花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ぶらり四日市 その五十六 第二尋常小学校②

2023年07月03日 | レモン色の町

戦前の校舎

昭和20年6月、B25の編隊が四日市の夜空に来襲、焼夷弾の雨を降らせました。当直の本田先生は、女先生二人に“御真影(天皇陛下の写真)”を持たせて校庭の小防空壕へ避難させました。この時、校舎の東南の道路で焼夷弾が破裂、爆音の合間を縫ってバケツで小川の泥水をすくい、なんとか消しましたが、今度は、大型油脂焼夷弾が校庭で爆発、風にあおられて西校舎から北校舎へと燃え移っていきました。

伊藤、矢田班長と共に団員たちは、北校舎1階の硝子戸を破り二階へ駆けあがりました。二階には不発弾が横たわっており、それをまたいで必死の消火です。何とか鎮火には至りましたが、昭和19年の空襲で受けた修理箇所が充分でなかったため、屋根の隙間からも煙が出始め、ポンプの水も届かないありさまでした。今度は、東の講堂への類焼を防ごうと、渡り廊下を破壊しますが火の勢いは収まるを知らず広がり続けました。この時、本部消防が阿瀬知川に避難していたことを知り救援を求め二台のポンプで消火にあたりましたが、東の新校舎を残して、北校舎の六分は焼け落ちてしまいました。

空襲後の学校(中央)と鵜の森神社(左)

鈴木芳松記 はまだ80周年記念誌より

空襲後の昭和26年落慶された校舎

下の図は、昭和30年当時の浜田小学校。

下の写真は、昭和45年 取り壊される校舎。建物の両側がセメント塗りのようになっているのが分かります。後に補強のため塗られたのでしょうか?下総人様のご指摘で気付きました。

1階が職員室、2階が講堂になっていました。


ぶらり四日市 その五十五 第二尋常小学校①

2023年07月01日 | レモン色の町

GGシニアさんに、動画をアップしていただきました。バスタで工事中の中央通りと博物館前に立つ“平和の女神像”のドッキングでゴザイマス。

(4) 「四日市中央通りであった博覧会/タイムスリップ/ 昔の写真をご紹介」 - YouTube

『浜田小学校百年史』より

浜田小学校の歴史は古い。江戸期、私塾が統合され、四日市学校から浜田学校が江田町の民家(生川吉郎宅・阿瀬知川北)へ移されたのは明治8年11月のことでした。そして、明治19年の小学校令で“尋常第二小学校”(6年制)となった浜田小学校は、東海道沿いの崇顕寺西側に建てられます。

次の写真は、北浜田時代、移築後大正9年の記念撮影です。

下の写真は、旧東海道沿いにあった北浜田時代の校舎写真と略図です。東海道沿い、駐在所の奥、阿瀬知川を背にして造られていました。入口正面に立つ二階建ては、一階が職員室と二階が裁縫室と唱歌室になっていました。

大正11年、児童数は400人を超えるようになり、現在の場所に移築されました。南から校舎を望む、戦前の浜田小学校です。

昭和20年6月、学校も空襲に遭います。類焼は西から北校舎、そして東へ進みます。当直の本田先生は、女性先生二名に“御真影”(昭和天皇の写真)を持って校庭の防空壕に避難させ、必死の消火作業に入りました。つづく