第2海軍燃料廠は、昭和16年に操業が開始された。現在の塩浜地域、コスモ石油、昭和石油と三菱化学の一部の広範な地域を占めていた。日本最大の製油所を誇っていたが、すでに南方からの石油輸送が途絶え、完全操業には至らなかった。海軍燃料廠は空爆の標的となっている。
四日市市史研究第10集より
四日市市史研究の第10号に“第二海軍燃料廠日記”として平田正男さんが投稿しておられる。(昭和16年入廠・当時20歳)ここには、戦争当時の四日市の町が興味深く記されていた。一言お断りと思ったが、ご存命であれば100歳を超えておみえである。お叱りを覚悟でその一部を写させていただいた。
戦後間もない頃の全景(中日新聞社提供)
“第二海軍燃料廠日記(抄)”平田正男
昭和16年4月3日(木)晴
一面麦畑の国道を桑名まで走ってみる。明日から塩浜の海軍燃料廠へ出仕するので、少し運動して、体の調子を整えておきたかった。
昭和16年4月4日(金)晴れのち小雨
今日は6時の速い電車に乗って出勤する。塩浜に建設中の海軍燃料廠へ入廠第1日目である。諏訪駅と四日市駅でスシ詰の状態になる。殆どが塩浜で下車するから、みんな燃料廠の従業員らしい。
昭和16年4月7日(月)晴れ
帰りに倉庫へ寄って事務用品を受領する。もう地方では完全に品不足になっている文房具類が、ここには山と積んであるから驚く。伝票1枚で希望量だけ事務用品や高価な機材が受け渡しできるのである。
空襲後残存していた施設の一部(米国国立公文書館所蔵)
昭和16年4月15日(火)晴れ
<日本とソ連が中立不可侵条約を結んだことが大きく報じられている。あの巨大なソ連とうまく中立が守られるのだろうか>
昭和16年4月17日(木)晴れ
<ドイツ空軍が十時間にわたってロンドン市街に爆撃を加えている>
昭和16年4月25日(金)晴れ
靖国神社の大祭で、廠内でも遥拝式が行われる。出勤は十時までに行けばよい。諏訪で降りて奥村時計店へ寄る。修理はできていなかった。
昭和16年4月30日(水)晴れ
<日・満・獨三国通商会談開催される>
満員電車で帰るより、天気も良いので今日は歩いてみよう。馳出道を通り海山道さんに寄る。お参りして田圃道を浜田に向かう。この道は丹羽文雄さんの作品に出てくる菜種道で、もう菜の花は終わっている。新道へ出てうどん屋で志のだ(うどん)を食べる。
昭和16年5月11日(日)曇り
午前中だけ日曜出勤し印刷物の注文をしておく。公用車で印刷物を三重印刷へ運ぶことになっていたが、都合が悪くなりオート三輪で出かける。県道はほとんど舗装されてないので、揺れて気分が悪くなる。
昭和16年5月21日(水)晴れ
徴兵検査出頭の為、四日市港近くの商工会議所に到着する。
昭和16年5月22日(木)曇
(徴兵検査第2日目、於四日市公会堂)今日の徴兵検査場は、商工会議所の隣りにある公会堂で実施された。銅板葺き唐破風の大屋根の和式建築だ。四日市へ来て今日初めて見る。徴兵検査と云えば恐い厳しい雰囲気の先入観を持ってきているのに、意外と静かに順調に進んでいく。
昭和16年6月8日(日)晴れ
早く起きて、約束の時間があるので富洲原駅へ急ぐ。駅へ着く。やがて井上書記ら一行が到着する。網入れは三回あって、かなりの収穫があった。一同に分配したり、中には浜で焼き魚する者もいる。海へ入って貝を拾う者、海岸でゲームをする者、半日楽しい日になる。沖に三艘軍艦が停泊していた。
昭和16年8月3日(日)晴れ
名古屋へ行く下り電車は、海水浴の客で満員のようだ。上りはガラ空きで、窓からの風が涼しい。十一屋で、姉の子に頼まれていた子犬のぬいぐるみを一つ買う。三十五銭。三星の食堂で天丼を食べる。天婦羅の下に、米の代わりにそばを細かくきざんだ物が入れてある。それでもビールを注文したら小瓶を出してくれた。昼と夕方は時間を決めて出すことになっているらしい。
昭和16年8月10日(日)雨のち曇り
時間を合わせて名古屋へは十時過ぎに行く。名古屋城内は見学者の人影が少ない。暗い階段を三人きりで登る。窓々に「撮影禁止」の張り紙がしてある。防衛上、外部を写してはいけないのだ。
昭和16年8月24日(日)晴れ
12時退庁して四日市へ寄る。中町で秋用のネクタイを一本買う。二円八十銭だった。生れてはじめて自分用のネクタイを買ったのだ。
昭和16年9月14日(日)小雨
9時過ぎ、四日市へ入隊に備えて色々と買い物に行く。名古屋からの電車は満員で、諏訪駅でほとんど下車するのは、服装から見て湯の山へハイキングか、御在所岳へ登山の人たちである。金物屋へ行って、回転式の缶切り、よく切れる小刀、はさみ、フォークなどを買う。
昭和16年9月23日(火)晴れ
自転車で四日市へ行く。磯崎筆生に頼まれたパンク修理用のゴム糊を買うためである。こんな物まで、この頃は薬屋にも雑貨屋にもなくなっている。
施設の各所に空襲から守るための補強やカモフラージュの跡が認められている
昭和16年9月29日(月)雨
夕方6時から諏訪の大正館で出征送別会が開かれた。送られる二人は少しも酔っていない。二次会の話が出た頃、大正館を出る。暗い諏訪公園の木立に。しきりに雨が降る。
昭和16年10月4日(土)曇り
諏訪の洋菓子屋にシュークリームが積んであったので、帰りに寄ったらもう全部売り切れていた。この頃四日市の町も、甘いものが段々品薄になっていく感じである。
昭和16年12月7日(日)晴れ
今朝、通りのパン屋がドーナツを作って売る姉が聞いてきた。最近ドーナツなんて食べたことが無いので、姉の子供を連れて早速に買いに行く。近所の女客で店先は黒山を作っている。我先に手が伸びて、あっという間に売り切れてしまった。夕べ服部君が、四日市で「色紙の良いのが買えない」と云っていたので、顔見知りの文房具屋へ尋ねてみたが、やはり売り切れていた。本を買うついでに紅葉やでも聞いてみたら、学校へ納めた残りが十五枚ほどあった。一枚十八銭だそうで全部買うことにする。
昭和17年8月18日(火)晴れ
晩に諏訪公園の野外映画会に行く。映画は「新門辰五郎」と戦況ニュースが数本あった。映画が終わって人が公園から散っていくと、辺りが静かになる。あちこちで虫がしきりに鳴く。もうコオロギの鳴く季節なのだ。
平田正男さんは、この年の9月 陸軍に入隊され 無事帰還された。
この翌日は対米戦の始まり。
日記はこのあと、昭和17年まで跳んていますね。
心身ともに、日記など書いていられないほどの状況だったのでしょうね。
貴重な記録をご紹介いただき、ありがとうございました。