に追いやられるばかりか、二度目の闘いでは信長自身が命からがら岐阜の地へかえれたありさまだった。
また石山本願寺との闘いは10年にもおよび、他の一揆のように根切りにすることもできず、かろうじて勝てたものの和睦のかたちをとらざるをえなかった。

また一向一揆以外の、武田や浅井・朝倉を相手にした戦いをするたびに、背後で絶えず信長の足元を脅かし続ける存在でもあった。

では、なぜ一向一揆は大名の武装兵力などのような組織化された集団とはいえない農兵の集まりであったにもかかわらず、それほどの強さを誇れたのだろうか。

もちろん、その一向一揆の存在は、反信長連合たる武田信玄を中心とした将軍足利義昭、三好・松永・浅井・朝倉などを一環のなかで補強・支援されあう関係にあったのであるけども。

それは信長個人の性格の問題だけではなく
戦国時代に天下統一を成し遂げようと考えた場合、
明治維新や敗戦後のアメリカの占領政策などとも共通した
「近代」化政策にともなう国家の一元管理システムづくりが根底に必然であったからだと思うのです。

時代を超えて、国づくりを推し進めようと考えたとき、必ず「近代化」の名のもとに、
合理的一元管理の社会システムの構築が求められますが、
一向一揆の場合は、単にそれらの改革に対する「保守」勢力としての立場での反乱ではなく、上からの統制管理に対する民衆の「多様な」反抗の現われとして、時代を超えた象徴的存在であったと感じるのです。

今までの親鸞の思想を軸にした話とはまたガラリと内容が変わりますが、
そのような一向一揆とはどのようなものであったのか、
その強さの秘密はなんであったのかを次回に書けるかどうかわからないけど書きます。




正林堂店長の雑記帖 2008/2/28(木) より転載
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アイデンチチ

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

親鸞の他力思想にかかわる枝葉の話しをもうひとつ。



外国であなたのアイデンティティーは、と聞かれると
それはカトリックか、プロテスタントか、
ヒンドゥーかブッティストか、という意味ですが、
日本人にそうした感覚はあまりない。

日本人が連想するのはIDカードのアイデンティティーで
ソニーの社員です、とか
渋川市役所の職員ですとか、
よく解釈しても、日本人であるとかをイメージしてしまう。

実は、この違いが今とても問われているのを私は感じます。


アメリカの法廷や議会での宣誓シーンで
「あなたは真実のみを語ることを誓いますか」
との問いに
「イエス、真実のみを語ります」
といいますが
「誓います」のあとには
「イン・ゴッド」がついています。
つまり、神に誓っているのです。
誰に誓っているのか、何にたいして誓っているのかを明言している。

それに対して日本の国会や法廷での宣誓は
いったい何に対して誓っているのだろうか?
まさか、良心に基づいて?
証人喚問に呼び出されるような人間の良心なんか
はじめからあてになるものではない。

では、欧米並みに日本も
「神、仏に誓って」と言えば良いのだろうか?
日本人の感覚からして、いかに信心深い信者であっても
それはなんか違うような気がします。

それは、唯一絶対の創造者たる神に誓うのと
東洋の神々に誓うのとは、そもそも神の性格が違うからだと思います。

ここに日本人に求められるアイデンティティーの難しさを感じる。



この日記タイトルを「アイデンチチ」としたのはそこの問題です。

今、世界で一般に通用するアイデンティティーは
天地創造の唯一神に誓う、それぞれの「イン・ゴッド」であり、
それは文字通り「天地創造の父」への誓いだといえる。

それに対してわれわれ東洋の人々が崇める神は
天地創造の神・父ではなく
万物創造のみなもとである「大地」であったり
「地球」であったり
「宇宙」であったりする
生命の「母」です。

この母に対する「信頼」のもとにわたしたちはいるのであり、
それは、なんとなく「誓う」性質のものではないような気がします。
これこそ親鸞の言う「他力」信仰であり、
人間であれ、神であれ絶対者を想定しない発想です。

これまで、私たちは法律でも経済でも
客観的、合理的でないとものごとをすすめられないことを当たり前のこととしてきました。
西欧流のアイデンティティー(それは日本語表記では「アイデンチチ」)を受け入れない限り合理性、近代社会のなかには入れないような呪縛にずっととらわれており、今でもその流れのうえにいるといえますが、
日本人のアイデンティティをもし本当にとり戻すことを考えるならば、
無理やり「イン・ゴッド」と「天地創造の父」への誓いをたてるよりも
生命の豊かな「母」にいだかれていることへの信頼を取り戻すことのほうが
世界に対するメッセージとしても、これからの時代にふさわしい
ずっと進んだ世界観として提示できるのではないかと思うのです。

そのアイデンティティーとは
努力の積み重ねや理論武装を重ねること
経済的な成功で自分を大きくしていくことで築かれるようなものではなく、
自然と人間の生命そのものへの絶対的信頼に裏打ちされたなにかではないかと、
漠然と思っているのです。

私は、そんな思想背景を親鸞の「他力」思想のなかに感じます。



この話は国家統一への現代に至るベクトルの起点として信長の存在をみて
その反作用として成長した浄土真宗の一向一揆の普及発展の経緯をみる
枕としてのお話のつもりでもあるのだけど・・・



      正林堂店長の雑記帖 2008/2/27(水)より転載
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誤解されやすい親鸞・浄土真宗

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

誤解の多い異端の宗教、浄土真宗のことを理解してもらうために
歎異抄のなかの有名なくだりの話をもうひとつふたつ先に書いておきたい。

親鸞が唯円に、おまえは私のことを信じるかと訪ねるところがあります。
それにたいして唯円はとうぜん「もちろんです」と応える。
「ならば私のいうことは何でも聞くか?」
「かなずおおせのとおりにします。」
すると親鸞は、
「よろしい、ではまず人を千人殺してみよ、そうすれば浄土への往生は間違いない」
というと唯円は
「おことばではございますが、私には千人どころか、ひとりでも自分では殺すことはできそうにありません」
「ならばどうして親鸞の言うことに決して背かないといったのか」

ここに究極の合理主義的宗教(そんな定義がなりたつのかはわからない)の問題提起があります。
この問答ばかり有名になってしまい、オウム教団のときにも引き合いにだされたりしましたが、大事なのはこの次の親鸞の言葉です。
親鸞のことばは次のとおり。

「これでわかったであろう。

もしなにごとも自分の意志によって事が成るとしたら、浄土へ行くために千人を殺せと言われれば、ほんとうに殺すかもしれないではないか。

それができないというのは、べつにそなたの心が善いからではないのだよ。

それは自分の意志によって、殺すことができぬのではない。
なんらかの状況においては、人は苦もなく百人、千人を殺すこともありうるのだ。

このように、自分の心が善であれば往生にも良く、悪であれば往生の妨げになるなどと自分で判断してはならない。

自分の意志によって善となっているのではなく、
悪をなすのも、悪の意志によってなされるものではない。

阿弥陀仏はそれを前提として、善悪かかわりなく救うと約束されたのである。

そのことを忘れないように」


ここに「他力」思想の魅力、修行や努力の積み重ねは大事であるが、それで簡単に人間が完成されるようなものではなく、さらに努力をしていないからといって、その人間存在を安易に卑しめるようなものではないという親鸞の深い人間観がある。

人間とは、究極には了解しえない存在かもしれないという怖れの感覚、人間というこの未知なる存在の前に、まず辞を低くして心を澄ましてみようとする謙虚な姿勢が親鸞の思想、「他力」の考えのなかにはあふれている。

このことを前提にして、最も有名な
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」」
の意味に静かに耳をかたむけなければならない。


がっ!

この親鸞の深遠な問いかけ、
歴史を振りかえると、インテリ知識人にとても注目されているにもかかわらず
あるいは日本の宗教改革ともいわれる鎌倉仏教の高い評価のわりに、
現実の信仰やその後の日本人の日常意識の間には根付いていない。

そのことを語り、
突破口を見出すために
親鸞のから時を経て、蓮如以降の時代に
あまり知られていないフランス革命より早く大規模に実現した
一向一揆衆によ平等思想社会「百姓ノ持チタル国」のことを
これから考察してみたいのです。

いったい、いつになったら本題に入れるのか
はたまた入れないのか?
私も知~らないっ。


   正林堂店長の雑記帖 2008/2/26(火) より転載
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地獄は一定すみかぞかし・私見

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

親鸞の教えに対して、巷に誤った理解が広まってしまっていることを嘆いて唯円が書いたといわれる『歎異抄』のなかの有名な言葉のひとつ。

いづれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。



もともとこの『歎異抄』は、親鸞自身の著作ではないだけに、正しく親鸞の教えを伝えるものであるのかどうか、はたまた作者の唯円という人物すら3人いたとか、実在はしなかったとか、なにかと物議をかもし続けている作品なのですが、その言葉の力がとても強いものがあるので、多くの人に読まれ愛されてきた作品であることに間違いはない。




また本文は40ページほどの短いものでもあるので、私もシステム手帳に岩波のワイド版文庫をはさんだままにしてずと持ち歩いていた(開くことは少ないのですが・・・。)否、そのシステム手帳自体、最近はweb2.0の時代になったおかげで、行った先々のパソコンで必要な業務が継続できるようになったことや、携帯電話で日常のかなりの機能がすまされることで、持ち歩くことはほとんどなくなってしまった。

で、この「地獄は一定すみかぞかし」という言葉も
ここで言う「地獄」は現世のことを指しているのか、文字道理あの世の「地獄」のことを言っているのか、解釈はわかれる。

この『歎異抄』という小さな本が、仏教界だけでなく、おそらく般若心経とともに幅広い人々に読まれてきているだけに、様々な分野の人々からいろいろな読み方がされつづけているといってもよい。

それに対して、私はこの「地獄は一定すみかぞかし」という表現にたいして5年くらい前からだろうか、ずっとひとつのイメージでとらえている。
おそらくそれは、最近の世相のあらわれと、自分自身の仕事のスタイルがほぼ確立してきたことによるように思える。

私にとってのそのイメージとは、ざっと次のようなもの。

私にとって「地獄は一定」というその地獄は、現世のこと。
かといってそれは、必ずしも決して煉獄のような凄惨なイメージではない。
凄惨でないわけでもない普通の私たちが直面している厳しい、時に悲しい現実のことです。

その現実から、多くの人々は浄土に逃れたいあまりなのかどうかはわからないが、芥川の蜘蛛の糸の話のように、糸をたどって上へ、上へと登っていく。
しかし、なぜか私はみんなが登っていくその糸には近づこうと思わない。
それが向上心に欠けるとは思っていない。

自分の仕事は、みんなの目指す浄土に近づくことではなく、
今、自分が立っている足元を固めることが仕事だと思っているからだ。

それは前のT書店に勤めていたころから確信がもてるようになったことですが、いろいろな仕事をさせてもらっているうちに、自分向いている仕事というのが、新しい店をまかされて軌道にのせることよりも、潰れかかった古い店をたて直す仕事のほうが、楽しく、自分自身に向いている仕事だと思うようになったことです。

ゼロから自由に新しい店をつくることの方が面白いのではないかと言われるが、私はどうもそうは感じない。
なかなか信じてもらえないのですが、一番の成功の秘訣とは
「条件が悪いこと」
だと思っている。
立地が悪い、予算がない、建物が古い、レイアウトが悪い、などなど。
決して悪いことを望んでいるわけでもないが、
与えられた条件が具体的に制約されていればいるほど、
必ずそこに「固有の解決方法」が生まれてくるのが面白いからです。

条件に恵まれた環境では、決して固有の解決方法は生まれない。
これは間違いない。
さらに、条件の悪い中で解決した方法のほうが確実に本質に近づいた長続きする結果をもたらすはずである(これは、まだ立証しているとは言いがたい)

私はそんなイメージで、いつも、糸をたどって上に上っていくことよりも、足元に砂を1センチ盛り上げ、それを自分の足で踏み固めて1センチ沈む。また砂を盛り上げては踏み固めて沈む。そんな感じのことをずっとやっている。

最近ではそうして足場固めをやっている間に、次から次へと、糸をたどって上に上ろうとしていた人たちが落っこちてくるのを目の当たりにする。
それは多くの人がその糸が自分の体重を支えられるのかどうか確信がもてないままに、他人のたどったあとの糸にすがって登ろうとした結果の姿に見えてならない。

また自分の足場を固めるということには、もうひとつのイメージがある。
それは、私は中学2年から高校3年までの間、豪雪地帯で知られる新潟県の六日町にいました。そこでは毎年冬になると数メートルの雪が積もり、屋根に積もった雪を降ろすために1階の屋根、2階の屋根に上らなければならない。そのとき、不安定で滑りやすい梯子を使って登るよりは、軒下に積もった雪の山の高いところから屋根に上ったほうがはるかに安全である。
しかし、その高さの雪の山に登るには、足場を確実に踏み固めながら登っていかないと、絶えずズボッと腰まで雪に埋もれてしまう。
何メートルも降り積もった雪を踏み固めるというのは、地面からすべて踏み固めるのではなく、表面の数十センチだけしっかり固めて登っていけば良い。このほうが梯子で登るよりはるかに安全なのである。
しかも降りるときは、後ろ向きで梯子を降りるrより、屋根から柔らかい雪の山へズボッと飛び降りたほうがさらに安心。また楽しい。

梯子という文明の利器を使うよりも、いつもそんな選択を望んできた。
そういいながら、OA機器など、最先端の道具を使うことも大好きだのですが。

同じ足場を固めるという言葉でも、社会生活という面からは、その場その場で生きているような私は、最もその言葉から遠い存在のように見えるかもしれないけど、梯子や蜘蛛の糸をたどって上に行こうという強い衝動には駆られないということだけは間違いない。

それが、最近、あまりにも上から落っこちてくる人の数が増えてきたように見えるので、ますますこのやり方で間違ってはいないのだと思うようになった。さらにマスコミなどで報道されている記事などを見ると、さらにか細い糸にすがって登ろうとしている人が絶えない。

かくして私にとっては
上(浄土)に登る必要を感じない、与えられた今いる困難な場所の方が結論を急ぐことよりも有利な条件が備わっているものだといったような意味で

地獄は一定すみかぞかし


もちろんそれは親鸞のいた絶えず生命の危険にさらされる動乱の時代ではない、のん気な立場だから言ってられることなのかもしれないが、
私の捉え方、そう親鸞の考えから遠いものでもないと思っている。

浄土思想のなかには、あの世でこそ救われるというだけでなく、
「この世でこそ」という意味が、
なんとなくこの「地獄は一定すみかぞかし」のなかには含まれているように思えてならない。


 正林堂店長の雑記帖 2008/2/19(火) より転載
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死シテ屍 拾フ者ナシ

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
前回、忍者と修験道・山伏の仕事を同時にひとりの人間がこなしている例をあげましたが、また当初の予定とは違う流れに行きます。
毎度、無計画ですみません。

真田忍者がそれまでの通常の忍者よりも高い地位が認められていたことが、
池波正太郎の小説のなかだけの話ではなく、先の資料で忍者養成隊長が岩櫃城城代にまでなっていることから史実として立証されていますが、
だからといって、多くの忍者の地位が高かったとは決していえません。

低い身分ながらも、自らの技能を損得を抜きに、命まで賭けて供する集団。
かれらをそこまで使命に一途に駆り立てていたものはなんだったのだろうか。

そこにはなんらかの宗教的信念もあったかもしれない。
戦国時代の真田氏のように仕える主君に惚れ込んで忠誠を誓うものもあったことと思う。
自らの技能・技術に対する誇りから生まれる意識もあったことだろう。

しかし彼らは常にいかに手柄をたてても名を残すことはない
常に無名の「影」と呼ばれるような存在にしかすぎませんでした。

そうした彼らが、報酬のためでもなく、名声のためでもなく
自らの命すらも賭して職務を遂行した背景はなんだったのだろうか。
これまで
差別されたり貧しい立場におかれた人々の精神的支柱として広く普及していたのは、
浄土信仰、浄土真宗がよく引き合いにだされてきました。
(このことは、のちにふれます)

でもここで私は、あえて歴史的根拠はありませんが、
最もそれにふさわしい思想として
ビックコミックに連載されていた中国の「墨攻」が思い出されるのです。
原作は酒見賢一。『墨攻』新潮文庫。
2007年には森秀樹による漫画を原作に、中国で映画化もされました。

まさに趙の軍勢2万が攻めてこようと追い込まれた小国、梁は、謎の墨子教団に援軍を求める。しかし、そこに現れたのは革離という男、ただひとりであった。
その城に今、兵と呼べる者は千五百がやっと。
革離はいう。
「御心配には及びません。それだけいれば十分です」

てなことからはじまるのですが、
文庫原作もコミックも両方おすすめですよ。



墨子はであったとされる。おそらくは工人階級の出で、思想家とならなかったら名職人として名を馳せたにちがいない。また墨とは刺青された者、つまり受刑者を意味するのではないかとも言う。どちらにしても、当時の身分制の最下位にいる。墨子が儒を学びながら、儒者と根本的に異なったのはこのあたりからきている。彼だからこそあらゆる階層に、「以て人を愛することを勧めざるべからず(人を愛することをすすめずにはいられないのだ)」ということができた。
 
                       酒見賢一


墨子・墨家とは、
中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団。
諸子百家のひとつ。
博愛主義(「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こる)を説き、その独特の博愛主義に基づいて、専守防衛に徹する。
その「非攻」の思想とは、当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。
ただし、防衛のための戦争は否定しない。
このため墨家は土木、冶金といった工学技術とすぐれた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果をあげた。

また、儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であると排撃したことなどにもより、当時広く受け入れられることはないあまりの先進的思想だったためか、秦の中国統一後は歴史上から消えてしまった。

          (以上、ウィキペディア「墨家」、「墨子」参照)

こうした概要を見ればみるほど、
私は、この墨家の思想が、真田一族とその忍者たちの姿にだぶって見えてしまうのです。


久しく、ビジネス中心の世界に生きていると、
どんなに崇高な理想があったとしても、それは
具体的な成果を金銭に換算できないようでは、
たとえそれがどれほど正しいことであっても
結局、自己満足にしか過ぎない、
といった見方にわたしたちは容易に反論することは出来ない。

しかし、今話題にしている忍者や
歴史上その多くは差別されてきた様々な無名の職人たちの
見事なその仕事ぶりをみると、
たとえ金銭に換算されなくても
歴然とした価値を燦然と輝かせている世界があることを
私たちに思い出させてくれます。

今流行の「品格」などといった言葉をつかうよりも、
こうした仕事、職務に徹する姿勢こそ
「カッコイイ」と感じる私たちの目指したい世界なのだけど。。。。



 
   正林堂店長の雑記帖 2008/2/8(金) より転載
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真田忍者「草の者」

2008年04月23日 | 上野国「草の者」研究所
ここまで、修験道の周辺に位置する非定住民の文化として、マタギ、などに起源をたどる芸能民、そして陰陽師などに触れましたが、次に取り上げたいのは「忍者」です。

戦国時代に限らず、戦(いくさ)の場では諜報活動が戦いの勝敗を大きく握ることは広く認知されてきました。そうした役割を古くから、山伏、僧侶、商人などが担ってきたことは知られていますが、専門職としての忍者がそうした職能の人々のなかから育ったり、あるいは提携協力して発達していったことは容易に想像がつきます。

しかし、忍者という特殊な集団の実像については、時代小説や時代劇ドラマで誇張、脚色されたイメージが強く定着してしまい、真の姿を知ることはなかなか難しいものです。

その点、伊賀・甲賀の地以上に、群馬県の中之条町周辺、岩櫃城や高山城のあった近辺には、真田の忍者に関する資料が意外と豊富に残っていることはあまり知られていません。

池波正太郎が『真田太平記』でお江という女の忍者を軸にして見事な長編を書き上げていますが、そうした作品が可能になった背景に、有名な伊賀・甲賀の忍者などに比べて、真田の忍者については、秘密を原則とした忍びの世界でも異例の具体的な資料が残っていたことにもよるかと思います。

昨年、私は中之条町の歴史民族資料館に行ってその資料のいくつかを実際に見ることができたのですが、そこで発行されたパンフレットには、貴重な資料がまことに稀有な事由でこの地に残った理由を以下のようにまとめています。

(1)、武田信玄から信望が厚かった忍びの養成隊長ともいうべき出浦対馬守幸久が、天正十年三月武田氏滅亡ののち、真田氏に招かれ服属し、のち岩櫃城代となった。
そしてこの地を根拠地として、多くの精悍な野武士たちが厳しい訓練のもとに、世にいう「真田の忍者」として育成された。
このほか信玄の時代、甲州に通称を原仁兵衛という軍配者(軍略家)がいた。原は入道して来福寺左京と称し、また修験の名を千蔵坊といった。郡内修験者の総元締りをつとめ同時に忍者の養成にも心をくだいた。
(ここに明確に修験道と忍者の活動が重複混在していたことがうかがえる)

(2)、五代真田伊賀守真澄の家臣に加沢記の著者としてしられる加沢平次左衛門なるものがあった。氏は当時稀にみる文筆家であり、博識を身につけていた。中之条町横尾の出身で、矢沢頼綱の曾孫にあたり、晩年一毎斉と号し、豊富な資料を使って、天文十年から天正十八年までの約50年間の真田氏を中心とする戦国の歴史を残した。この中に貴重な忍者の資料がふくまれている。

(3)、同じ真田伊賀守信澄の代官で中之条代官所に勤務していた、もと中之条町大塚の出身で林理右衛門という、文筆にたけた武士で、当時加沢記とならび称せられた「吾妻記」をまとめ(新井信示氏説)ここにも忍者の記録を残している。


忍者のことを真田太平記では「草」、「草の者」と呼んでいますが、
透波(スッパ)、鳥波(スッパ)、出抜(スッパ)乱波(ラッパ)
スッハ(信州)、ワッハ(上州・武州)、くさ、かまり、ふせかまり、かぎ物きき
などの呼ばれ方をしていたようです。

このような上州の地の忍びの歴史の特殊性から、私は以前
かみつけの国 草の者研究所を設立し、
その活動の一環で以下のようなことを試みたことを前に書きました。

「草の者の道」
 http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5680529.html
「草の者になる」
  http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5970588.html

まだ長くなりそうなので
次回につづきます。


    正林堂店長の雑記帖 2008/2/6(水) より転載
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安倍晴明以外の陰陽師集団のこと

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

仏教、神道とならぶ日本宗教の三本柱のひとつであった修験道を軸に書いてきたつもりでしたが、修験道にもっとも隣接するものとして陰陽師があります。

数年前から安倍晴明がブームになり、
陰陽師もその伝説キャラクターの加持祈祷スーパーマンの側面ばかり
イメージがひとり歩きしてしまったような感じがします。
もっとも、2004年は安倍晴明の1千年忌であったわけだから、
単なるブームといわずとも、騒がれて当然の時期ではあったとは思います。

私は、ブームの時の漫画や小説、映画は何も観ていないので申しわけありませんが、
『親信卿記』『小右記』『御堂関白記』などの貴族の日記などに記されている安倍晴明の姿というのは、
加持祈祷で怨霊を打ち負かすような話はほとんどなく、
いたって真面目で冷静な宮廷に使えるほとんど今の風水師のような一陰陽師であったようです。
日時の吉凶を占い、良い方位を選び、災厄・汚穢・罪障を浄める禊祓を行い、外出に際して反ぱいを行う、など。


(ちなみに、今、お店でやっているバーゲンブックのコーナーに、今度、講談の安倍晴明CD付きを仕入れます。たぶん売る前に自分で買っちゃうかも)

しかし、ここで取り上げたい中心は、
珍奇なオカルト現象や興味本位で陰陽師の秘儀を読みとくようなことではなく、
宮廷に使えた一部の陰陽師のほかに
多数の下級陰陽師といえるような人々が、修験道、山伏に匹敵するほどの影響力ももった民衆に身近な存在があったということであり、
それは、長い人類の歴史のアニミズムとシャーマニズム、さらには日本的信仰に連なる、
もっと普遍領域に属する問題と感じるからです。


陰陽師は修験道と同じく、
明治維新による近代革命で、民衆を無知蒙昧にとどめおく輩として、陰陽道を布教することも、陰陽師を名乗ることも法的に禁止されました。
これは、修験道の廃止令と異なり、
朝廷、天皇と密接にかかわってきた陰陽師が、天皇制の復活強化の時に排斥されるという奇妙なねじれ現象がでています。

しかし、このねじれは、陰陽師の発生した当初からその奇妙な関係を持っていたともいえます。

宮廷に使える陰陽師は、その当初から国の統率の根幹である「暦」の管理者でもあることから、極めて尊敬された地位を持っていながらも、その最高位は宮廷貴族に比べると、
非常に差別された低い官位であったようです。

それは古代から宮廷に使える技術者集団の多くが渡来人によって担われてきたことにもよると思われるのですが、大まかなながれをみると、
まず、五世紀の頃にヤマト王朝が成立してから、六世紀中期に仏教と儒教を統治政策の根幹に取り入れるようになる。
さらに七世紀に入ると陰陽・五行説も最新の方術として採用されるようになったが、道教は国家宗教としては認められなかった。
道教系の信仰は、役行者に代表される、民間の巫げきや山野に伏して修行する修験者が担った。

この古代の渡来系のシャーマニズムと日本に既に存在していたと思われるシャーマニズムの関係は、一筋縄では解明できないが、中国の考え方によると、

素朴な民俗信仰ではあるが、北東アジア特有の巫術が古代の中国では「小道」と呼ばれた。「大道」は国家統治の法であり学である儒教・儒学をさしたが、それに対し「小道」は卑俗な民間信仰を意味した。
「小道」は「左道」とも呼ばれ(た)。

ついでに付言しておくと、白川静の『字統』によれば、呪術巫儀を「左道」と呼ぶのは「右尊左卑の観念」が基底にあった。左右の原義は、右手に祝祷の器、左手に呪器を持って神に祈ることにあり、「左」という言葉には、本来的に呪術の意が含まれていたのである。
                沖浦和光『陰陽師の原像』岩波書店より

こうした思想が根底にあったためと思われますが、それともうひとつ、渡来人に対する差別があったと考えられています。

それにしても陰陽寮で働く官人たちの官位は低い。長官である陰陽頭も六位である。五位になって初めて下級貴族の仲間入りができるのだが、陰陽師は出世しても、朝廷で朝廷で枢要な地位を占めていた貴族の仲間入りをすることはなかなか出来なかった。典薬寮に勤務する医師や薬師も同じだった。この種の役所には優秀なテクノクラートが揃っていたのに、なぜ中・下級官僚にとどめられたのか。
さしあたって考えられるのは、(略)陰陽・五行説をはじめ、医学や本草学に通じていたのは、縄文時代以来この列島にいた在来系ではなくて、大陸からやってきた渡来系氏族だった。それも弥生・古墳時代の頃から定住して畿内の豪族となっていた古い家系の出ではなかった。たぶん五、六世紀の頃の比較的新しい渡来系の出身者が多かったのではないか。             
                         (前掲同書より)


こうした国家中枢にいた陰陽師とは別に、在来の民間に多くいた陰陽師も
国家が法制化した「触穢の体系」の普及浸透とともに、増えていったものと思われる。

そのなかでも陰陽師が深く関わった触穢の分野は以下の三つといわれる。

第一、死・産・血、それに糞尿などの排泄物が「汚穢」とされたが、そこから発現するケガレは目に見える実態だった。さらにケガレは、「穢気」として空中を浮遊するから始末が悪い、その穢気に触れるとケガレは次々に伝染するとされた。それを防ぐためにさまざまの禁忌が設けられた。

第二、アニミズム的思考がまだ色濃く残っている時代では、生命力の根源である〈気〉が萎えてくると、「気枯れ・気離れ」の現象が起きるとされた。これはもともと道教系の思考だった。そして活力の源である〈気〉を回復するためには、さまざまの呪術的秘儀と修練が必要とされた。

第三、不可視のモノで、自在に空間を動き回って人間の生命を脅かすものもケガレとされた。病気の因となる「邪気」、祟りをなす「物の怪」、人の目に見えず恐ろしい威力を発揮する「鬼神」などである。

これらの思想が浸透していくなかで
民間のなかの陰陽師集団も発展していったことが想像される。

「それぞれの郡に、斃牛馬処理などを兼ねたキヨメ集団が二つ、陰陽師・雑芸能・竹細工などを兼ねた集団が一つ存在していた」(三浦圭一「中世近世初頭にかけての和泉国のおける生活の実態」『歴史評論』第三六八号 1980年。

 元禄期の頃までには、この前者が「」村となり、後者が「宿」となっていく。

と、このあたりになってようやく『カムイ伝』の背景も見えてくる。
ほんとは、もう少し陰陽五行説に詳しくふれて、民間信仰に密接な陰陽師の姿を書かなければならなかったのですが、だいぶ長くなってしまったので、毎度、尻切れトンボながらこの辺までにします。


しかし、再三強調しておきますが、
特定の職種・職能のみでそれに従事する人々を特定の階層に位置づけることは、
いつの時代でも無理があり、その誤解から新たな二次差別を生むことにもつながっていることを再度記しておきます。

陰陽師集団が、宮廷周辺以外の在野に多くいたことが、
今のイメージではちょっと想像しがたいかもしれませんが、
こうした庶民の間での「触穢の体系」の浸透していったことをからめると、
修験道・山伏に次ぐ影響力のあった集団であったことも容易に想像されるのではないでしょうか。

今の占い、風水ブームをこういった歴史の視点からもう一度とらえなおすことも大切だと思います。

だいぶ今回は「引用」が多くなってしまいましたが、
「陰陽師」だから。。。



正林堂店長の雑記帖 2008/2/5(火)より転載



『陰陽師たちの日本史』角川選書/斎藤英喜 著
https://www.youtube.com/watch?v=zASU13hV3B4&feature=youtu.be

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河原乞食と芝居

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

そうそう、昨年の全国地芝居サミットの会場となった
三原田の歌舞伎舞台と観客席の櫓組があまりにもすばらしかったので、
地方芝居、地方歌舞伎・人形浄瑠璃や
とりわけ群馬は多く残っている歌舞伎舞台のことを整理してみたいと思っていました。
「全国地芝居サミット」
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/19020319.html

いわゆるとよばれるから生まれた芸能の世界
歌舞伎、人形浄瑠璃、万歳などへ発展していく系譜や
その歴史と構造にはとても興味が湧きます。

このところ毎度紹介させていただいてる沖浦和光氏は
近世の歌舞伎芝居は三層構造になっていたといいます。

「上層にあったのは、京、大阪、江戸のいわゆる三都の町奉行から櫓免許を得ていた、天下公認の大芝居である。
中層にあったのは、神社や寺院の境内で興行していた小屋がけの芝居、いわゆる宮地芝居である。興業は百日に限られていたので百日芝居とも呼ばれたが、見物席には屋根がなく、櫓、回り舞台、引き幕は許されなかった。低料金なので繁盛したが、天保の改革で全国的に取払いを命ぜられて断絶した。
それよりもさらに下層にあったのが、「役者村」から出た旅回りの一座であった。」

大芝居の役者たちは、近世中期からいちおう脱化したとはいえ、もともとの出自は「」であると、つねにさげすまれてきた。
四世市川団十郎の
「錦着て たたみのうへの 乞食かな」
という有名な句はその意識のあらわれ。

それで近世の歌舞伎は、享保、寛政、天保と幕政の大改革が行なわれるたびに弾圧をうけて、店天保期には、三座の大芝居もついに浅草猿若町に強制移転を命ぜられた。
穢多頭弾左衛門の敷地とに隣接する土地である。
かくして浅草の地に、典型的な〈悪所〉が形成された。

(この辺のことは、酔いどれさんがたぶん詳しいことでしょう。)

役者たちは居住地を制限され、深網笠の着用を強要され、武士や町人との交友も一切禁じられた。
役者の代表格であった七代目市川団十郎は、身分もわきまえず「奢侈 潜上」の科をもって、みせしめのために手鎖をされて江戸から追放された。

旅回りの一座の役者たちは、なかには大芝居に劣らぬ名優も出たのであるが、流浪の旅をつづける漂泊芸能者として賎視された。
彼らは、たとえば夙(宿)のようないわゆる雑種と同じ身分としてあつかわれ、通婚も自由ではなかった。役者同士の結婚であって、農民や町人との通婚は全くありえなかった。

ある古老の思い出話の紹介
「あたしが役者をやめた頃は、まだ芝居の役者は世間から乞食かなんぞのように、さげすまれておったんです。芝居の座を解散にふみきったのも、これが一番の原因ですたい。そん時、あたし達は先祖が役者やったということを、断じて隠し通そうと誓うて、衣装や小道具、書きものなんか残らず処分してしもうたんです。それは明治36年のことでした。」

こんな話を知ると、歴史文化財として各地に残っている回り舞台跡など、ただ時間とともに流行らなくなり、古くなって廃れたというだけではない歴史の実像が見えてくる。
とても重いですね。


群馬の赤城山麓周辺にたくさん残る歌舞伎舞台も、決してすべてが公認された舞台としてあったわけではないらしい。

おお、ちょうど渋川の正なんとか堂とかいう本屋でやっている、みやま文庫のフェアに群馬の芝居小屋についての本があるではないですか。

「五人組帳の前書きは年頭に読み上げられて、芝居は禁止されるべきこととの条項が明らかにされていた。踊(芝居)を願い出ても差留めになったのである。舞台が神社のすべてに出来ているといっていい程に多いのは、神への信仰という農村のかくれみのであり、かくれ芝居が実施されていたことでもあろう。」
            『近代芝居小屋考・群馬県』みやま文庫

このたびの地芝居サミットに参加した小学生などの例でもそうですが、
村に来た専門職業集団の芝居を見て村人が感動するとともに、
自分たちでもやってみたいという村のなかから育った芝居も数多く存在していました。
全国の地芝居は、プロの興業集団によるものよりも、むしろこうした地域から育ったもののほうが主流であったのでしょう。

かたやそのなかにはプロ化していく中に、アマチュアとしての活動範囲の模索もあっただろうとも思います。
やがて映画の時代の到来とともに、芝居小屋が映画館になっていったもの多いのですが、そこには昭和に至る時代のひとびとの哀歌も感じますね。
当然のことながら、まだテレビもラジオもインターネットも無かった時代、人々は舞台の役者の、一挙手一動に注目して歓声をあげていた様子が目にうかぶ。



  正林堂店長の雑記帖 2008/2/4(月) より転載
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明治維新以来、百数十年の遠回り

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
しばらく思いつくままに話はアチコチに飛んですみません。

先の内山節さんの講演会で、修験道は神道、仏教と混交した姿を本質とし、
明解にそれぞれを分離させることができなかったばかりに、
国家神道を中軸に新しい国つくりを目指す明治政府から徹底的に排斥されたといった旨の話がありましたが、修験道と同じように排斥されたものに
まず陰陽道があります。
そしてまた様々な民間信仰もその排斥の対象とされました。
(陰陽道なんて、本来は天皇制と密接にからんだ信仰でもあるのに・・・)

ヨーロッパの合理精神を積極的に取り入れ近代国家の建設を目指した明治政府が、
非合理的と思われる信仰の世界を排斥した一方で
世界史に逆行した王政復古と国家神道を強化していったことは、
尊王攘夷の嵐吹き荒れる当時の社会状況の上とはいえ、
今から思えばアクロバット的政策判断であったとも思えます。
酷い政策だけど、その政策指導力には
ちょっと拍手喝さいしてあげてもいいような気さえする。

そして山伏や陰陽師とともに
民間信仰の領域で諸国を遍歴していた遊行者・遊芸民たちも
新政府の応じて各府県でも禁令が布告されました。

例えば群馬県では、
「一、乞食・。
 二、梓巫・市子、
 三、瞽女(ごぜ)
 四、辻浄瑠璃・祭文読之類」は
県内に立ち回った場合は
「順次管外へ放逐」する、と指達している
   (群馬県令、明治六年五月九日)

さらに加えていえば、
大道芸をやりながら啖呵売で「ガマのアブラ」などの薬を行っていた「香具師(やし)」も禁止されました。
彼らは「野巫薬師」だった。
香具師を名乗ることが出来なくなり、それからは「テキヤ」と呼ばれるようになった
(のだよ、寅さん)

と、書くと
明治政府ばかり酷かったように見えてしまいますが、
戦後「民主主義」下での反右派の流れのもとで失ったものもそれに劣らず大きい。
戦後民主主義下では、逆に国家神道と儒教的なものの見かたとともに、宗教そのものが非科学的な人間の未熟な意識としてまでみられるようになってしまい、廃仏毀釈ほどの強行こそなかったものの人びとの宗教に対する色目はキツイものがありました。

私たちの日常的な民俗儀礼の多くは仏教に基づくものといえますが、
人生の大きい節目で行なわれる通過儀礼や季節の変わり目で催される民俗行事は、
その表層を剥いでみると、
意外に道教・修験道・陰陽道の濃い影がみられます。

それらの地域の風俗習慣は、信仰の側面を持っていたとはいえ、
それがまさに風俗や習慣であったことで、
様々な排斥圧力にもめげずに各地に残ることができたのですが、

これら百数十年の間に失われたものを
調査研究し、文化財的な保存を試みることは既にとても困難を極めています。

それでも最近では各地の郷土史家などの努力を通じて盛んにおこなわれるようになってきていますが、
これらのことがらが、地域社会でどのような積極的な役割持っているのかということについては、文化保存ロマンチズム以上の研究は意外とされてきていません。

今、ようやく注目されるようになったのは
それらの復活ではなく
それがどのような意味を持っていたのか、ということの問い返しです。

ずっとここへの書き込みが先送りになっている
内山さんの最新刊『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』は
そうした問いかけを主題にした本です。
この本では1965年を境にした変化に注目していますが、
明治維新以来、百数十年の間
「近代国家の建設」とともに、国家神道一元化や反神道、宗教へと揺れ続けながら
大事なものをずっと失い続けてきてしまいました。

この問題に、ずっと郷土史家の問題意識が歴史保存研究のレベルに止まってしまっているのは、
ここから先の「こころ」のありようの問題を話題にすることが、とても難しいからなのだと思います。

でも、この百数十年の遠回りをしてきた歴史を取り戻すことは、
とても大事なのです。
その作業を「かみつけの国 本のテーマ館」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/
はチビチビと重ねているつもりなのですが・・・
(今、ちょうど広告非表示の期限が切れて、更新手続きができず、余計な広告表示が入ってしまっているので、リンク紹介はツライ!)   

あれ?
明治維新にふれて、はじめは何を書こうとしたんだっけ?
なんかはじめ考えてたのと展開が違ったような。

ま、いいか。
また、つれづれに続けます。
遊行民、、芸能の民の方へ行こうか、
雑技職能集団「忍び」「草の者」の方へ行こうか。
南方文化と海の民の方へ行こうか。




      正林堂店長の雑記帖 2008/2/3(日)より転載
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圧倒的アドバンテージ・土地所有

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
前回、非定住民が差別されたり、貧困におちいる原因として、
食っていくための源資としての、田畑や山林などの土地所有から隔絶されていることを根本原因として指摘しました。

またちょっと話がそれますが、
このことは、国や民族を問わず、人類にとって大事な視点なので
差別以前の問題として少し補足しておきます。


前に、江戸期以前の日本の山林の管理には
「所有」の概念が無かったということを書いたことがあります。
日本人にとって山林は、天賦自然のものであって
個人が所有する筋合いのものではなかったと。

山から木を伐る。
鳥獣の狩猟をする。
山菜や木の実を採る。
薪などの燃料を取ってくる。

これらの権利は、
特定の個人が山を所有することで保証されるものではなく、
それぞれの用途で山に入る者それぞれに
その山の「利用権」として与えられるものであった。

ひとつの山が
狩猟をする者には、狩猟の権利を持って山に入ることが許され、
別の者には、木を伐採する権利のみ認められるといったように。

また、上野村など、ある地域では
「山に上がる」という言葉があり、
なんらかの事業の失敗や災害などで借財を抱えたり、財産を失ったりしたとき、その者を村公認で「山に上げる」という。

そのものは村から味噌などをわけてもらって
山に建てた仮小屋にしばらくにこもる。
その山にこもっている間は、誰の山の木を伐っても
どこの山に入って山菜を採っても許される。
かつて山にはそれだけ豊かな恵みがあったということで
今では実現できない話であるけれども
私有の概念が入った山林であっても、
公共の財産として利用するすがたがよく見えて面白い。

ここに、自然そのものが
人間によって所有管理される筋合いのものではなく、
自然それ自身の生命の恩恵に人間が、生物全体があやかっているという
人間中心ではなく、自然中心の社会観がある。

これは、なにも日本独特のものではなく
地球上の人口全体から見れば、この考えに基づいている社会の方が多く、
むしろ世界史的には、ヨーロッパ狩猟民族だけが
個人による「所有」概念を自然に、世界各地に
拡大していった特殊性があるように見えます。

そればかりか今では、
この土地そものの本来の公共的性格は、
資本主義国内であっても、
環境保護のために必要とされる自然や
公共性の高い都市部の土地などは、
個人の私的所有の対象ではなく
国によって管理されるべき公共のものであるという考えが多くなっている。

それは市街地の商店街などにおいても
個々の店を所有している事業者それぞれは、私的利益を追求する個人の集まりにすぎないが、
商店街や地域という視点でみると、
単純な個人事業者の集まりではなく、地域という
公共性を支えあった事業者の集まりで、
私的利益の追求だけでなく、町の行事に参加したり、
それぞれの事業が地域の経済循環を支える大事な構成部分であることから、その土地の事業権として、事業の意志とは別に
それぞれが極めて高い「公共性」を付与されているともいえる。

日本の土地バブルを生んだ中曽根政権時代を境にして
投機の対象としての土地、
所有していれば、間違いなく値は上がっていくものとしての土地
という考えは、
この半世紀ほどの間に急速に世界に広まってしまいました。

しかし、ようやく
世界各地で、環境保護の視点から
都市部の景観保護や計画的街づくりなどの視点から
土地というものがそもそも「公共の財産」であり
個人によって所有されたり売買されたり
あるいは投機の対象にされるような筋合いのものではないということが
公然と主張される時代になってきました。

公共性の高いものは
所有権によってではなく
利用権によって保証されるべきであると。

ちょっと前の時代なら、こんな話をしただけで
それは共産主義思想だなんていわれたものですが、
もうイデオロギーを問わずそうしたことが語られる時代になってきています。

こうした
極端に進化した「私的所有」の考えに対して
「公共性」という「目に見えない社会資本」の概念が
今、世界で少しずつ浸透しだしています。


ところが、このことが、歴史を振り返ってみると
定住民と非定住民との間で
日本の歴史のなかでは
土地を所有しない非定住民のなかでも、
その多くは差別されながらも
「公共性」や目に見えない社会資本にあやかる環境が、
現代の孤立したホームレスや失業者に比べたら
まだ豊かなものがあったともいえるのではないかと感じてしまうのです。

まだまだ、あっちこちに話が飛びそうだな。
許してね。


  正林堂店長の雑記帖 2008/2/1(金)より転載
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非定住民・賎民の文化

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
山伏の話をしてきて、それが鉱物資源の管理者の側面が強いということから、その運搬の主要手段を担う海洋民族との接点も強いことが想像されることに触れました。

こうした話になると常に、様々な非定住民とのかかわりが思い浮かんできます。
酔いどれさんがサンカのことを話題にしたのも偶然ではないと思います。

ここで話題になる山伏、サンカ、マタギやなどは
いづれも文献的な正史で語られてこない領域だけに、
被差別の問題との間で誤解や混同も起こりやすいだけでなく、
時代によっては、現に断定しがたい混合形態もたくさん存在するものと思われます。

西日本を中心に300を超えるを訪れて古老からの聞き取りや資料調査を行った沖浦和光氏は、それらの実際の職能の領域を以下のように語ってます。

彼らは、産業技術の領域でもなくてはならぬ仕事を担ってきた。
優れた皮革加工技術によって、楽器・武具・衣装を作った。
農耕の必需品であった竹細工、井戸や池堀りや道普請などの土木、石切・石垣積みなどもやった。
鍛冶や鋳物師、石灰堀りや鉱石採取、染色、火薬製造、灯心つくりをやってきたもあった。
薬草を採り医療や獣医をやった民もいた。
山の保林や川の水番を仕事としたもあった。
狩猟や漁業、塩焼きや鵜飼いを専業とした民もいた。
庭師や植木職も、銀閣寺をはじめ室町期の名庭園にかかわった山水・善阿弥以来の伝統を引き継ぐものであった。

        『天皇の国・の国』河出文庫より

こうした職業の列記をみると、
職種の系譜こそあるものの、職業だけで被差別民やサンカと決め付けることに無理があることがよくわかります。

わたしは、こうしたことから
ホームページでとりあげているサンカやマタギ、真田忍者「草の者」などをとりあげるとき、それぞれをあまり専業職能集団とは限定せず、

田畑や山林などの土地所有を源資として食っていくことの出来ない
多能の人々

といったような意味で表現しています。

こうした意味でとらえると、
差別、被差別にかかわりなく、
土地所有から切り離された人々のなかに
文献的な正史では語られてこなかった、
もうひとつの正史の姿が脈々と流れているのを感じるのです。

しかしこの歴史も
中央権力の整備されるたびに
秀吉が海賊禁止令を出して瀬戸内の水軍を絶滅したように
徴税、徴兵などの法制が整備されるたびに
戸籍管理強化とともに新たな差別強化と排除の繰り返しをしてきた経緯があります。

ここに、制度を問わず、近代国家の成立と不可分の関係があるのですが、
先日の書き込みにも書きましたが、
このことが現代において
土地所有から切り離された新たなの拡大の実態を想起させられることに私はいつも話しをつなげたいと思っています。



賃労働・サラリーマンという雇用形態が
分業化による生産性拡大といった表面の姿をとりながら
その実態は「働くことで生きる」という実態から「疎外」された
自己の能力の拡大よりも
参加することでしか自分の能力の発現機会を得られない立場となった
現代の像、といったら失礼な表現になってしまいますが、
このことをあえて問題にし続けたいと思ってます。



    正林堂店長の雑記帖 2008/1/31(木) より転載
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マタギの巻物・通行手形と修験道

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
修正削除移動 傑作(0)
午後 7:22かみつけの国 本のテーマ館群馬県 Yahoo!ブックマークに登録 マタギの持つ巻物は修験道が発行したものなのだろうか?
修験道の話の続きで、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかから
以下の話を転載します。


マタギが持っていたり、東北地方の各地見つかっている巻物は精粗様々であり、巻物の体裁をとるもの、一枚紙に書いたもの、ああるいは帳面式に綴ったものなど、形式も様々で、そのすべてをひとくくりに決め付けることはできないでしょうが、大きくわけて二つに分けられるといいます。

 一つは狩人の祖として万次磐三郎、あるいは万三郎なる人物を説き、この人弓矢の名人として日光権現を助けまいらせ、全国の山々谷々どこでも狩りをしてよろしい、また獣肉をたべてもけがれないという許しを得たと説くものである。民俗学の方では通例この系統に「日光派文書」の名を与えている。
 いま一つの由来は、狩人の祖となった者は安田尊であって、昔弘法大師が高野山を開くとき協力した功により、野獣の霊魂を救う引導の法をさずけられたという内容をもつ。これを通例「高野派文書」と呼ぶことにしている。




この「日光派文書」が、群馬との関わりでも、とても興味深い内容を持っています。

 その内容の大体をいうと、昔万字万三郎という人があり、もともと祖先は皇室より出たが流浪して下野日光山の麓に住み、鳥獣を射て生計を立てていた。そこで弓の名手といわれ空飛ぶ鳥ものがさぬ人と名が高かったが、ある時、山中で白い鹿を見て三日三夜これを追ったところ、何度矢を射ても当たらず、ついに日光社前まで追って行った。ところがたちまち白鹿は失せて日光大権現の姿となり、「万三郎よ、汝をここまで連れてきたのは自分である。自分は年来赤城山の神と争っているが勝つことができない。我が姿は蛇、赤城は大百足であるので尋常では勝てぬ。汝は天下の弓の上手であるから、我を助けて赤城を射よ。」と仰せられる。万三郎が謹んで命に従うことを申し上げると、白木の弓と白羽の矢二本下さって、いついつつぎの合戦があると告げられた。

 さてその日ともなれば大風雷電して天もくらくなる。そのなかに赤城明神の姿が現われるのを、万三郎かの弓と矢で射て見事に明神の両眼に射当てた。このため赤城明神は戦に負けて引き返す。日光権現大いに喜び給い、万三郎に日本国中山々岳々どこで狩りをして差支えないと許可を与えられた。

           千葉徳爾 著 『狩猟伝承』 法政大学出版(1975/02) 

 さらに面白く不思議なのは、この「日光派文書」が、日光地方ではまったく見つかっておらず、会津から北の、日光山の信仰とあまりかかわりのない地方で、しかも狩人の由来記としてだけ通用した点です。

 マタギにとって、この文書は、生涯見ることも無いお守りだけの役割しかもたない例も多くありますが、多くの原本の製作推定時期が元禄から享保という幕藩体制の完成期に当たっており、一所不在の狩猟集団の通行手形の役割ももっていたのではないかと思われます。

 この通行手形の役割をもつ巻物の発行元が、おそらく修験道の山伏であったと思われます。


以上、「かみつけの国 本のテーマ館」
「マタギに学ぶ自然生活」より
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page136.html


 ここから、マタギに限らず、非定住民の幕府方に頼らない非公式の通行管理に修験道の権威がなんらかのかたちで関与していたことが想像されるかと思います。


            正林堂店長の雑記帖 2008/1/30(水)より転載
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山伏と修験道・補足

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
先日の内山節さんの講演会は、とてもよく修験道の世界が整理されて概括できるすばらしいものでしたが、私の「かみつけの国 本のテーマ館」の様々なページとの関連もある内容なので、講演で触れられなかった内容を中心に、修験道の世界の問題の広がりをちょっと整理してみたいと思います。


まず、修験道が衰退させられたひとつの要因に薬事法の度重なる改定で、山伏などが扱う漢方などの薬草を売ることが出来なくなっていった経緯の話が内山さんの講演でありましたが、山伏たちにとって薬草類とともにもうひとつ主要な収入源となる技術の代表が鉱物資源の管理があります。

 金・銀・銅・水銀、さらに翡翠など様々な鉱物資源の多くは、
山伏によって発見、開発され、その後の維持・管理もされていた。


【蛇足】
大仏建立などの国家事業で膨大な銅が国中から調達され、様々な職人や労働力が動員される様子については
箒木蓬生『国銅』上・下(新潮社)
に生き生きと描かれています。
ある坑夫が都までつれて来られて、造成され拡張されていく都の様子を横目で見ながら大仏開眼の壮大な式典の日までのうちに
仲間の命をひとり、ひとりと失っていく。
都へ連れてこられるときの様子は、生野銀山から足尾銅山へうまい話につられてつれられてくる近代の坑夫の姿(立松和平『恩寵の谷』ともダブル。
しかし、労働力を確実に確保するための行きの道中よりも、役目を終えた帰りの道中は故郷へ帰れる喜びもつかのま、危険に満ちた命がけの旅でもあった。
主人公が字を覚えて美しい詩の響きに目覚める姿を軸に
大仏建立のプロセスの詳細を知ることができる
箒木蓬生が書き上げた異色の作品で哀しくも美しい物語です。
おすすめ。



 山伏の格好のなかに、弁慶の絵姿などで見られる背負っている道具箱に金槌などの道具類が無造作に入っているのを目にすることがある。
いったいなんのための道具なのか?
それらは信仰のために必要なものとはとても思えない。
かといって闘いの道具類とも思えない。

あれは薬草採取や鉱物探索のための道具類であるという。
芝居の勧進帳の話にみられるように、大仏や大寺院の建立資金を全国に勧進してまわる仕事を山伏は請け負っていたが、そうれは資金集めの役割とともに、各地から大仏建立のために必要な膨大な金、銅、水銀の調達も大事な仕事であった。

そもそも、修験道の本拠地、吉野山から山上ガ岳にかけての山並みを金峯山(きんぷせん)というが、
その地下には黄金が埋まっているという。
修験道とは「黄金信仰」である。
本尊の金剛蔵王権現は黄金の守護神である。

以下は、前田良一著『役行者』の記述です。

山伏は山中でいったい何をしていたというのか。
コロンブスは金峯山の黄金を探すために、大西洋を西に航海した。
カリブ海の島を日本であると信じ血眼になって黄金を探している。

大海人皇子は吉野で挙兵いsて天武天皇に即位した。古代最大の内乱である壬申の乱の勃発である。
このとき、吉野には小角が山伏軍団を率いて君臨していた。
果たして、大海人と小角の邂逅はあったのか。

関連ページ
「山伏と修験道」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page168.html


黄金や水銀の材料である朱砂などの貴重で高価な資源は、
一般人の立ち入りを制限するために
血の池などの呼び名を使ったり、鬼が出るなどの噂の広げたりして
山伏だけがその地域の管理を占有していたと思われる。

とすると、
何度も吉野に通った、天武天皇をはじめ天皇がなぜ吉野に
あるいは熊野に通った理由はいったいなんなのか。
単純に信仰心だけからのものといえるのだろうか?

推測するに、それはまず第一に
権力の資金源としての黄金の調達だったのではないだろうか。
そして第二に
当時、水銀は、不老長寿の秘薬として貴重なものであり、
ミイラの体内から大量の水銀がみつかったりしていることなどからも
中国の神仙思想にまでたどる系譜を感じる。
もちろん、訪れるそれそれの人ごとに、様々な異なる病の悩みもあったであろうと思われる。水銀に限らない薬草の知識が求められていたことは想像に難くない。


山伏がこの鉱物資源の調達管理の主役であったことと、もうひとつ、そうした調達で各地の山を旅する立場から必然的に、産出した鉱物の運搬、全国の物流の業務に直結していたことがあげられる。

この話をするために、前提としておさえておきたいことがひとつあります。
それは江戸時代までの物流の主流は
海運ルートがその中心であり、しかもそのルートは、
最も安全な瀬戸内海ルートが第一であり、
その次が日本海ルート。
紀伊半島から先の太平洋岸のルートは黒潮に乗ってしまうと一気に沖にながされてしまい、もっとも危険の高いコースで、太平洋の東回りのルートが開拓されるのは、
江戸時代後期、河村瑞賢の登場まで待たなければならなかった。

この地理条件を前提にすれば
役行者が伊豆に流されたというのも地理関係からすれば偶然の場所ではないことがわかる。

日本民族の起源の論議で騎馬民族説とともに南方の海洋民族説がありますが、
その海洋民族の流れ着く先は、紀伊半島まで。
歴史を遡るほど、物流の中心は、陸路よりも
海路や川の方が中心であった。
そのメイン通路が瀬戸内海から紀伊半島に至る航路。

日本列島全体の物流をみても
牛馬に載せて陸路をたどるよりも、日本海へ抜けて船で下関までたどり
瀬戸内海を経て都に運ぶ方が便利せあった。
その物流管理の技術と情報を握っていたのも山伏であったといえるのではないだろうか。

各地で産出した大量の重い鉱物資源をどうやって都まで運ぶのか、
産出と同時に考えておかなければならない大事な課題。
その辺に山伏がどうして法螺貝を持っているのかのヒントもあるといえないだろうか。

長くなったので
マタギと忍びとのかかわりについては次回。

    正林堂店長の雑記帖 2008/1/29(火)より転載
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内山節講演会「修験道からみた近代」

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
以前紹介した「ゆいの家」での内山節さんの講演に行って来ました。
毎度、内山さんの講演となると、遠くから来るファンも多く、
今回も青森や新潟から来てくれた参加者もいました。

知人のソラリスさん、寅さん、その友人のIさんや、佐々木さん、
昔勤めていた店のつながりのT書店H店の店長さんなど
馴染みの顔もたくさん。
またどこかの会場で私のことを覚えてくれていた人もいたりで、
世の中、つながるとことはみんなつながっている。

今回は月夜野町の本職の山伏修験者、円信さんが参加してくれることが
期待されていたのですが、都合で残念ながら来れず、
群馬現役修験道の復活の橋渡しは、私が代理で内山さんに伝える立場になった。

円信さんとは、今度ロックバンドをいっしょにやろうということにもなっているので、
またそのうちに機会ももてることを期待している。


参照ページ
「かみつけの国 本のテーマ館」内
「山伏と修験道」http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page168.html


今回の講演は「ゆいの家」の内山さんの前回の講演の続きの性格のものらしく、
前回の内容で修験道の話題が多かったことに関心が高かったため、今回
「修験道」であらてめて講演をしてもらうことになった模様でした。

予想以上に修験道の基礎的な知識や、歴史的な全体像まで丁寧に話してくれたので、
単独の講演会としても、とてもまとまりのあるものに思えました。

修験道は、最も日本的な特徴をそなえた信仰心、
神道、仏教などをごちゃ混ぜに混在した宗教であるばかりに、
国家神道の一本化をはかる明治政府から徹底弾圧をされる立場になった宗教。

この修験道こそ、日本人の自然と人間の関係を支える精神的支柱として
最もふさわしいし姿を持っていたといってもよいのではないか、
そんなような話の流れでした。

「近代化」の名のもとに、私たちが失ってきたもの
すでにそれを簡単に取り戻せるような時代に私たちは生きていない。

しかし、大事な何を失ってしまったのか
そのことについても、
わたしたちの間では、まだ十分語られてはいない。

そんな問いかけを内山さんはずっと続けています。


来週、2月3日(日)には、
参加している戸田書店榛名店さんの後援する次の内山さんの講演会がある。
はまゆう山荘にて
テーマは内山さんの最新刊
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
のタイトル。

本書は今回の公演内容とも一部重複する部分もあるので
次回に紹介を書きます。


           正林堂店長の雑記帖2008/1/28(月)より転載
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そうすることしか出来なかった現実

2008年04月22日 | 歴史、過去の語り方
久しく重労働に追われてたため、
書きたいことがいろいろたまているので、
ちょっと徒然なるままに書き記しておきたい。

海の向こうのKさんが、今度インタビューの仕事をすることになたので、なにか参考になる本はないかとの日記があったが、見つけきらないままになってしまった。
昔、古書で買ったグループインタビューの手法を書いた本だが、どっかの棚押さえ用になてしまっているのかもしれない。

このことで思い出したのが、
『SHOAH』というまだ観ていないフランス映画のこと。
はっきりとした記憶がないので、検索で再確認してみた。

SHOAHは絶滅を意味するヘブライ語。1985年公開のフランス映画。制作・監督はクロード・ランズマン。映画は、ナチスドイツの絶滅収容所を奇跡的に生き延びたユダヤ人、加害者である元ナチスのメンバー、目撃者であるポーランド人たちによる証言だけで構成された、9時間を超えるドキュメンタリー。

なぜか断片は観た記憶があるが、どうして観たのかは覚えていない。9時間もある作品、いったいどうやって上映したのだろう。

きちんと観ていないものを語るのは失礼だが、ドキュメンタリー、インタビューの手法そのもので、当時多くのジャーナリスト達にも衝撃を与えていたような記憶がある。

この作品ののちに、私は吉村昭と出会って、
歴史の事実そのもののもつ重みというものを知る。

そこに共通している視点というのは、
後知恵で正しいかどうかを判断することではなく、
まず、そこに
「そうすることしかできなかった」人が存在していたということの事実の重みをしっかりとみるということです。

世の中の犯罪を断罪することは簡単ですが、
そこには常に
「そうすることしかできなかった現実」というものがある。

しかし、これを語ると現実擁護と受け取られかねなく、
事実、日航機事故などを語るときに私がこうした視点を入れると、被害者や遺族に対する冒涜だなどという非難を受けたこともある。

私は犯罪や諸悪も含めて
「存在するものはすべて現実的である」という立場でものを見ています。
どうしても誤解されるのですが、
これは犯罪や悪を決して擁護するものではありません。

歴史の事実というものは、
そのときの指導者や様々な当事者の資質だけでなく、
たまたまそのときの体調や天候などの外的要因なども含めて
様々な要因によってひとつの結果が起きているもの。

すぐれた企業や指導者たちは、こうしたあらゆる偶然とも思えるような要素も想定するからこそ、
慎重な万全な対策と努力を怠らない。
(私には真似のできない世界ですが)

過去の「そうすることしか出来なかった」現実を知っている人ほど、事実のあとに
「だからこそ」という言葉のもと
明日への具体的な決意が生まれてくるのだと思う。

それが見えない人ほど、
声高に世間や他者を非難し続け正義を振りかざして
他人を簡単に断罪する。

戦争犯罪を語るときも
企業の不祥事を語るときも
情けない公務員の姿を語るときでもみな同じ。

同じ問題の構図が
自分の、あなたの職場や地域で今もおきていて
自分の決意が日々問われているのだということを。

これは吉村昭の小説から学んだことですが、
ひとつのインタビューや取材に限らず、
日常のものをみる姿勢として
繰り返し繰り返し話題にしていきたい。

事実の擁護のためにではなく
明日への決意のために。

『SHOAH』
上映時間9時間以上!?
今こそ観たい!


   正林堂店長の雑記帖 2007円4月5日より 転載
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