花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

わが町 諏訪 その6

2024年05月18日 | レモン色の町

「今年の秋のイベントまでには、とんま大使をメジャーにするように!」との至上命令が下り(どこからかわからない!)ミックスしてアップしていただきました。ご当人たちは楽しんでやっております。何事であれ それが何よりでゴザイマス。

四日市でウワサの“四日市とんま大使”とは?/四日市を掘り起こし!」 (youtube.com)

我が家にテレビが導入されたのは遅かった。それまでは、近所へ観に出かけていた。おもちゃの“ささや”さんには、早くから店の奥の高い棚にテレビがあった。昭和32年から33年迄『不二家の時間』は“マイティマウス”のマンガである。スーパーマンのネズミ版といったところで、午後6時から15分くらいの放送だった。「あー、これが終わると またあしたは学校か」とイヤーな気持ちでみていた。浜田小学校1年の時は仙田先生で、学級参観の時は、しわくちゃの笑顔だったが、親が居ないときは、ものすごい顔で怒っていた。あだ名を“せんだばばあ”とつけられていた。

同級生の清水さんは、私をいじめた。愛情の裏返しであったことを知ったのはズーッと後のことである。だから低学年の時は学校が嫌でしかたがなかった。

当時のテレビジョン よくぞこけなんだ

番組の15分が経過してマイティマウスが終わると、ささやのおばあさんが、「としや!ご飯やぞ」と呼ぶ。これがお家へ帰りなさい!の合図だった。

この画像はイメージでゴザイマス

同い年で幼稚園が一緒だった“テルミ君”の処にも早くからテレビがあった。店の奥の座敷でお父さんを交えてテレビ観戦をした。番組の内容は記憶にない。夜の(訂正:も)遅くなってきた(注:子供の感覚で)ので「もう帰る」というと、眠気の出てきたテルミ君は、「帰ったら あかん!」と駄々をこねだした。店番をしていた母親がやってきてなだめる。そんな困った記憶がある。

小さい頃から、帰る潮時というものを、しっかり勉強させられた。

コメント
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