かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

私の手作り栞 その4

2008年04月23日 | 私の手作り枝折、ブックカバーと名刺
私の手作り栞は、万葉歌のものばかりではありません。
この万葉栞を作る前に、
自分の名刺栞を作成したのが、おそらくこのパターンの最初だと思います。

「本屋の名刺はこうでなくちゃ!」
と、名刺にパンチで穴をあけ、そこに今の栞のパターンのリボンをつけ
本に挟んで栞として活用してもらえる名刺をつくりました。
その頃は、パソコン用の様々な名刺用台紙を買ってきては、
いろいろなデザインを試していました。

正確な記憶はありませんが、
おそらくこれが私の手作り栞のはじまりだったのではないかと思います。

この経験がもとになって、
次に、私のピアノの師匠であり、メゾソプラノ歌手でもあり、俳人でもある方の
俳句を利用した短冊名刺が出来上がりました。

これも様々なタイプを試作しましたが、
俳句の短冊として合う台紙のデザイン紙は、はじめはただの色紙を使ってましたが、
原稿の背景に草花の写真を単色に変えて印刷したのが一番うまくいったような気がします。

その方の名刺表現に最も相応しい作品として、
句集をいろいろ引っくり返しながら、いくつかの句の選んで栞を作ってみましたが、
私は次の一句が名刺用表現としてベストではないかと勝手に選ばせてもらいました。

「霧裂きゆく言の葉を一花とし」

これをオモテ面に短冊風に記し
裏に、名刺として名前、住所を印刷しました。

先に、「本屋の名刺はこうでなくちゃ!」というものを作りましたが、
今度は、「俳人、歌人の名刺は、こうでなくちゃ!」というものを作ったつもりです。

これは、けっこう喜んでいただけたようでした。

この発想でいくと、他にもいろんなパターンの業界の名刺が考えられそうです。

そして、
お店で次に思いついたのが
「合格祈願」しおり。

正林堂は、書店のなかでも
比較的高校生を中心とした学習参考書の専門店として知られてます。
この高校生や中学生が、受験時期になるとたくさん参考書を買ってくれるのですが、
せっかく学習参考書の専門店でありながら、
なかなかそれに相応しい独自のサービスが出来ていませんでした。
なにか、そうしたものはないかと日頃考えていたところ思いついたのが、
この「合格祈願」しおり。

これも、受験生にただばらまいたのでは、あまり喜んでもらえないのです。
レジに受験関係の参考書を持ってきた高校生(中学生)にだけ、
ふっと急に思いついたように、
「あっ!コレあげる。がんばってね。」
と言って渡してあげると、ふだんブスッと口もきかないような高校生が
ニコっとして帰っていくのです。

この栞は、店名などの表現がなにも入っていない純粋なもので、
裏に店名くらい印刷しようかと思いましたが、
従業員から、この方がいいと思うと言われ、今もそのままで配ってます。




正林堂店長の雑記帖 2007/1/30(火)より転載
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私の手作り栞 その5

2008年04月23日 | 私の手作り枝折、ブックカバーと名刺
今回で「手作り栞」シリーズは最終回。
しおりの作り方を簡単に説明します。

手づくり栞の一番のポイントは、
リボン部分をキレイに、機能的に折り曲げることです。
この技術さえ覚えれば、どんな材料でも「しおり」として簡単に作ることができます。

使用するリボンは、100円ショップ(ダイソー)の贈答用パッケージなどを売っているコーナーの細いリボン。2色2巻のパック(写真)を使用します。

1、まず要領をつかむために、練習用として適当な厚紙にパンチで穴をあけます。
   穴位置の深さは、通常の2穴パンチの奥までいっぱいに挟み込むとちょっと深すぎるくらいに
  なってしまうので、奥にぴったりつけた位置より2mmくらい手前で穴をあけます。

2、そこにリボンを通します。
   リボンの通し方は、はじめに適切な長さに切ってから通す方法と、ロールのまま、端から通していく方法がありますが、長さの調節をするためには、はじめに切ってしまうより、先にリボンを通して、ある程度折り曲げてから、適切な長さに切った方が作業は楽になります。

3、リボンの折り曲げ方
   写真のような硬いリボンでなければ、穴の通しかた、折り曲げ方がどうやってもかまわないのですが、この硬いリボンをあえて使用し、きれいに折り曲げることで、栞として使いやすく、おしゃれなかたちに仕上げることができます。
   そのために、しおりの肩の位置の折り返しは、45度に折り曲げることで、紙と栞がぐらつくことなく固定される役割も果たすことができます。
   実際の手順は、写真を参考に折り曲げてみてください。

4、カットの仕方。
  リボンのカットは長さだけあわせて適当に切ってもかまわないのですが、
  三角になるようにカットして向きを交互に、ハサミ状にしたほうが、
  最終の長さ調節が多少ずれてもそのズレが美しくみえます。

ここまで出来れば、小さな紙片であれば、名刺や展覧会やコンサートのチケット片など、
あらゆるものを美しい栞として残すことができます。
とくに演奏会や展覧会のチケットなどは思い出として保存するうえでも、
ファイルに保存してしまうより、この方法で日常で活用するほうが私は気に入ってます。

5、印刷
万葉東歌栞のようなかたちの印刷は、
パソコンでA4サイズ8枚取りの版下を作成すれば、どのような原稿でも可能です。
一番最初にA4サイズ8枚取りの位置決めに、慣れないと多少苦労しますが、
一度、位置決めしたパターンができれば、様々な原稿で応用作品をつくることができるので、
はじめは面倒でも、是非トライしてみてください。

6、カット
 印刷したら、あとはカットするだけですが、
 このカット作業も大量にする場合は結構手間がかかります。
 私は、自宅オフィスに手動断裁機を買いました。
 これは、栞専用というわけではなく、簡易製本をするためにも欲しかったので、
ネットで3万円弱で見つけたものですが、
重量もあり、結構場所もとるので、なかなか会社で買ってもらうわけにはいきません




正林堂店長の雑記帖 2007/1/31(水)より転記
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手作り栞 Ver.5

2008年04月23日 | 私の手作り枝折、ブックカバーと名刺
伊香保の万葉東歌などの私の手作りしおり、短歌の短冊のイメージを利用しているために
やや縦長で、文庫サイズに使用するにはちょっと長すぎる。
いっそ短くしてしまおうかと迷っていましたが、
いい方法が思い浮かびました。

それは、使用済みの図書カードを利用する方法です。
作り方は従来のものとまったく同じ。

ところが、この図書カードを利用する方法、
予想外に使い勝手が良い。

図書カードの材質が、実に薄くて、やわらかい。
加えて紙と違って、長く使ってもほとんど傷むことのない丈夫さも兼ねてる。

写真は、ピーターラビットのシリーズですが、
けっこう洒落たデザインのカードもたくさんあります。

最近、お客さんの出したカードが使い切られると、
『終わったカードはこちらで処分してよろしいですか?』
と聞くのが愉しみになった。
ほんとうは、
「こちらで使わせていただいてよろしいですか?」
と、聞かなければならないところだろうが、
お客さんが
「ハイ。」
と言ってくれるやいなや、
思わず、ニターっとしてしまう。

(これ、ここに書いて大丈夫かな?)




正林堂店長の雑記帖 2007/9/16(日)より転載
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伯母の本作り

2008年04月23日 | 手作り本と表現活動
(以下、2007年の正林堂店長の雑記帖よりの転載記事です)


年内の完成を目指しているのですが、間に合わせられるだろうか?


同じような手作りの本を作っていて、
その方法論を確立しようとしている渋川市内の佐々木金義さんは、
手作り本の理念を次のようにまとめています。

本作りの理念(抜粋)
1、自分で作るから伝わる
2、お金をかけないから本心が見える
3、普通の人間が作るから共感を与えられる
4、自然体で作るから後世に感銘を与えられる
5、残し遺せる安心感は幸せへのプロローグ
6、頭脳活性は健康へのバロメーター
7、口は災い、書くは幸い
8、書くは「開拓」「開発」「発見」
9、自己アピールは仲間作り
10、羞恥心より向上心




 わたしが、ちえおばさんの文をはじめてみたとき、その素直な文章の表現力に驚いたものですが、同時にノートや広告用紙の裏に書き連ねられたたくさんの文を見たとき、それらのほとんどは、私にはまだ宝の山ともゴミの山とも判断のつかないものでした。

 ところが、おじさんがそのなかのいくつかをワープロで清書してくれて、そのデータを持ち帰って文章を少しずつ整えていくうちに、雑文集にしか見えなかった数々の切れはしが、次第にどれも立派な作品としても通用する珠玉の集まりとして見えてくるようになりました。

 もちろん、それは決して本にしたからといって一般の人たちに売れるようなものだという意味ではありません。

 でも、ほとんどの人が自費出版などで出す経歴や体験と連ねただけの自伝的な本よりも、しっかりとその時々の自分と向き合っているおばさんの姿が見えるものであり、
これこそ、その人のほんとうの生きざまを伝えるメッセージとして、多くの人に伝える価値があるものと確信しました。

 本(冊子)というものは、不特定の人に見てもらうことよりも、
この言葉は、
この文章は、
あの人に伝えたい、
うちの子どもたちに伝えたい、
孫たちにに伝えたい、
といったそれを見せる相手を具体的に想定してこそ、価値は増すものだと思います。
 しかし、この特定の世界を表現するということは、同時に他の人には本来見て欲しくないこと(伯父の浮気事件など)まで立ち入ることも意味します。
 この踏み込んだ表現をおじさんが見事に理解、バックアップしてくれたことでこの文集の価値が増して出来上がったともいえます。
 このおじさんの行為は、ただ「寛大」だからというものではなく、おじさん自身がこれを伝える価値や意義を感じてくれているから出来たことと思います。

 たまに遅い時間に月夜野の家にお邪魔してこの伯父伯母夫婦の話を聞きながら、原稿の打ち合わせをすることは、私にとってはとても誇りに思える作業でもありました。
 しばしば、同じ話を何度も聞かされる年寄り特有の会話に対する我慢の時間もありましたが、このメッセージを自分がどれだけ顔の浮かぶひとりひとりに伝えられるかを考えると、この関係をもてたことが自分にとってもとても大事な時間であることを痛感させられるのです。
 
 私も決して、本を作ること、増してや他人の文章を直すことなどできるような資格はないものですが、ひとりの親戚筋のものが、ビジネスベースではなく、こうしたご縁でこのような価値ある仕事が出来ることがうれしい。

 願わくば、このおばさんの文章を読んで、ひとりでも多くのひとが、「世間」を相手にすることではなく、その時々の自分と向き合うことがどれだけ価値のあることか、考えるきっかけになっていただければ幸いだと思っています。

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手作りの本

2008年04月23日 | 手作り本と表現活動


 今、私はプライベートで、叔母の書いた文を本にまとめる作業をしていて、先日ようやくゲラ刷りレベルまでこぎつけました。
 実は、私がこの叔母の本つくりの作業をするのは、今回が二度目。
 叔母にとって出版は三度目になります。
 叔母の最初の本は、きちんとした出版社から市場にも出回るかたちで出版したものでしたが、一人前の本として出した満足感こそあったものの、装丁や編集など、どうも思いどおりにいかなかったことが多く、なんとなく不完全燃焼の叔母の姿をみていました。

 そんなとき、叔母の書き散らかして溜めてあるたくさんの文章を見ていて、私はひとつのとても魅力的な文章に出会ってしまいました。
 もし、自分がこの文章を他人に見せて喜んでもらえる本のイメージとして完成させるなら、などと考え一部だけワープロ、コピーで試作品をつくってみたら、これが思いのほかいいものが出来て、叔母にもたいへん気に入られてしまいました。
 それが1枚目、2枚目の写真のものです。
 最終的には50部程度つくったかと思います。

 ストーリーは、ネコ嫌いであった叔父が、あるいきさつで家でネコを飼うことになり、それとともにそれまでの生活が一変してしまったこと。
 同時のその叔父の浮気騒動などもあり、不安定な夫婦の間がネコとの予想外のかかわりのなかでとりもたれていく経緯を書いた文です。
 赤裸々な内容もありますが、子どもや孫たちに、あるいは親しい友人にひとりの女性の生きザマを伝えるものとして、とても価値あるものがつくれた満足感がありました。

 これがきっかけで、どうしても他の文章も、本に仕上げて欲しいと頼まれてしまい、今回の話になったのですが、前回の「猫の子守唄」のようなよくできた話は、そうあるものではなく、叔母のたくさんのノートや広告用紙の裏に書いた文章の山を渡されて、半分、困ったことを頼まれてしまったと思っていました。

 ところが、
 叔母のひとつひとつの文章を校正して清書していくうちに、この文も、あの文章も、「猫の子守唄」に劣らず、どれも見事なストーリーにあふれていることに気づきました。

(そのうちに、この文章は私のホームページ上でも公開しようと思ってます)
 
 よくこうした自費出版のたぐいは、本人だけの自己満足で終わるものであったり、他人は聞きたくない苦労話の羅列であったり、ただのご立派な経歴の叙述であったりするものですが、叔母の文章の場合は、そういった雰囲気がほとんどありませんでした。
 ひとりの田舎の厳しい農家に嫁いだ女性の生きザマが見事に表現されているのです。
(もちろんすぐ作家デビュー出来るほど、商品になるようなものではありませんが)

 こうした文章は、ひとに見せると評価が真っ二つに分かれるのを感じます。
 というか、興味を持つ人と持たない人に分かれるといったほうが正しいか。
 ずっとこの叔母の文章を見てきて、その違いがだんだんわかってきたのですが、自分と向き合う生き方のできるひとは、総じてこの叔母の文章にとても興味を持ってくれるのですが、自分と正面から向き合うことをせず、組織や世間の間だけでものを見ようとするひとの場合、どうも興味を持ってもらえないような感じがします。
 学歴や肩書きで生きてきているような人には、総じて読んでもらっても、なんの感想ももらえないことが多く、見せたことを後悔してしまう場合が多いのです。

 私にとっては、出版社に依頼する仕事ではなく、直接かかわりのある親戚のこうした本の制作をすることが、次第に限りなく価値のある仕事に思えてきて、残念ながら商売にはつながりませんが、このような仕事ができることがとても嬉しく思えてきました。

 本来、出版とはこういうものなのだと思うのですが、その著者の思いがわかる人が、それに最もふさわしい表現や装丁を模索しながら、著者と時間をかけていく作業。
これは、専門家の知恵や技術があってこそ出来る領域もありますが、身近なその人を知る関係のなかでこそ、もっと手軽に様々な形態でつくられるべきものだと思います。

 では、身近な町の印刷屋さんや、出版社の自費出版部門が、どうしてそこまでしないのか?

 これは、ものすごーく手間のかかる作業なんですよ。
 
 趣味でつくる手作りの本(絵本や歌集・句集、写真集など)について、いくつかガイドブックも出ていますが、1、2部の凝った本はいろいろ出来るものですが、数十部程度のある程度の量産レベルになると、やはりあまり趣向はこらせなくなってしまいます。

その手間をかけてこそ、良いものはできるのですが、ビジネスベースではなかなか難しいですね


   正林堂店長の雑記帖 2007/8/24(金) より転載
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『ほんとうの環境問題』

2008年04月23日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

新潮社から発売されたこの本、首都圏の大手書店では良く売れていて、
うちでもジャンジャン売りたいのだけれども、
なんせ商品が入って来ない。

一番最初に入った1冊は、そんなこと予想してなかったため自分で買ってもう付箋をつけてしまった。
肝心なタマがなく売ることができないので、安易に紹介することも出来なかった。

近く、1冊だけまた入荷する予定(悲し!)。

少し前の日記で自殺統計の国際比較を例に、一般的に寒冷地ほど自殺率は高く、温暖な国ほど自殺率は低い傾向にあることにふれて、地球温暖化は生物にとって悪いことではなく、むしろ歓迎すべきことだと書きました。
むしろ恐れるべきことは寒冷化、あるいは温暖化ではなく灼熱化であるはずだと。

自殺対策の話の流れで書いたため、半分冗談程度にしか受け取られなかったかもしれませんが、
この内容はほぼマジで書いたことです。


昨年春に出た『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)がベストセラーになって以来、
こうした環境問題のこれまでの常識の多くに疑問を投げかけるものは確かに増えていました。

それらのひとつのきっかけが、日本が議長国として取り決めた京都議定書への疑問。
それは実行できても実質効果の少ない内容であるだけでなく、守れない約束を展望もないままとりかわしてしまっていることにある。


(以下引用です)

そもそも京都議定書にもとづいて炭酸ガスの排出量を抑えたからといって、世界の環境は良くなるのか。京都議定書を守ったところで、全体でせいぜい2パーセント程度しか炭酸ガスの排出量は減らない。いわばほとんど焼け石に水にもかかわらず、日本は京都議定書を守るために年間1兆円もの金を注ぎ込んでいるのである。


地球温暖化についての科学的な研究の収集と整理を行う政府機関であるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、その第4次報告で、地球温暖化の要因のうち、太陽の影響はたった7%で、93%は人為的なものだとしている。そのうち53%がCO2の影響で、CO2の影響以外のものはブタンやメタンが要因だという。この、温暖化の要因の9割以上が人為的なものだというIPCCの報告は、果たして正しいのだろうか。

有史以前から地球は温暖化と寒冷化を繰り返してきた。そのなかで、たとえば恐竜が生息していた中生代白亜紀(約1億4500万~6500万年前)の地球は、いまよりずっと温暖で、極地でも氷床が発達しないほどだった。それほど温度が高かったのは、おそらく当時の炭酸ガスの濃度が高かったためで、火山活動が盛んだったからではないかと考えられている。

地球温暖化によって色んな生物種が絶滅するということが言われているけれども、地球の歴史を見れば、温暖化しているときには大型生物の大量絶滅は起きていない。大量絶滅が起こるときというのは、いずれも、地球が寒冷化したときである。


(略)

人間が何をしようがするまいが、放っておいても地球の気温や気候というのは変動する。そして、気候の変動要因が何かというのは、実はあまりよくわかっていないのである。どこまでが人為的な要因かなんてことは簡単には特定できないのだ。

                              (引用終わり)


たとえば、もっと大きな変動要因として
太陽黒点の数や太陽の磁気活動の変化
雲の量を決めている宇宙線の飛来量だとか、様々なことも上げられる。




いったい気温が何度上がるというのか?

(以下引用)

(今世紀中に2.8℃の温度上昇があるだろうというのがIPCCの予想の妥当な線であるが、)IPCCの予測によれば、その温度上昇による海面上昇も、これから100年間で35センチというのが妥当なところである。そもそもIPCCの予測では海面上昇は最小で18センチ、最大でも59センチでしかない。

地球温暖化の影響によって今後、海面が35センチ上昇するというけれども、もともと日本では冬と夏とで、海水面の高さの差は40センチもあるのだ。それはつまり、寒い冬になると水温が下がるので海水の体積は小さくなり、夏になると水温が上がるので海水は膨張するからである。

あるいはそもそも、一般に、満潮時と干潮時では水位の差は二メートルほどにもなる。それに比べれば、これから100年の間に海面が35センチ上昇するということは、どれほど大きな問題なのか。

            (引用終わり)

(現実に地下水の汲み上げなどが原因で100年の間に4メートルも地盤沈下した所の問題と比較して、どういった深刻な危機があるというのか?)



と、まあこんなふうなことがいろいろ書かれているのですが、
無駄なエネルギー浪費で地球環境の破壊を少しでも食い止めることは
無条件に必要なことですが、
科学的な根拠が十分ないまま、世界中がこれほどまで騒ぎ立てるには必ず主導権を握っているもののたくらむ裏があると見たほうが良い。
何も裏とまでは言わずとも、世界規模で莫大な利権が動く話だけに
それぞれの国益で戦略的に環境問題が扱われるのも当然のことだと思います。

そうした現実に対して日本は、あまりにも戦略なきままに
莫大な無駄金を投じすぎている。

その根幹に石油エネルギー中心の経済からどう脱却するかという問題がある。

ところが、現在のCO2排出削減の問題は、
いわば出口政策であって、石油消費依存体質からの脱却は後回しにしたままの環境対策であるといえる。
それは今のガソリンの高騰にみられるように、ほとんどアメリカメジャー資本の石油会社にとっては、環境問題が騒がれるほど限られた石油資源の消費は抑えられ、そのことで希少性はたかまり、値上げの口実をつくりながら、枯渇を先送りし長期にわたって利益を生み続けることができる構造をつくっている。

現に、石油最大大手のアメリカのエクソン・モービルは、2006年12月期決算では純利益が395億ドルで、アメリカの企業として過去最高益となったその前年の361億ドルをさらに上回った。

また、京都議定書から離脱したほどのアメリカが懸命に国策として取り組んでいるバイオエタノールも、国内の余剰農産物の売り先需要を確保して穀物相場の高騰、原油高の原因をつくったうえでの環境対策ということで、エネルギー消費を根本的に抑制するような環境対策にはなっていないビジネス戦略といえる。


繰り返しますが、石油を中心にした浪費社会から脱却するために、たとえ小さなことでも緊急にできることはなんでもしようという考え自体は大事なことです。

しかし、その実、表面の宣伝だけに踊らされると、金儲けを目的にしている人や利権主導権を握った人に踊らされているだけで、現実には実効性のない浪費に加担しかねない実体をもっと注視すべきではないかと、こうした最近の本は問いかけています。


で、さらにもうひとつこの裏にある問題を次回に書きます。

 

       正林堂店長の雑記帳 2008年4月19日より 転載
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『ほんとうの環境問題』の環境問題

2008年04月23日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
前回、紹介したこの本、
池田清彦、養老孟司著『ほんとうの環境問題』新潮社
引用をあえて多くしましたが、
実は、これは環境問題に配慮してのことでもあります。

その理由は、
良い本だからといっても、紙の本を大量に印刷し運搬していたのでは、
環境問題を語りながら石油エネルギーをさらに消費し、
返って環境に対する負荷を増やすばかりだからです。

イギリスでは、フード・マイレージ(食べ物の重さとその輸送距離を掛け合わせた数値)表示が定着しているようですが、本などの情報も、マイレージをやたら増やすものは考え直す必要があるかもしれません。

自分は豪邸に住んで大量の電気を消費しながら環境問題を訴えるゴア元副大統領や、
冷房をガンガン利かせた会場を使ったり、エンジンかけっぱなしの車を待機させながら会議をしている環境問題論議と同じことになってしまう。

これえらの矛盾に応えるには、
環境のためには、良い情報はデジタル化してどんどん無料で流し、
どうしても紙の本で欲しい人だけ、本屋で本を買うべきだという方が
環境を真に語るに値すると言えるのではないでしょうか?

このことに関して著者の池田清彦氏、養老孟司氏には、
申し訳ないけど著作権侵害云々といったみみっちいことを言う筋合いはない。(なんてね)


本屋が、なにを自らの首を絞めるようなことを言ってるのかって思われるかもしれませんが、でも時代は間違いなく、そういう流れになっているのです。




てなことで、
残念ながらこれからの本屋の仕事は、
デジタル情報中心の世の中で生きていくことを前提にして、
どうしても紙の本にこだわる人にだけ、

え?お客さん、
紙の本が欲しいんですか?
ツウですね~。

なんて会話を交わして売ることになる。

これは冗談話ではありません。
すべてがそうなるわけではありませんが、
ほんとうに多かれ少なかれそのようなことは現実化すると思います。

したがって、このブログの表現方法の言い訳というわけでもありませんが、
本の内容のネタばらしにつながるような引用も、必要とあらばジャンジャンしてしまおうと思うのです。

コンテンツビジネスの世界では、こうした流れは既に始まっています。

私たちの商売はこのことを前提に考えなくちゃね。

(以上、売りたくても1冊しか入荷しない力のない本屋のいい訳でした)





このことは、まだ二,三の補足説明を要するかもしれません。
それは過去に書いたことがありますが、また機会があれば触れると思います。
(ひとつは、本の価値=ハードと物流コスト以外の商品価値のことと、情報そのものの値段は、本来タダ(無料)であること。
もうひとつは、無料を前提にした価値の表現方法のことです)




    正林堂店長の雑記帖 2008/4/20(日) より転載
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理想の地球温暖化

2008年04月23日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
前々回の日記で、自殺率の国際比較では
総じて北の寒い国では自殺率が高く、
南の暖かい国では自殺率が低いことに触れました。

国際比較
   http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html

ということは、こと自殺問題に関して考えると、
地球が温暖化すること、暖かくなること自体は良いことです。

確かに、私の住んでいる群馬県の
月夜野町と渋川市を比較しただけでも、
冬場は寒い月夜野町に住んでいる母親が可哀想になる。

僅か南に住んでいるだけでポカポカ陽気の差は歴然で、
ただそれだけで年寄りは長生きできそうな感じ。
自然と体調も、考えることも明るくなるだろう。

で、この自然な感覚から
地球が温暖化して何が悪いの?
って疑問が出てくる。

今の環境危機に対する意識が定着して
化石資源に依存する生活をあらため、
浪費、使い捨ての文化を脱却する意識が定着すれば、
地球そのものが温暖化していくのは、決して悪いことではないのではないか?

金星みたいに灼熱地獄になってしまうならともかく、
熱帯雨林が増えたり、陸の中にデルタ地帯が増えたりするのは、
決して悪いことではない。
砂漠を緑地化する技術も、すでにかなり発達している。

多くの文明は、デルタ地帯に発達してきた。
このことも、古代文明の話ではなく、
江戸、大坂などの都市の条件が発展した条件と
大阪の前身、石山という地にあった寺内町のことを今度書く予定です。

暖かいということと、
同時に水があるということ、
このバランスこそ、人間生存の基本条件のはずだ。

地球の長い歴史のなかで、
人間や生物たちに危機を招いたのは、
地球が暖かくなった時ではなく、氷河期だったはず。

おお、
やっぱり、
何から何まで
いい時代がやって来る!

オレって、なんて幸せなんだろう
頭の中は、すでにジャングル!


  正林堂店長の雑記帖 2008/4/14(月) より転載
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乾いた文化は重さに耐えられない

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
前回の日記、やっぱり重かったですね。 すみません。
それも狙いのうちなんですが、
皆さんの身近に事例が溢れているのを聞いても、つくづく
自殺に追い込まれるようなところまでいった人につきあったり、
ましてや救おうなんて努力をするのは、とても難しく大変なことだと感じました。

それだけに、私は、そこまで追い込まれる前の段階での、
ひととのつき合い方と、
そうした環境に多くの人を追い込んでいく、
あるいは排除していく現代社会の構造を問いたいの思うのです。

女性コメディアンの誰かが、「重い」女を、

お願い~!!
わだじをずてないで~~!!
もういじど、あいじでるって言っでーーーーー!

てなギャグをやってましたが、
こうなったらもう終わり。
こうなる前に、手をうっておかなければいけない。



こうした話題が「重い」と感じるのは誰も同じですが、
他方で、現代社会全体が、重い世界を出来るだけ遠ざけて、
より軽く軽快、快適な世界へ進歩してきた大きな流れがあると思います。

面倒な人間関係=古い封建的村社会とばかりに
合理的で手間のかからない社会がどんどん進歩してきて
その代表がコンビニ文化。

食品でも、規格のそろわない作物やちょっと汚れた作物は市場から排除され、
会社や学校でも、ちょっとでも組織の和を乱す者は排除され続けてきました。
大ざっぱには、国家レベルで規格に合わないものを排除して強引な統一を推し進めてきた歴史こそ、
「近代化」の実態であったともいえます。

えへへへ。
ここでやっとまえの連載のテーマに結びつくのですが、
この扱いやすい便利な規格の統一されたものへ集約していく文化
感覚的には「乾いた」「軽い」「快適な」文化から、

一挙に「重い」とまではいかずとも
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」文化へ
「戻る」ではなくて、一歩上がる時代に来ているのではないでしょうか。

これはデジタル化が一挙に進化していく時代には、
人類にとってとても大事な試練のように思えます。

さきの自殺者のはなしに戻すと、
多くの人にとって、身近に存在する自殺予備軍のひとたちをなんとかしろといっても、声をかけたところでどうにもならない場合が多いのではないかと思います。
しかし、いきなりそうした人たちではなくて、日ごろ
自分のいる組織や集団のなかにいる様々なやっかいな人びとに対して、
共同体の一員として繋がりを持ち続けること、
これが出来なければダメで、簡単に切り捨てることなく、
これがダメならこっちではどうだ?
と、次々に創造的提案ができること、
そうした創造性が、「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」社会のなかで必要なのではないかと思うのです。

自殺者の増加や信じがたい殺人の増加など、
いづれもひとの命や存在が「軽く」なってきていることの現われだと思いますが、そこに、人の「命の重さ」を訴えましょうといったことも必要でしょうが、それは簡単にはなかなか伝わらないでしょう。

それよりも私は、日常の関係のなかに
「湿った」「重さの感じられる」「ちょっと不便な」
ものを取り戻すことが大事なのではないかと感じます。

手前みそながら、それは単語で交わす会話ではなく、
叙述をともなう会話であり、
時には酒を飲みながら朝まで語りあかす会話の世界。

そういう私も、
仕事が忙しいからとかいって面倒くさいことからは逃げてしまうことが多いのですが、
大事な問題こそ、
仕事を中断してでも立ち止まって、必要なだけ時間をさく勇気のある社会。

「客観的、公平に」なんていうクソ食らえ言葉を使うことなく
「価値」と自分の「責任」を優先する思考を少しでも取り戻すことこそが、
もう手に負えないやっかいな人びとを減らす最善の方策なのではないかと思うのですが。。。
(自分勝手なイイ時代を夢見てるって?)

でも、ここを社会で理解しあえないと
「裁判員制度」なんてとても機能するとは思えない。




会社のため、職場への適性を口実に、やる気のまだある従業員を辞めさせた昔の自分、
自分を頼りにしてきてくれているにもかかわらず、仕事を口実に逃げ続けた自分への反省を込めて。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/13(日) より転載
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見えにくい身近な死の実態

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「自殺」

書かなければと思いながらだいぶ経ってしまった。
日本の自殺者数が3万人を越え続けていることについて、以前なにかの話題でふれましたが、
重いテーマなだけに、暗い話題の流れでは書きにくかった。
(前回の桜の話題はそんな意味合いもあってちょっと無理して挿入)
でも、暗い話題だからといっても、どうしても触れないわけにはいかない。

暗く重い話が苦手な方は、これから先は読まないでください。
裸の自分と向き合うことが苦手なひとも、よしたほうがいいかもしれない。

きっかけは誰かとの会話だったのだけれど、もう忘れてしまった。
それでこの自殺データをきちんと確認しようと検索していたら、
大局的には人口の伸びに対して自殺率が極端に増えているとはいえないようなグラフをみた。
でも、これはおかしい、数字の見かたのマジックではないかと思い、
他のいろいろなデータを見比べてみた。

それで一番わかりやすく参考になったのがこのサイト。
   http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
興味深かったのは国際比較
   http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html

でも、私の疑問と問いはこうした数字上のデータ分析にあるのではない。

戦争や病気、交通事故などあらゆる死亡原因のなかで、
これだけ社会の病理をあらわした異常な現象として「自殺」の問題があるにもかかわらず、まだ社会でこれからの対応について真剣に問題が議論されているとはとても思えない今の日本の感覚を問いたいのです。

その原因として考えられるのは、現実には「自殺」というその話題が、データから先の問題となるとそれぞれの個人的な問題として扱われるばかりに、個々の問題については第三者が問題にすることが少ないということ、
あるいは、遺族への配慮などから、お互いにあまり立ち入って触れたがらないことが多いなどの背景が大きいかとも思われます。

交通事故による死亡は記事になっても、自殺による死亡が記事になることは少ない。
重要なポストにある人が不祥事などにからんで自殺をはかった場合などに限られている。

しかし、この個人の問題に立ち入らない構図そのものが、私には現代社会の病理そのものであるように思えてならない。

自殺者数が平成10年から急激に増えて、3万人台の時代を迎えている原因はなにか?
日本の自殺率が高い理由はどこにあるのか?
こうした問いは、絶対に必要であるけれども、これらは私には問題の核心に近づく議論には見えない。
私もこの日記を、はじめのうちはそうしたデータの解釈から書く予定でした。

私が考えたいのは、自殺が少なくなる社会システム、行政対応などの問題ではなく、
(もちろんそれも可能なことは成果が微々たるものでもやる価値はある)
圧倒的多数の人たちにとってそれは、

自分の今隣りにいる「隣人に対する無力さ」のなかにこそ
この問題の核心はあるのではないかということです。
言い換えると「人」が「人」としての力を喪失しかけている現実とでもいおうか。

これは「自殺」に限らず、すべての問題に共通する私の視点なのですが、
自殺を決意(あるいはその迷いの途上でも)するようなところに追い込まれた誰かがあるとき、
その人は、仮にどんなに孤独に打ちひしがれている人であっても、
ほとんどの場合は、
その人のすぐ隣りに、家族や友人、あるいは職場の同僚がいるという現実があり、
まわりの人間は気づかなかったとはいうものの・・・
いや、どちらかといえば、気づいていながら気づかないふりをしていることの方が多いのではないかとすら思えるのですが、
その自殺を考える人のまわりの具体的人間の関係が存在していたということを
もっとしっかり見て欲しいと思うのです。

自殺の問題はなにも、職を失い借金を抱えて地獄の思いを味わっている人や
長年にわたり病気に苦しみ、明日への希望がとても持てない人ばかりの問題ではない。

バリバリに仕事に打ち込んでいるように見える人。
恋愛で幸せの絶頂にいるような人。
伴侶や子どもに囲まれて幸せそうな家庭のある人。

そのように見える人たちが、突然、死を選択してしまうことも少なくはない。

自殺の問題は決して、議会のなかや
テレビや新聞のニュースのなかにある問題ではない。
わたしたちの日々の自分の隣人との接し方のなかに
その実態が潜んでいるように思えてならないのです。


私はどちらかといえば、自殺を考えるようなタイプの人間ではないと思っている。
しかし、
いつも絶好調で悩みなどなにもない私(笑)ですら、
その生きて立っているその基盤は、なにも病気や不慮の事故に限らず、
そのゆるぎない「信念」?ですら、いつ崩れはてて絶望の淵に落とされるとも限らない危ういものであると思っている。
そんなのはじめから「信念」とは言わないと言われるかもしれないけど、
人間なんて、もともとそんなものなのではないだろうか、
というのが私の印象です。

そのような誰もが危うい基盤の上にたったうえで
ささやかな「幸せ」や「安定」が、はからずも崩れかけたとき、
その人にまだ余力が多少なりとも残っている場合は、
どこかにその出口を求めてもがく。

友人や家族にすがったり、
心療内科の医師にすがったり、
本を読んだり、
旅に出て環境を変えてみたり。

でもその余力を振り絞ってもがいているときと、
その余力尽きて、運よくか運悪くかわからないけど
向こう側に行ってしまうとき、
あるいは僅かな差で、これも運よくか運悪くかわからないけど
未遂に終わりこちら側に帰ってこられる時との
ほんの僅かな差、あるいは決定的な差はどこにあるのだろうか?

ここが今回のテーマです。

私はそれは、いかに絶望と孤独の真っ只中にいるときであっても
隣人と自分との距離のなかに、距離というよりは
最後の隣人との接点のなかにあるような気がするのです。

つまり、この自殺者の増大という現実は、
人が人となる条件である他者の関係が断ち切られる瞬間におきることであり、
その実態は、死に追いやられる当事者の問題に劣らず、
その周りのひとたちが、その関係を断ち切っていく過程が
わたしたちのなかに蔓延しているということです。


私が20代のころから変わらず今も目にする場面がある。

出口が見えず必死にもがいている人が目の前にあらわれたとき
多くの「良心」の人は、

うん、そうだね。
そういうことは結論を急がないでみんなともっとよく相談してみたら。

といって別の友人や病院を紹介してくれる。

ところが、その紹介してくれたところをたずねるとまた、

うん、そうだね。
そういうことは、もっとみんなとよく相談して。

とまた同じことを言われる。
現実には病院に行ってまで同じような目にあう。
せいぜい精神安定剤をもらえるくらいで。

結局、彼らは世の中で「良心」の人たちに囲まれながらも
実際にはあちこちでたらい回しにされ、
外に頼れるものがなにもない、
そして自分自身に自力で乗り越える力はもうない
ということに気づかされる。

たしかに、そういう人たちの多くは
行動力に乏しかったり、
ウジウジといつまでも考え込んでいたり、
正直、蹴っ飛ばしてやりたくなるようなやっかいな人である場合が多い。


でもどうしてもこの問題は、
専門家やカウンセラー、あるいは人格者といえるような人に預ける問題ではなく、私たちの人としての本源的な能力、資質の問題として誰もが受け入れなければならない問題として提起したい。

自分を振り返るとほんとにツライのだけど・・・



ったく私はどうして簡潔にものを書くことができないのだろうか?
まだ長くなりそうなので、また次回。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/11(金) より転載
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やはりスゴイ!白洲正子『かくれ里』

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

最近、私のエージェントから直販雑誌「和楽」の白洲正子特集の号を借りた。
白洲正子の代表作『かくれ里』の取材詳細地図がついているのが見たかったからだ。

あらためて、名著『かくれ里』の着眼や取材の深さを感心させられた。

今、多くの人がこの『かくれ里』というタイトルだけを見たら、
おそらく平家落人伝説などのある山里ばかりをイメージしてしまうだろう。

しかし、白洲正子の眼は、そのようなものよりは遥かに深い歴史の部分を見ている。
それは、いわゆる雰囲気のある山里の風景といったようなものではなく、
まさに埋れた歴史の「かくれ里」といったような所のことである。

この本は一度函入り本が復刊されたが、講談社の文芸文庫版となってから
常にその文庫シリーズ売上げで上位に位置しているロングセラーでもある。

いったいどれだけ多くの人が、この本に触発されて近江の地を訪れたことか。

もちろん私もそのひとり。
もう20年くらい前になるか、この本を読んだ直後、
タイムカードに「会社がイヤになったので、しばらく休ませていただきます」
とのメモ書きを無造作に貼り付け、車で西へ飛び出していったことがある。

で、その当時、本だけでは手がかりもつかめなかった数々の場所が、
この地図を見ると明解に記されている。
でも、ここまではっきりと記されていても、現地に行くとなかなかたどり着けないもの。
また行きたい。
この近江周辺は何度でも行きたい。

かつてホームページを見た人から、おすすめの場所とかはどこですか?
との問い合わせを受けたことがある。
その時、私は、こう説明した。

日本列島は、どうしても長手方向、東西の流れで見てしまう傾向がある。
それに対して私は、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線に
歴史の流れではなく、歴史が蓄積して堆積しているような面白みを感じる。
その中心が近江、琵琶湖。
もちろんそれは湖そのものではなくて、琵琶湖周辺という意味。

かつてのヨーロッパでは地中海がその中心であったように
日本では琵琶湖が、その文化の中心であったといっても過言ではない。
地図で見る琵琶湖のスケールからすると、
京の都など、縮尺を間違えているのかと思うほど
ほんの小さな部分にしかすぎない。

北陸道、中仙道、東海道が交錯して京へつながる要衝として
戦国時代には最大の舞台となっていた。

また、本州のかたちからすると
若狭湾、伊勢湾に挟まれた異常なクビレた部分に琵琶湖が収まっている。

(今回で21回になるのか、この連載シリーズの多くの話題も、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線上にかかわるものになっている)

北方民族の流れからは、日本海がその文化の中心になる。
(北から見た地図で日本海を中心に文化をとらえることを赤坂憲雄が提起していた)
南方民族の流れは、もちろん太平洋から。

しかし、それらは、面として接しているだけでなく、
明確な起点となる場所を持っている。
それが太平洋の場合は紀伊半島の先、熊野。
日本海の場合は、能登半島とその対極の窪みである若狭湾。

私はそんなイメージから、日本列島の文化の流れのベクトルを
「〆」の字でとらえる。
〆の長い線はもちろん日本列島の北海道から九州に至る流れ。
それで短いバッテンで交錯する部分が能登半島から紀伊半島に至る流れ。

で、〆の跳ね上がっている部分は九州から朝鮮半島、そして大陸へつながる流れ。

〆という字は「締める」「閉める」「絞める」などのイメージだが、
手紙の封そのものの「封印」されているというイメージでとらえると
一層、歴史の深みに想いが届きそうな気がしてくる。

その日本文化の封印され蓄積されているものが、
東西の文化、経済の流れのなかにではなく、
能登半島から紀伊半島にかけて琵琶湖を軸にした縦の流れのなかにこそ、
滔々と流れ点在して見てとれるのです。

まぎらわしいかな群馬に暮らすわれわれ現代人からすると、
房総・伊豆半島、東京湾から新潟に抜ける線こそ、長い日本列島を分割する境界に値するラインに見えるかもしれないが、残念ながら日本列島全体を封印する軸は、ここではない。
天皇すら、皇居とはいいながらも江戸城跡地に居候する身だし。。。


そんな視点を白洲正子の『かくれ里』は、私に示してくれました。
本のなかで直接そんなことが書いてあるわけではないけど、
そうした視点の大きな影響をまぎれもなくこの本から得ました。

いかなる歴史学者も
いかなる民俗学者もたどり着いていない
日本の歴史を見つめる視点がここにはある。

やがてこの視点は
風水の話など「水」とのかかわりで陰陽師の話へ
それはそのまま環境問題から生命のエネルギーの問題へ
あるいは「石」「鉱物」とのかかわりで修験道の話へもつながっていく。

私のこの連載は〆の字の封印された部分をずっと追及していく予定です。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/1(火) より転載
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異議アリ、忍者検定

2008年04月23日 | 上野国「草の者」研究所
滋賀県の甲賀の里にて、第1回忍者検定なるものが開かれたニュース。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080329-00000036-kyt-l25

面白い良いことだと賛辞したいところだが、
かみつけの国 「草の者」研究所としては、
その内容をよくみると、あまりにも時代劇のイメージばかりにとらわれて
実践的な理解に乏しくみえるその企画に異議をとなえざるをえない。

忍者の武器や歴史などについての基礎知識は、ある程度必要かもしれないが
そこに忍者といわれる特殊な集団や個人の本質を垣間見るような設問設定は感じられない。

忍者検定そのものが、なにを目指しているのか?
それは観光事業の一環ではないはずだ。

第1回の試みとして、まず、なによりもはじめてみることは大切。
しかし、これからのことを考えると、
今の内容は大幅に見直して次回につなげる発想を持ってもらいたいと思います。


わたしならば、今回の問題、ペーパー試験は全体の検定の4分の1程度にします。

生死を賭けた忍者の闘い方は、常にマニュアル通りというわけにはいかず、
絶えず、そこにある条件のなかで結果を出すことが求められる。
その答えの出し方は、個人個人が自分の持っている特技や資質を十分に活かしながら
応用力や現場での判断力をフルに発揮しながら為されるものでなければならない。

とすれば、
第二部の試験は、歴史や時代小説に語られた忍者の活躍、それぞれの事例に対して
自分ならこうするという独自の見方が常に必要だ。
諜報力に長けた者、長距離の走破に長けた者、火薬や毒薬などの知識に長けた者、体力の衰えた年寄りでも変装術に長けた者、文字道理くノ一の術で策謀を図る者など、
自分の特技あってこそ、語れる世界です。
検定などで計れる一般的水準の知識や能力の獲得よりも、
自分固有の技術をいかに見いだせるかが、忍術の核心部分だ。

それを池波正太郎なり司馬遼太郎でもいい、小説の特定場面に対してでも
自分ならこうするという小論文を書かせるべきだ。


で、第3部は実技試験。
これも、安易に総合力を試す試験にする必要はない。
その人の最も得意とする技術を、困難な条件下でも最大限発揮できるかどうかが大事だ。

手裏剣を定位置から的に当てる技術などでは試験にならない。

通常の歩行中なり日常生活のなかで、不意に敵に出会ったとき、
懐などに忍ばせてした武器を素早く取り出して闘えるかどうかが大事だ。
そのような実技試験でなければならない。


そして第4部は、現代への応用編。

忍者とは、時代劇の世界の話ではなく、
いつの時代でも、
どこの世界でも、
常に姿を変えて存在し続けてきたもの。

であるならば、混迷を極めるこの時代でこそ、
時代劇の世界以上に忍者の能力は発揮されるべきだ。

で、考えられる設問。

例えば、自分の使える主君が思わぬ不祥事を起こしたとする。
明日の朝の謝罪記者会見までの間に、主君を救う最も有効な手だては何か、
といった設問。

あるいは、中越地震での山古志村みたいに災害で孤立した地域があったとする。
そのとき、自分ひとりで出来る最も有効な救援方法を考えよ、とか。

さらには、第2の地下鉄サリン事件の予告があったとする。
そのとき、高度な設備や金もかけない状態で、自分ひとりでできる対応策、予防策を考えよ、とか。



かみつけの国「草の者」研究所は、
そんな現代の闘える忍者組織を目指しています。


 正林堂店長の雑記帖 2008/3/31(月) より転載
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著作物の占有権と利用権

2008年04月23日 | 出版業界とデジタル社会
このところ最大大手SNSであるmixiの利用規約 第18条をめぐって
多くの利用者からmixiへの不審へつながる議論が沸騰しています。

私の知り合いのなかでも、WEB上の情報発信に熱心な人ほど
このことへの憤りは強いようです。

mixi側はいろいろな誤解をうんでいることの弁明をしてますが、
この条文の表現が残る限り、誤解は避けられないだけでなく、
やはりこちらが防衛策をとらざるをえなくなる。


mixi利用規約
第18条 日記等の情報の使用許諾等
1 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、
当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、
展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。




ただ、こうした論議のとき、いつもぶつかる問題なのですが
「著作権」という現状の権利そのものについては、多くの誤解があるので
議論がどうしても混乱してしまうようにみえてしまいます。

著作権を問う場合、私の考える大前提があります。

誤解を畏れずに言えば、それは
「情報そのものは、本来タダ(無料)である」
ということです。

情報そのものは、本来は人類の公共財であって
アマゾンやグーグルが目指しているように
世界中のあらゆる人びとが、所得や身分(さらには言語によっても)
制約されることなく利用できることがまず基本とされるべきであると思います。

しかし、現状の著作権はそのような考え方は前提とされていません。

わたしもうまく整理できないのですが、
本来無料の公共財であるべき情報は、現状では
それが独占、秘匿されることによってのみお金を取ることができる。
このことを最大命題にしています。

このお金を取るための「独占権」、「秘匿権」を著作権として保護しているのであって
知的情報だからといって、それは必ずしも知的財産の情報価値を表現しているものではないということを忘れないでほしい。

この辺の問題を私はきちんと説明する能力はありません。
しかし、
独占・秘匿ということは、
情報そのものの公共性という本質と相反するものです。

以前、このことは書いたことがあるのですが
(どこに書いたかみつからない)
出版界で著作権を声高に主張しているのは
主にベストセラー作家が中心です。

彼らにとって、何万部の著作によって得られる収入源が減ることは
大きな打撃になることが間違いないからです。

しかし、その隣で、多くの無名作家たちは
タダ(無料)でもいいから、
より多くの人に自分の作品を読んでもらいたい
と思っています(もちろんすべてではありませんが)

こうした違いが出てくる原因に
私はやはり「著作権」というものが
「情報の価値」に対して支払われる代価=権利ではなく
その情報の独占=占有権に対して払われる権利であるということがあるのだと思います。
つまり、独占、秘匿したものの公開度のカウント収入が基本だということです。

したがって、カウント数にこだわる著作活動ほど収入につながり、
量よりも質にこだわる創作活動は、必然的に収入にはつながらない。

情報の価値に対して払われるのであれば、
それは、利用する個人によってその評価はバラバラであるので、
その価値を感じる側によって代価は決められるべきものです。
著作権はこのところには関与していません。

著作権とは、そもそもそうした性格のものではないからです。

しかし、
これまでは、売り手側の製造コストのみによってものの価値は決定されてきましたが、
これからは、それを無視することはできないものの、
圧倒的部分は利用者側の価値判断が優先する時代になってきています。

このことは私のホームページのなかで、まだまとまりきれていない文ですが
「質」は「量」によってしか表現しえないのだろうか
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page128.html
という文でもう少し詳しく問いかけています。

この点について詳しくはまた改めて書きたいと思います。

このことと、もうひとつ
無料であるべき情報の使い方で
たとえ無料で提供されるべき公共財であっても
その情報の所有権はきちんと保護されるべきだということです。

特定の個人の所有する情報を
無料で利用する権利と
有料で利用する権利に分けるしくみが
もっと原理上から明確にする必要があるのではないかと思います。

たとえ無料の情報であっても
ネット上でリンク、引用元をきちんと銘記するマナーがあるように
有料化の道を選ばなくても
その情報の所有権の所在は明記されることが基本であると思います。

その所有権が、複数の人の手を経ている情報であると
どこに所有権が存在しているのかといったことは、
今回のmixiでの問題だけでなく、公共性の高いプラットホームを個人が利用する場合、
これからさらに難しい問題が出てくるとは思います。

経済的利害に先行されない、個人の知的所有権というものが
とても大事になってくる時代なので、
もっともっとこのことは活発に議論すべき大事な問題ではないでしょうか。



現状では、知的財産、著作権や特許などを個人が所有していても、
その権利を守り抜くことがとても難しいために
個人は企業などにそれを売り渡してしまった方が楽である場合が多いということも聞きます。

現行の著作権法は著作者個人の権利保護より、
組織・団体がそれを利用して利益を上げることを目的に制定されているとしか思えない。




最低限として著作権の帰属は作者本人のみとして
譲渡・相続は認めず一代限り、組織・団体などによる所有は禁止にして
権利代行のみに限定して欲しいと思う。
共産国中国が著作権の存在を認めてしまったのは返す返すも残念な出来事だった。
(私のあるmixiの知り合いはこんな意見を書いてくれました )




情報の所有という概念については、既に次の時代がはじまっているのです。

出来る限りオープンな、情報の「利用権」といった考えに
世の中もシフトしていかなければならないのではないでしょうか。

土地、お金、情報などの問題に共通した大変化が
これから10年以内に起こる予感がします。

また著作権法は5年以内に抜本的な考え方を変えないと
現実の問題に対応できなくなるような気がしてなりません。



ちょっと最低限のことだけ、
メモがわりに記しておきます。


  正林堂店長の雑記帖 2008/3/13(木) より転載
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現実味を増す全員参加型直接民主主義

2008年04月23日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

前回、多数決原理の問題について書きましたが、その問題解決のひとつの手段として
代議制の否定としての直接民主主義の形態がうかんできます。

戦後民主主義の代表として多数決原理と代議制は不可分の関係で続いてきましたが、
代議制については、その多くの投票率の低さの問題だけではなく
民意の公正な反映方法としても最近では疑問がなげかけられるようになってきています。

構成員全員の民意を反映するには、小グループごとの総括を経て集約される方法こそが
現実的な方法であるとされますが、
集約化されない個々の民意というものの再評価が、今注目されだしています。

これまでの民主主義発展の主な原動力は
封建制に代表される圧制に対抗する手段として、
民衆の力を結集する側面に力点があったともいえます。

そこでは確かに代議制はとても有効な手段であったと思います。

それにたいして、時代の進歩とともに民衆の力や、個人の表現力が豊かになってくるにつれて、
民主の圧制に対する抵抗手段としてばかりでなく、
民衆自身の様々な要求の表現手段として、ひとつの相手に対する表現だけでなく
様々な相手に様々な要求を出すことが増えてきました。

こうした傾向が強まってくると
全体を限りなく集約、総括することよりも
個々のナマの声を具体的に伝えることの意義が見直されてきます。

しかし、いかに小さなコミュニティーといえども
数千人から何十万人もの声を直接伝えることは、確かに現実的とはいえませんでした。

ところが、インターネット技術の進歩などにともない
コストや手間をかけずに簡単なアンケートは選択枝から選ぶような表現が容易にできるようになったばかりでなく、テレビ会議などの技術はどんどん進化しています。

わたしはこのことに、ただちに直接民主主義への移行の条件をみることよりも、
現行の代議制民主主義の魅力と機能が、急速に衰えだすのを感じるのです。

代議制で一生懸命議論を尽くしている隣で
様々な具体的個々の意見が観られるようになり、
集約、総括を超えた思考、論理の飛躍が日常にみられるようになるのです。

必至になって情報公開、市民の傍聴をよびかける議会のとなりで、
それよりずっとスピーディーで面白いブログやフリーペーパーが飛びかうのです。

また、議員へ陳情のお願いをしている横で、
首長にダイレクトにメールで意見がとどき、
逆に市民ひとりひとりが何を考え、なにを望んでいるのかも見ることができるのです。

政治の世界でこうした変化がこれからどれだけ急速にすすむかどうかはわかりませんが、
ビジネスの領域では、すでに10年以上(もう20年くらいになるか?)前に
「リエンジニアリング革命」として中間管理職を除いたフラットな組織づくりとして浸透しました。
今では、組織内の問題にとどまらず、最前線の顧客情報をダイレクトにトップに伝えるシステムとして
さらに進化しています。

もちろん、企業のシステムと政治のシステムを同列に扱うことはできませんが、
中間集約を経ずにダイレクトにナマの声をトップに伝えることが、
決して不可能なことではなく、情報過多で混乱することもなく
よりリアルな真実の情報を得る手段として有効なことはすでに立証されていると思います。

そしてこの手法には、もうひとつ民主主義の大事なこと
全員の民意の内訳は、
大人から子供まですべての人々、
所得や地位に左右されないすべての人々、
能力や資質にも左右されないすべての人々
によってなされるものということが、体現されていることです。

進歩した時代の活きた社会では、
「優秀な」人に一任される決定よりも
それを構成するすべての人々によってなされる決定の方がより「正しい」決定に至れる。


こんな話をしていたら、
ある人から、そんなことできるわけない、
それこそ収拾がつかなくなるのではないかと言われました。
それももっともなことです。

しかし、誤解してほしくないのは、
すべての事項をこうした直接民主主義のスタイルで行う必要はないということです。
全体にかかわるより大事な問題だけを
集中的にすべてのひとをその討議に参加させ、議論を尽くすことこそが大事なのです。

それは、その結果出される結論が正しいかどうかという問題以上に、
その決定に自分がちゃんと関与しているという意識がそだつことが重要であり、
さらには、その参加意識が、さらに決定の遂行状況を見守るということにまで高まることこそが重要なのです。

議会で審議延長、時間切れ、強行採決といった失望の連続を日々見ていますが、
1年に一度、いや数年に一度だけでも大事な問題について
全員参加で長期にわたって議論を尽くすことができたら、
ことの結果以上に、人々の意識は大きく変わるものであると思います。

今から30年以上前になるでしょうか、
宮崎県の綾町の郷田実・前町長は、自治公民館運動として
照葉樹林の町を守る運動を軸に全住民を巻き込んだ論議を何年にもわたって続けているのです。

大事な問題こそ、期限切れ強行採決ではなく
必要なひとはすべて巻き込んで議論を尽くすことがとても大事なことだと思います。

全員参加型直接民主主義は
決して空論夢物語ではなく、
現実的で民主主義の本来の姿からは王道としての手法であることが
これらのことから少しでも伝わるでしょうか。




  正林堂店長の雑記帖 2008/3/4(火) より転載

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遅れた民主主義制度=「多数決」原理

2008年04月23日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

昨日のmixiのほうの日記でふざけ半分ながら
>多数決できめたろか
と、私らしくない言葉をつかって反省しておりましたところ、
そしたら早速、別な方からも多数決反対の書込みがあったので、
これも一揆の性格にもかかわる問題なので(またこじつけ?)
「多数決」原理のことについてちょっと書いておきたいと思います。

私たちは、戦後民主主義の教育のなかで多数決こそ
もっとも民主的な意思決定のルールであるかのような教育を受けてきました。

しかし、今、現実に多数決原理を意思決定の手段として使っている組織を見ると、
それは民主主義のルールとしては機能していない例の方がとても多く目立つように見えます。

その代表例が議会。
30~40%程度の投票率で選ばれた議員が、
49対51で決定した事項に正当性などどれだけあるといえるのだろうか。
それでも、限られた時間内でものごとを進めるには
これがベストの方法であると・・・。

しかし、伸びている企業や組織を見ればみるほど、
現実では多数決などほとんど使っていない。
役員会を多数決で決めているような会社ほど、むしろ伸び悩んでいる会社である場合が多い。

決して多数決原理のすべてが悪いというわけではありませんが、
現実の「多数決」を見ていると、私には

まず第一に
「多数の意見を少数に押し付ける」原理。

第二に
「多数派の決定側が誰も責任を取らなくて済ませる」原理。

に見えてなりません。

多数の言っていることの方が「正しい」という根拠はどこにあるのだろうか。
いや、私が一番強調したいのは、
その多数が正しいかどうかは、決定的な理由があるわけではないにもかかわらず
一度多数決で決まったことに対してなにも検証せず、
仮に間違っていた場合でも
誰も責任を取らない、
ということが問題なのではないかということです。

立派な業績を上げている企業や組織の意思決定を見れば見るほど、
多数の意見に従うということは、
イコール、付加価値が減ること、
もしくは競争力がなくなる決定に近づく
ことを意味しています。

それは、単に少数の意見を採用するということが良いのではなく
その少数の考えをリスクを背負ってやり遂げることの出来る責任者を据えることが
なによりも肝心なことなのです。

未来の問題、経験のない問題ほど、
いくら調査や議論を尽くしても、決定的に正しい道などそう簡単に出せるものではありません。
それよりも、より早く実践に移りその決定を「仮説」と位置づけ
行動しながら検証を続けたほうが、確実により多くのものを得られる。

これに対して、現行の「多数決」原理だと
その決定を絶対視してしまうことが多く、修正や改善を重ねてより良いものに近づける努力を怠る傾向がとても強い。
さらに、多数の決定であることが、その決定の責任者を明確にしない根拠とされることも多く、責任を取らないための言い訳システムになっている場合が多い。



前のブログで書いた映画「明日への遺言」(原作 大岡昇平『ながい旅』)
今夜、これから観てきますが、主演の藤田まことは、こんな経験もあったと話してます。

劇団での興行でいくら頑張っても、まったくお客の入らない芝居があった。
それで座長をつとめる藤田まことは、劇団員にこれからどうするかいろいろ相談を持ちかけたところ、大先輩のひとからこう注意されたそうです。

おい藤田、今回の興行は、どう考えても負け戦だぞ。
それをおまえは、わかっているのか?
勝ち戦のときは、みんなでその勝利を分けあえばいい。
しかし、負け戦のときは違うぞ。
それをみんなに分けてはいかん。
そのときは責任者がひとり背負って、団員たちが再起できる環境で
送り出してやらなければならない。
それが責任者の仕事だ。
それがおまえにはわかるか。


正確ではありませんが、およそそんなようなことを話していました。

またちょと話がずれたかもしれませんが
そうした責任を背負う覚悟があってはじめて、成功も失敗も活きてくるものだと思います。

そして、そこの責任とは、
そもそも多数に依存するものではありません。

数でものごとを測ったり決めたりする論理には
ことごとく抵抗を感じる私ですが、
だんだん世の中も個々の成功例から、多数決原理にまさる
ひとりひとりの行動があるのだということが広まりだしているのを感じます。




   正林堂店長の雑記帖 2008/3/1(土)より転載

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