四日市商工会議所が大名古屋ツアーズと手を組んで 四日市ツアーズ が始まる。11月6日は「物流を支えるJR貨物 四日市駅ツアー」 駅長さんの案内で「DD51型ディーゼル機関車」や駅構内の様子、「末広橋梁」などが解説付きで見学できる。残念ながら女子限定デス!
「大名古屋ツアーズ」でネット検索すると色々と面白いツアーが見れます。
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ここの諏訪駅は、どうやら空襲以前に建っていたらしい。同じアングルから見た写真があった。
昭和27年とある。構内へ入る庇と思っていたが、駐輪場らしい。駅前は前の写真と比べるとすっきりしている。
「惚れるな弥ん八」の看板が傾いている。現公園通りと1番街の交差点から東を見る。映画の封切りは昭和31年9月26日だから、諏訪駅廃止の時期とちょうどぴったりだ。線路上での井戸端会議。複線のはずがガラクタで埋まっているので単線に見える。ヤマカワさんの看板。
この看板の向こう、線路を背に小さい店舗が並んでいた。サンシ百貨店の向かい側になる。小さい食堂を見た記憶がある。うまいやかのんきやだったか?狭い路地の上には屋根がかかっていた。
“名古屋タイムス”(昭和28年7月12日発刊)に、諏訪駅北側の公園周辺の様子が書かれていました。再掲載
“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園
〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年現在)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、名古屋桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。
〇 諏訪神社は信州の分身、9月25日から27日までが祭礼で有名な大入道やクジラ船の山車が出る。裏は公園、サルが飼ってある。のどかな雰囲気である。近所のパチンコ屋から軍歌が流れてくる。パチンコはさかんで満員「出やん、出やん」とガラスを叩いている。名古屋より甘いので、名古屋から出稼ぎに行ったらいかが?
〇 キャバレーやレストランもないが港へ入った外国船の船員が遊びに来る。町の人もなれていていい商売になるそうだ。だが、中にはタクシーの運賃を払わなかったり、酔っ払ってケンカしたりするのもあるとか。ベラベラッとやると言葉のわからないせいもあって、
こちらはおとなしくなるそうだ。ノルウェー人が多いという。国際親善はうまくいっている、というのだろう。(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)
昭和31年ころの諏訪のまち
やや乱暴な文章で、昭和20年の空襲から、諏訪の街の形成過程がよく出ています。諏訪産業というのも初めて聞く社名で、公園周辺に家が建ち始めた様子に興味がわきます。
諏訪公園内に四日市幼稚園があり、公園の西に広い庭のカトリック教会がありました。正ちゃんと忍び込み築山に上り、はか南方を眺めると龍宮城のような建物、港楽園が望まれました。公園と幼稚園と赤線が混在した町、外部の方には不思議な光景に映ったのでしょう。
※ 連鎖街の謎が解けた! 新田町にあった神社の土地に、諏訪産業が軍の払い下げの建物を建てた。戦前と書いてあるが 空襲で焼けたはず 空襲後ではないか?連鎖街のルーツがここにあった。
諏訪駅前から東を見た。前回より西へ下がっている。諏訪劇場で公開は片岡千恵蔵、近藤勇の「新撰組」だ。
カメラ角度を変えてもう1枚。昭和33年7月18日辻さん撮影。辻さんの影が映る。
このマップは昭和43年だが、下の写真は昭和29年のころ。まだ諏訪駅は健在である。
①の場所である。日付が分かったのは映画の看板、三浦光子主演の「暗黒街の脱走」。この作品は東映で昭和29年8月17日に封切られている。併映は「花の白虎隊」主演 黒川弥太郎。大映から市川雷蔵を招いて撮られたのか?
①
パチンコ屋の角にのんきやのごみ箱がある。のんき屋さんは斜め前②デアリマス。
②
開店時の写真をお借りしました。
辻さんが撮られた諏訪駅前から東向きの写真①。昭和30年頃。右に諏訪マーケット、左にはベニヤさんの看板。その向こう側に便所があった。まっすぐ進むと左に三泗百貨店が建っていた。その後スーパーサンシとなる。学校帰りの女高生の姿、午後3時半ころか?
①
本町の水谷さんからお預かりした、逆方向(西向き)の写真②。右手前に便所、ベニヤさんの看板は骨組みだけだから、1年ほど前だろう。左に乾物屋のマルトさんの看板が見える。正面に諏訪駅の構内へ入る屋根がある。
②
諏訪駅構内近鉄線ホームの西の端に立って撮られた写真③。湯の山線がまっすぐ伸びて、桑名へ北へカーブする近鉄線。右端に天理教の建物が見える。
③
南口が正面だったが、北口もあり、どぶ川が流れていた。諏訪マーケットが南口にあったので、北口はあまり印象にない。
もう1枚カーブの線路を取られた写真。水谷さんからお借りした。ここがどこか分からない。右の東洋商事四日市営業所の建物がある。その向こうに立派な建物があって、踏切をを学生さんが渡る。ここはどこだろうか?
?
※ 9月6日記 これは善光寺カーブではないか?この急カーブはほかに見当たらない。国鉄四日市側から北西に撮ったとしか考えられないノデアリマス。如何?
昭和30年頃。近鉄四日市駅が出来上がりつつある。街が大きく変わろうとしている。
昭和31年9月、近鉄線の短絡工事が完成して、海山道駅から現在の近鉄四日市駅まで直線で結ばれた。それまでは、関西線と並行して国鉄四日市駅に一旦入り、善光寺カーブを経て諏訪駅に向かった。
昭和27年10月30日、海山道〜鹿化川分岐間の短絡工事が終わり。昭和31年9月23日鹿化川分岐〜四日市新駅舎〜川原町駅間も竣工した。これで従来の諏訪駅が廃止されて1.1キロメートル、時間にして約4分短縮されたわけである。
以前は、大阪線の広軌(1435ミリメートル)と名古屋線の狭軌(1067ミリメートル)との線路幅の違いから、伊勢中川駅での乗り換えが必要であり、昭和20年から広軌への変換工事が始まった。
名古屋線の広軌化は昭和33年9月から準備がすすめられたが、昭和34年9月26日、四日市まつりの最終日(訂正:諏訪神社の大祭である四日市まつりは、9月25・26・27日でした。台風明けの日がお祭り最終日でした)に伊勢湾台風が東海地方を直撃、この復旧工事で計画より早く完成となった。まさに“災い転じて福となす”デアリマス。
寿町に残る旧線の鹿化川橋梁の橋台
『よっかいち浪漫紀行 北野保著』より