花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ロジドリ(路地撮)より

2020年08月12日 | レモン色の町

中日新聞津支局の板津亮平氏が「商店街から取り残されたような、昭和のにおいがする路地を撮りたい」と訪ねて来たのは半年ほど前のことだろうか。その後、何度かみえた。当店の西側に位置する連鎖街は、ロジドリの期待に充分応える路地である。故スルメ氏が話していたのは、ここに兵舎だった建物を2棟持ってきて建てたということだったが、兵舎かどうかの確認を得ることは出来なかった。

おばさんの立っているところに階段があった。香蘭・階段・煙波と並ぶ(昭和33年3月8日 辻 俊文氏撮影)

1階は、小さい飲食が並ぶ。北側寄りにやや広い階段があり2階へ上がると、木の廊下の東側には小さな部屋が並んでいた。

木戸君の描いた当時の連鎖街。遊郭の行燈のような明かりが立っていたという。左に階段が見える。辻さんの写真には行燈らしきものは映ってないので、昭和40年代に立てられたのだろうか?

諏訪公園にあった四日市幼稚園で同じクラスだった女の子のところへ遊びに行った。部屋は狭く隅に布団が積んであってその上で遊んだ。美人タイプの子だった記憶がある。

後年、商売の関係でご主人に会うことができた。その子だったかどうか確証を取ろうと話していたら、ご主人はフッと「お水だった」といった。水商売をしていたという意味である。その時本人に会うことは出来なかったが、結構リッチな生活をしている様子だった。

右が北・緑の部分に2棟 兵舎らしき建物があった。マダムよう子のあたりに階段があったが、「煙波」の記入が抜けている。(昭和32年頃)

この2棟を通称、連鎖街と呼んでいたのだろう。連鎖した木造建築。漏電になるとまる焼けだった。実際、火事で焼失している。

 


市井からの眺め107海軍道路⑨

2020年08月11日 | レモン色の町

昭和19年12月11日午後1時22分、時の小磯首相は、今いるその場で1分間黙祷することによって、伊勢神宮に必勝の祈願をせよと、全国民に指令した。半藤一利著“B面昭和史”平凡社ライブラリより

その昔、元の来寇のとき神風が吹き日本を救ったという。いままた、全国民の精神力によって神風を吹かせ、連合軍の大機動部隊を撃滅し、B29の編隊を撃墜しようというのであった。

空襲について軍部は国民を指導した。

「爆弾とか焼夷弾は決して全部が全部、うまく命中するものではない。弾は目的物になかなか命中するものではないのであって100発中1発、せいぜい50発中の1発が命中すれば上出来である。1回200機の空襲を受けて、焼夷弾400発を投下されたとしたら、直撃弾そのものでは大体100人くらいの死傷があって、まことに微々たるものであり、戦争する以上は、当然忍ぶべき犠牲である」

それゆえ問題となるべきは精神面での敗北感であると、戦争指導層は躍起になって吼えまくった。

空襲警報が発令されると街は真っ暗である。家庭防護班は防空服装に身を固めて、バケツ、火はたきなどを手にして門口に立つ。男は戦闘帽にゲートル、鉄兜を肩にかけ、女は洋服にズボンかモンペ姿で、防空頭巾をかぶり、戦場にある兵隊と同じ姿であり同じ心で、戦いの日を送り迎えるようになる。

永井荷風はひたすら憤慨している。

「夜半過ぎまた警報あり。砲声しきり也。かくの如くにして昭和19年は尽きて落莫たる新年は来たらむとするなり。我が国開闢(かいびゃく)以来かつて無きことなるべし。これ皆軍人輩のなすところその罪永く記憶せざるべからず」

開けて昭和20年6月の空襲で、四日市市街は焼け野原となる。近所の老人から公園の防空壕の話を聞いた。諏訪公園の市民壇南側にエル字型に掘られた防空壕があった。夜半、サイレンの合図とともに女子供はその中へ避難する。そこへ焼夷弾が命中する。壕は崩れ、からだ半分が土に埋まり大きなやけどを負った。私の父はおじいさんと共に店を守った。空襲の跡地では境界が分からなくなるからだった。おそらく、降りしきる火の粉の中、死に物狂いで燃え盛る我が家を叩き消していたのだろう。

 


市井からの眺め106海軍道路⑧

2020年08月10日 | レモン色の町

戦争の終局は間近であった。『旧四日市を語る 第十集』原 孝雄さんの“四日市空襲についての備忘録 より

昭和20年6月18日午前零時45分から1時35分までの約50分間にわたったといわれる爆撃によって、四日市の街は灰燼に帰し、808名の命と共にその姿を消した。その日投下された焼夷弾は、約3万個であったという。

空襲後の中心市街地

 この頃になると、第二海軍燃料廠の空襲が近いことを誰も疑わなかった。確か、6月22日9時35分頃の空襲に続く6月26日の夜の空襲によって、第二海軍燃料廠は壊滅的な被害を受けた。

この夜、私たちは、避難先の「野田」の人々も交え田圃道に出て、三滝川越しに遠く、体の芯を揺さぶるような爆弾の炸裂音と、そのたびに赤く染まる空に心を痛めながら、ただ息を殺して見守るばかりであった。空にはサーチライトが交錯していたが、その二本のサーチライトに映し出された飛行機の白い映像が、私たちの目に飛び込んできた。と同時にそれに向かっていく小さな飛行機がはっきり分かった。私たちは心から戦果を期待したが、この二機の映像はやがてサーチライトの光より消えていった。初めて見る実戦の場面であっただけに、今も強く印象に残っている。

左 鵜の森神社・右 浜田小学校(空襲後の空撮)浜田小学校の校庭の碁盤の目は畑か?

 この日の空襲は、午後10時30分より翌日の午前零時20分にかけて行なわれたという。


市井からの眺め105海軍道路⑦

2020年08月09日 | レモン色の町

燃料廠の話を聞いた方から、楠のお寺で焼夷弾が保管されていることを聞いたので訪ねた。

M69焼夷弾は、六角形の断面を持った簡素な鋼製のパイプであり、直径は約7.6センチ、全長は約51センチで、焼夷剤としてナパーム(ゲル化ガソリン)を用いられ、B29爆撃機の爆弾倉に、典型的には40発のクラスター爆弾(トータルでは1520発のM69子爆弾)として搭載された

この爆弾は昭和20年2月の神戸大空襲に始まる、木造建築が密集している日本の都市に対する大規模焼夷攻撃において非常に効果的であった。昭和20年3月に行われた爆撃により、東京大空襲、名古屋大空襲、大阪大空襲、神戸市に大規模な火災害と大量の民間人への死者が発生した。(ウィキペディアより)

塩浜第二海軍燃料廠への集中爆撃の煽りをくって、楠方面へも焼夷弾が落とされた。50センチほどの鉄の棒である。土が詰まっているのは地面に突き刺さったからだ。木造の日本家屋を突き破り、屋根裏でガソリンを飛散させるように設計されていた。想像以上に重い。こんなものが何百と降ってきたら、あたっただけで死ぬに違いない

戦争という狂気は、あらゆる殺りく兵器を作り出した。忘れてならないのは、それで一儲けする企業があるということでございます。

例によって焼夷弾の動画です。コピー貼り付けでご覧くださいhttps://www.asahi.com/articles/ASM7D6FTLM7DUEHF00B.html

 


市井からの眺め104海軍道路⑥

2020年08月08日 | レモン色の町

泊山から海軍道路を東へ、第二海軍燃料廠跡にぶつかり塩浜街道を南へ、楠方面へ進んだ。

 

農道に入ると、楠城跡の立て札が見え、その先に楠神社があった。神社の西に小さなコンクリートの建物が望める。思ったより小さい。

 

近くで農作業をしている方がみえた。

「ここは、鈴鹿川と鈴鹿川派川の分岐点にあたる。現在は農業用水として水を汲みだしているが、水不足の時だけ利用している。というのも水に使用量(使用料の間違い)がかかるようになったからだ。建物はここの周辺の者で管理している。今ではカギがかけられているが、小さい頃はよく水を飲みに入ったものだ。名水というわけにはいかない。大腸菌も入っていたに違いない」ということだった。

隙間から覗いてみたが、階段で下へ降りるようになっていた。どのように汲み上げているのか見たいものだ。

 

その下(南東箇所)に、軍用地と民有地を区分する『境界標柱』が立っていた。高さ40センチほどのコンクリート製で『海軍用地』と彫ってある。北野保氏の「よっかいち浪漫紀行」によると、北西側にも立っているそうだ。四日市で現存するのはここだけで、貴重な戦争遺産といえる。

鈴鹿川堤の間に残る本郷深井戸は、暑い日差しを受けて静かに佇んでおりました。

 


市井からの眺め103海軍道路⑤

2020年08月07日 | レモン色の町

昨日(8月6日)は休みだったので、泊山の、第二海軍燃料廠貯蔵施設跡を探索に出かけた。

日永西の中部電力変電所から西へ、南部丘陵公園東入り口方向へ入る。住宅地を走ると泊山小学校が左に見えた。小学校のちょうど北側あたりに、小山が望めたので住宅地の間を枯草を踏みしめ入っていくと、あった!

まさしく 北野保さんの写真と同じだった

しかし、思ったよりも大きい

排水のパイプが何本か刺さっていて、ブロックでしっかり封じてある。おそらく、入り口から下へ向かって掘られていると想像する。中は水で満たされているだろう。この穴から覗いてみたいものだ。

そこから、海軍道路を東へ走り 塩浜燃料廠跡から南へ折れて、本郷深井戸へ向かった。鈴鹿川から取り入れられた水は、一旦、泊山へ集められ、そこから海軍道路のパイプラインで燃料廠へ送られた。

23号線を突っ切る!

本郷深井戸では、農作業をしていた老人(私も老人)の話を聞くことができた。


市井からの眺め102海軍道路④

2020年08月04日 | レモン色の町

塩浜の第二海軍燃料廠と泊山は、海軍道路によってつながっていた。

昭和20年4月5日午前9時43分に空撮された第二海軍燃料廠。陸軍参謀本部陸地測量所が、何らかの目的で撮ったもの。この後、空襲で壊滅的な被害を受ける。(教育委員会所蔵)

昭和20年6月22日・26日と7月9日は、B29による空襲で、破壊された海軍燃料廠。中央やや右側に人が立っているが、建物の巨大さが分かる。

昭和20年11月30日、第二海軍燃料廠は消滅。昭和30年8月に昭和石油に払い下げられた。そして、四日市コンビナート形成の基となる。塩浜駅側から石原産業方向に撮られたものか?中央左右に塩浜街道が通る。(昭和20年代)

 

昭和31年頃、燃料廠跡の撤去作業の様子。

写真集「四日市の100年」・「四日市の今昔」より

 

 


市井からの眺め101海軍道路③

2020年08月02日 | レモン色の町

下総人さんのコメントに、海軍道路に沿ってパイプラインが引かれていたのでは?とあった。ここでベンチャーズの『パイプライン』か?などと胡麻化していたのでは 保っちゃんに叱られます。

 

四日市市の南部、鈴鹿川の本川と派川に挟まれた楠町本郷の楠村神社西側に、コンクリート製の建物遺跡がある。北野保著『よっかいち歴史浪漫紀行』第16話 第二海軍燃料廠取水施設より

この建物は、塩浜の第二海軍燃料廠に水を送り続けた河原田第一ポンプ場(本郷深井戸)で、同じような施設が小倉と河原田にもあり、汲み上げた水は、一旦泊山貯水場に集められ、浄水した後に海軍道路に埋設した管を通して構内に送水されていた

本郷深井戸は、戦後 国の管理となったが、昭和57年から20年間ほど農業用水補給水源として使用されていたことがある。その後 楠町が管理しているが、貴重な戦争遺産といえよう。

昭和13年吉田勝太郎四日市市長は、塩浜に約60万坪の用地を買収、航空燃料の増産を目的にわが国最大の規模を誇る第二海軍燃料廠を翌16年4月21日に開庁させた。昭和17年4月18日の初空襲以来、海軍燃料廠がB29の攻撃目標となったのは当然のことでありました。

 


市井からの眺め100海軍道路②

2020年08月01日 | レモン色の町

北野保氏著の『よっかいち歴史浪漫紀行』に海軍燃料廠のことがあった記憶をたよりに、本を引っ張り出してみた。

「第二海軍燃料廠貯蔵施設」

南部丘陵公園の東、泊山小学校北の丘陵斜面にコンクリート壁で閉鎖された地下壕跡がある(医療センターの西にあたる)。以前、移設された市民壇を南部丘陵公園へ見に出かけたすぐ近くになる。この地下壕は第二海軍燃料廠の疎開工場のひとつで、航空燃料の貯蔵施設として造られた。

燃料廠ができたのは、昭和16年4月21日。ここで作られた航空燃料は、海軍道路を通って密かに山中の壕に保管された。中でも、濃縮過酸化水素は『秋月(秋水の間違いでした)』に搭載され、高高度から飛来して本土空襲を繰り返すB29迎撃用に開発された。

『秋月(秋水の間違い)』は、昭和19年7月に軍の要請を受けた三菱重工業がドイツのメッサーシュミットを参考に開発、わずか3分半で高度1万メートルまで上昇した。ところが、試験飛行までこぎつけたが、実戦には至らず終戦となった。

ネットは便利でアリマス。復元された『秋月(秋水が正しいです)』が、三菱重工業の名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場に保管されている、ということで検索してみた。

復元された秋月(正しくは秋水

メッサーシュミットの図面とそっくり!