花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

第16回 1号線の変遷

2016年10月12日 | レモン色の町

昭和三十三年六月一五日、一号線かどや前から南方向を望む。本格的に舗装工事が始まった。木枠で囲ったところにセメントを流しているようだ。ガードマンという人も言葉もまだ無い。工事中の脇をオート三輪やオートバイが通る。仮の道路の間に樹木が植わっているところを見ると、セットバックして一号線は、かなり拡げられたことになる。

左に三重交通観光社がある。現在のスワセントラルパーキング。まもなく新しく出来た近鉄駅の南側に移転する。この角の左方向が諏訪新道だ。これから本格的な暑さへと向かう。

 

昭和三十二年二月八日、辻さんはナガサワ鞄店前あたりから南方向に国道1号線を撮る。昨夜から降り出した雪は止みそうもない。電柱に繋がれた牛の上にも雪が積もる。母親が、通りの真ん中に落としていった糞を掃除していたのを思い出す。左にモービルガソリンの看板が見えるからこの先に中央通りが横断しているはずだ。

 

 昭和三十年五月中旬。未整備の中央通りを東に撮った写真。

昭和二十七年三月二十五日から一ヵ月間、この通りで講和記念・四日市大博覧会(農機具博)が開かれ八十万人余りの入場者で賑わった。その後、草生す荒地が広がっていたが、近鉄駅の開業を控えて中央通りが整備されていく。

手前が旧東海道、その向こうに国道1号線が通る。左に益田軍太郎商店(モービルスタンド)遠くに市役所の塔が見える。其処までに税務署や公会堂が建っていた。車が少ない。信号機の取り付けもまだだ。

先日の“まちゼミ”で、中央通り(70メーター通り)は、終戦近いころ、飛行機の滑走路として造られたらしいということを聞いた。

 

時は経て昭和四十二年六月一日。一号線と中央通り交差点を南に臨む。ここに監視塔が建っていたことを思い出す。造られたときは、警察官が上っていたが、間もなく無人となり、下にパトカーを置いて交差点をみていた。単なる脅かしでは意味がなかったのか・・・


第15回 連鎖街のにぎわい

2016年10月11日 | レモン色の町

 

昭和三十三年六月二十二日。諏訪中通リ(現在のすずらん通り)を東向きに、辻 俊文さんが撮った写真。右に諏訪サロン、岩田洋服店、笹井屋、北京飯店。左に岡女寿司、チェリー理容店と並ぶ。諏訪中通りの路地を入ると長屋のような建て方になっていて、連鎖街と呼ばれている。ここには飲食店が多い。長屋は火事でほとんど焼けた。

正面にはスワマエ通りの嶋口屋が見える。嶋口屋横の路地からあふれ出た人の群れは、諏訪中通りを忙しく諏訪駅へと向かう。靴音に混じって、北勢堂からはカントリーウエスタンの曲が流れてくる。梅雨の合間から覗いた夕日が長い影を引いて行く。

 北京飯店のテイクアウトにまんとう、しうまい、中華すしの文字が

 昭和三十三年三月十五日。諏訪中通リ(現在のすずらん通り)

北京飯店、笹井屋、岩田洋服店と並ぶ。北京飯店の場所には戦後、数年間、白揚書房があった。笹井屋は二階が高級レストランだった。

夜の街路は、春の訪れを告げる雨に濡れている。自転車の同業者と話をする店主。勤め帰りの人も立ち話をしている。どこかの店へ食事にでも入るのか?自転車とスクーターが目立つ。自動車の普及にはまだ期間がある。私の父も配達のほとんどがスクーターで、大きな品物は運送屋に頼んでいた。お客様から祝儀の出る仕事に運送屋さんは喜んで来てくれた。   

香蘭の中華店が写っている。連鎖街の床屋チェリーから北へ入った路地。花月さんは現在も開店中だ。

 


第14回 諏訪神社界隈

2016年10月10日 | レモン色の町

昭和三十二年十一月十五日、ちょうど四十六年前の今日。諏訪神社の七五三風景。なんと大勢の人が七五三を祝ったことか。拝殿前は人でごった返している。政成稲荷の前に人だかりがある。香具師でも居るのか。その中を堂々と帰る小学生。いつもは自分たちの遊び場だが、今日は少し勝手が違う。

この頃、ホッピングという玩具が爆発的に売れ始めていた。両手でハンドルを握り、両足をペダルにかけてピョンピョン飛びあがる単純な遊び。しかし、胃下垂や足の骨膜炎を起こす子供が続出し、翌年夏には下火となった。

 

 昭和三十年七月。諏訪神社の鳥居から東を見る。この日は夏越しの祓いのため、神社入り口の鳥居には、しめ縄が作られていた。写真を撮る親子か?正面に吉田酒店と紅屋呉服店。店の並びは昔のままだ。

諏訪神社は子供たちの絶好の遊び場だった。学校から帰ると、こずかいをもらって諏訪神社へと走った。群れを作って遊ぶことも多かった。地域外からの集団に出くわすと戦争が始まった。お互いが陣地を張り、年上の者が敵陣を攻める作戦をたてて指図した。遊びは真剣で命がけだった。

こども交流舘(現在)東にある公園。今は、図書館前にあった石山(五箇条のご誓文の碑)が移されている。

 


第13回 辻さんと諏訪公園界隈

2016年10月07日 | レモン色の町

昭和三十一年九月四日、諏訪公園を麻生病院側から北東方向に撮られた写真だ。後ろには屋台がずらりと並んでいる。前に見えるのは藤棚。空襲では焼けずに残ったのだろう。神社の松も弱々しい。アドバルーンが群れを成して待機している。それより何より私が懐かしいのは、右に見える出店(でみせ)だ。公園内の四日市幼稚園に通っていたこともあり、この出店にはお世話になった。二軒あって、握り締めた十円でしっかり楽しませてもらった。

一本一円のくじを五円で引き、残りはわけの分からないものを買った。お買い物自体が楽しみだった。

 

昭和三十三年七月二十四日、諏訪公園市民壇前。今日は六時半から映画が始まる。何の映画か?チャンバラか、西部劇か。市民壇に張られた幕の前に子供たちは集まる。やがて集まってくる大人たちに負けないよう特等席を取る。一番良い席で観るのだ。大人たちの影で観られなかったら、裏に回ってでも観るのだ。

市民壇は戦争の名残らしい。でも、僕たちには格好の遊び場で、裏の階段から上がって、壇の真ん中に立つと世の中が広くなり、自分中心に地球が回っているような気分になった。少し照れくさかったけれど、気分は最高だった。

 

昭和三十三年六月、諏訪公園市民壇裏の通りを西方向(正確には北方向だそうです)に見た。この手前に当時の赤線地帯と呼ばれていた春告園が広がる。

開店準備が出来て、来客を待つ従業員。寿屋チェーン店の看板が見える。この年石原裕次郎の日活映画「嵐を呼ぶ男」「陽のあたる坂道」「風速四十米」が大ヒット。裕次郎のイカス姿に若者はあこがれた。自転車の向こうに麗人急募の張り紙が覗いている。麗人とは古い表現だ。近年めっきり見かけなくなった。

諏訪公園西側より南東方向を望む。中野小鳥の看板。遠くに藤棚が望める。左には四日市幼稚園と図書館が並んでいた。

 


春告園と港楽園

2016年10月05日 | レモン色の町

公園南通りの屋台から西へ進むと

諏訪公園の西側一体は、赤線地帯“春告園”だった。辻さんの、これはまさに盗撮であります。

昭和三十三年七月二十四日。現在の二番街、大学前あたりから西に向かって撮られた写真。この年の四月、売春禁止法が施行された。

この地域一帯を港楽園と呼ばれ、諏訪公園西の春告園と共に四日市の赤線地帯だった。

建物の一階ではこわもてのお兄さんが花札をしていて、二階へ上がるといくつかの小部屋があった。貧しい東北出身の人が多かったと聞くが、それにしてもお姉さんたちのこの明るい表情はどうだ。子供たちの遊び相手をしているようだ。

突き当りが駅前南北の通りに繋がる。

 

昭和三十三年七月二十四日、二番街の若紀久の向かい角を撮った写真。辻氏は移り変わる街の風俗や生活をカメラに収めた。当時の雰囲気が色濃く出た作品だ。飲食店の裏路地でくつろぐ女性たち。夏の暑い一日が終わろうとしている。開店までまだ少し時がある。

シンガーソングライターで、当時十六歳のポールアンカが「ダイアナ」でこの春、一大ブームを巻き起こした。ロカビリー三人男の一人平尾昌晃はダイアナを「君は僕より年上と」の訳でヒット。アメリカではエルビス・プレスリーの影響でカントリーからロックンロールへの動きが目立った。


"男はつらいよ 第8作 寅次郎恋歌”2

2016年10月03日 | 諏訪商店街振興組合のこと

博の父、諏訪飈一郎(ひょういちろう)(志村 喬)は、妻に先立たれる。葬儀に駆け付けた後も残る寅次郎。その夜、りんどうの花の話を聞く。飈一郎の口から放浪の寂しさ、侘しさが語られる。

「・・・そう、あれは、もう十年も昔のことだがね・・・わしは信州の安曇野というところに旅をしたんだ。

 バスに乗り遅れて田舎の畑道を一人で歩いているうちに日が暮れちまってね、暗い夜道を心細く歩いていると、ポツンと一軒の農家がたってるんだ・・・りんどうの花が庭いっぱいに咲いていてね、あけっ放した縁側から、あかりのついた茶の間で、家族が食事をしているのがみえる。

 わたしゃね、その情景を、ありありと思い出すことが出来る。庭一面に咲いた、りんどうの花、あかあかと灯りのついた茶の間、にぎやかに食事をする家族たち。わたしはその時、それが・・・それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと・・・ふと、そう思ったら、急に涙が出てきちゃってね・・・

 人間は絶対に一人じゃ生きていけない・・・さからっちゃいかん・・・人間は人間の運命にさからっちゃいかん・・・そこに早く気がつかんと、不幸な一生を送ることになる。

 判るね、寅次郎君・・・判るね」

 


前田賢司さんのコラムより

2016年10月02日 | おいらの商店街

今日は“四日市祭り”。店に立ち寄ったMさん曰く、朝日新聞のコラムに獅子舞の発祥が阿倉川であるらしいと書いてあったとのこと。阿倉川といえばMさんの地元である。獅子舞は小さいころから慣れ親しんできた。練習に3日行ってやめた経験がある。早速、しまぐち屋さんで拝借して読むと、前田賢司さんの投稿である。

 

獅子舞はインドから中国を経由して日本に伝わったとされるが、16世紀初めに飢饉や疫病退散のために伊勢の国で始まったとされる。獅子舞が四日市の阿倉川(当時は桑名藩の領地だったか?)から出たとなるとスゴイ!なぜ阿倉川なのか。調べる価値はありそうです、ガ!あとは誰が熱意をだすか?デス


"男はつらいよ 第8作 寅次郎恋歌”

2016年10月01日 | 諏訪商店街振興組合のこと

“四日市市市民文化事業 寅さんからの招待状”二本目の上映は10月28日金曜日午後6時より“男はつらいよ 第8作 寅次郎恋歌”でございます。製作会社の松竹は、“男はつらいよ”“続 男はつらいよ”新 男はつらいよ““男はつらいよ フーテンの寅”とヒットを飛ばすごとに『次を作っても良いかナ・・』といった調子で続編を重ねてまいりましたが、第8作に至っては、本腰でシリーズ化に乗り出した記念的作品、山田監督もこの期待にしっかりと答えています。

上映時間も2時間弱となり、単品でも勝負ができる勢いで製作されました。マドンナは池内淳子。残念ながらおいちゃん役の森川信さんは、この作品が最後となります。苦労人の喜劇役者で「バカだねぇ~ ほんとうにバカだねぇ」や「おい、まくら、さくら取ってくれ」などの名セリフがございます。朝日新聞出版の“寅さんの向こうに”で森川さんの通夜の様子がありましたので、掲載させていただきます。右から、倍賞千恵子、渥美清、三崎千恵子、吉永小百合の皆さんです。

 

“寅次郎恋歌”、雨の日の芝居小屋からこの物語は始まりです。濡れたスピーカーから歌が聞こえています。

摘む野辺に 日は落ちて

みんなで肩を 組みながら

唄をうたった 帰りみち

幼馴染みの あの友この友

ああ 誰か故郷を 思わざる

※ この映画のテーマは“放浪と定着”であることを予見しています。

 

『今夜中にこの雨もからっと上がって、明日はきっと気持ちのいい日本晴れだ。お互えにくよくよしねえで頑張りましょう』

 寅さんは1年のほとんどが旅の空です。神社やお寺の祭礼で啖呵売をすることを生業(なりわい)としていて、天候に左右される仕事です。

 或る雨の日、旅芝居を観ようと芝居小屋に入ったら、悪天候のせいでお客が一人も入らず芝居は中止。座長の坂東鶴八郎(吉田義夫)から詫びの言葉を聞きます。吉田さんは東映時代劇の悪役で知られたベテラン。人生の大半を旅暮らしで過ごしてきたであろう老座長にぴったりの風貌です。

 事情を聞いた寅さん、お互いお天道様に左右される「稼業はつらいやね」としみじみ互いの境遇を話し合います。そして、「明日はきっと気持ちのいい日本晴れだ」と励まします。「人生 晴れの日もあれば雨の日もある」。つらいことがあっても、ひどい目にあっても、生きていてよかったと思うことがある。それを身をもって知っているから、こうした言葉が自然に出てくるのでしょう。

 そして、ラストシーン。マドンナ(池内淳子)に失恋をして、再び旅の人となった寅さんが、甲州路で一座と再会を果たします。遠くには富士山。もちろん天気は「気持ちのいい日本晴れ」です。

                       佐藤利明著“寅さんのことば”(東京新聞)より