花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

昭和6年の諏訪駅

2023年10月10日 | レモン色の町

諏訪神社の前を通る東海道が、江田町で伊勢電鉄の線路を踏切で超えるところ(現:1番街と旧東海道の辻)の両側にあった諏訪駅の昭和6年の風景。昭和58年発行の四日市文化展望より 椙山 満先生

東海道から西南方向を見る

北側にあった駅舎は伊勢電鉄、南(写真の左)は、三重鉄道の駅舎。今、桑名行の電車が発車してところで乗客がこちらへ降りてくる。その左の三重鉄道のホームには、湯の山線の電車が到着しようとしているし、左からは内部・八王子行の軌道車が人を待っているのがみえる。この駅は昭和4年から17年まであり、現在は諏訪栄町スーパーサンシ1番街店の前になっている。

サンシ前から北東方向 伊勢電鉄ホームの西端がみえる

こうしてみると、街の中心は、東海道の札ノ辻から、鉄道が敷かれた四日市驛付近、そして三重鉄道と四日市鉄道の起点にもなった諏訪駅周辺へと移動している。

岡野繫松先生が「旧四日市を語る第1号」に描かれた諏訪驛

昭和13年の地図では東海道沿いの新田町と江田(えんだ)町の境に諏訪驛がある

昭和17年に諏訪驛は西へ150メートルほど移動した それ以降の駅舎跡

昭和58年のサンシ前(諏訪驛舎跡)左の櫛庄さんから1番街事務所へと変わった

 


追分の大鳥居

2023年10月09日 | レモン色の町

またまた GGシニアさんにアップしていただきました。今回は、昭和35年に四日市ロケが敢行された赤木圭一郎と浅丘ルリ子 出演の“拳銃無頼帖 電光石火の男”で、初めて観たときは、まるで昨日の風景のように映される景色に驚かされました。旧四日市港から高砂町、相生橋、湯の山温泉ロープ―ウェイと当時の風景が楽しめる作品です。

「ここが撮影ロケ地/日活映画・電光石火の男/三重県四日市市」 - YouTube

追分の大鳥居 椙山 満(四日市文化展望創刊号より)

右 京大阪道 左 いせ参宮道 の道しるべと 真新しい標識には 神宮遥拝御鳥居 とあって 残念な方はここからでも拝めますということでしょう これは伊勢へ向かう道

20年に一度の伊勢神宮ご遷宮のたびに、材を頂戴して建て替える追分の大鳥居は、桑名の七里の渡しの大鳥居からかぞえて二の鳥居といわれ、ここから東海道を分かれた参宮街道が伊勢の内宮までつづいている。昭和4年に建て替えられたばかりの真新しい鳥居の横に立つ古い大きな道しるべと常夜燈。この横をくぐって、道中伊勢音頭もにぎやかな旅人たちが伊勢詣りに向かったもの。今は三角形の小公園の中で鳥居もやや北向きに立てられ、信号がまたたくごとに流れる自動車の渦の中で、時代の波を見下ろしていることであろう。

昭和58年撮影 古い道しるべは 移動こそされていても昔のままか。

参宮道追分の図


湊新道の十二間道路

2023年10月08日 | レモン色の町

昭和58年 文化展望 創刊号から 椙山先生の十二間道路

関西鉄道の四日市驛から相生橋まで十二間道路と呼ばれ、幅広のメインストリートが出来て、高砂町にある四日市港(旧港)市の中心部とを一直線に結んでいた。この十二間道路の中間あたりに第三小学校(現:納屋小学校)の門前通りが交差しており(現:名四国道)、それより西方両側を西袋町、東方両側を東袋町と呼んで、前者は倭姫命という優雅な邌りを、後者は鯨船正一丸を四日市祭りに演じていた。

この写真は、昭和初期に道の中央部をアスファルトの舗装中で、彼方に相生橋の欄干がみえる。

この写真は“文化展望”が創刊された昭和58年、同じ位置から撮られたものである。

明治43年に実施された市の四大事業の一つに、諏訪新道の近代化があった。これは、諏方神社から沖の島、四日市驛間道路の近代化と、更に高砂町まで延長する計画で、新築港胎動への始まりを意味するものであった。

明治期に諏訪神社~四日市驛間が整備され・・・(明治44年地図)

大正11年の地図では“臨港道路計画線”となっている


文化展覧会時の沖ノ島

2023年10月07日 | レモン色の町

文化展望 創刊号より 椙山 満氏著 この写真も鮮明に写っておりました

大正11年8月5日、文化展覧会が開催された時、紅白の祝賀ポールが立ち並んだ諏訪新道の沖の島附近、左の家の軒先に理髪店の看板(川口床屋か?)、道の真ん中に突き出した氷の旗印のずっと西方に「もち」の文字がみえる。行く手には諏訪神社の森が茂っている。右側にポストが立ち、タバコの看板から先方が現在の郵便局の場所、道幅は現在の約半分位であった。

明治5年8月、学制頒布された。我が国初の近代的学校制度を定めた基本法例である。全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学区を置き、各学区にそれぞれ大学校、中学校、小学校を1校ずつ設置することとされた。そして、50年後の大正11年8月“学制頒布50年記念県市連合文化展覧会”が諏訪公園で開かれた。さて、諏訪公園では、どんな行事が開かれたのでしょうか?諏訪公園として市に譲渡されたばかり、熊澤館(現 諏訪公園交流館)はまだ出来ていなかったはずで、木造の旧図書館で講演会でもあったのでしょう。


浜往還の一本松

2023年10月06日 | レモン色の町

昭和58年に創刊された“四日市文化展望”。その第1号に“浜往還の一本松”として椙山満先生の投稿があった。大きくはっきりした写真だったので掲載させていただく。

この絵の右隅に「幕政時代四日市湊燈台附近光景」とある。徳川時代の四日市湊は、札の辻→上中町→濱町→築地(思案橋)→蔵町の通りが海辺に出たところで、このような巨松があって、その下に乗船場と燈明台が海を向いて立っていた。左手は海で、天保12年に出来たと昌永新田という埋立地(のちの高砂町)もまだ描かれていないところから、この絵はそれ以前の四日市湊を描いたもの。波が直に打ち寄せ、旅人たちは潮風に吹かれるまま、船を待っている。中納屋町、開栄橋のたもとにあったこの場所で、安政4年、高潮の浸食を受けて枯死するまで四日市のシンボルであったというこの老松の物語も、今は遠い幻の海の彼方に消え去ってかえりみる人もいない。   椙山 満


間の宿のお杉とお玉

2023年10月03日 | レモン色の町

富田鯨船の流し唄 全四十句中四句に“お杉・お玉”という大道芸人が登場する。

あいの山通ればエー お杉やお玉やヤアーセ

お杉・お玉が手で招く そっちも こっちも

  ガッテン ジャアーセー

お杉・お玉が百姓の子ならエー 金の橋かけ 宮川ヤアーセ

お杉・お玉に銭百投げた そっちも こっちも

  ガッテン ジャアーセー

歌麿

二人は、いつの頃からか富田の辻で小屋を建て、絹の着物を着て遊女の如く着飾り、三味線を弾きながら悲しい調子の歌(間の山節)を歌っては、参宮道を通る旅人から投げ銭を取っていた。

夕べあしたの鐘の声 寂滅為楽(じゃくめついらく)とひびけども 聞いて驚く人もなし 花は散りても春は咲く 鳥は古巣に帰れども 生きて帰らぬ死出の旅・・・

“好色一代男”の井原西鶴(元禄6年没)は、“織留”にこう書いている。

「毎日の参詣あだぼれしてここに立ちどまり、前なる真紅の網の目より顔のうちをねらいすまして銭なげつけるに、一度も当たる人なし」三味線を弾きながら、撥(ばち)でもって飛んでくる投げ銭をかわしていた。

国貞

この、元禄時代(1688〜1704)のお杉とお玉は初代であって、鯨船の唄に登場するお杉とお玉は、後代の“お鶴・お市”のことである。伊勢参りの全盛期には、全国に知れ渡っていて、“東海道中膝栗毛”や、国貞 歌麿の浮世絵にも登場している。ということは文化・文政の頃になろうか。 富田をさぐる より


富田立場の客引き女

2023年10月01日 | レモン色の町

1号線を北へ、朝明川を渡って西へ川沿いに走ると旧東海道と交わる。(先日Y氏宅へお邪魔した折、常夜灯の話をした。帰りに寄ろうと思っていたが、急いでいたので豊田橋で折り返し帰ってきてしまった。又、出掛けようと思う。)

文:生川益也・写真:水谷稔 昭和48年発行

客引き女

朝明川を桑名側へ渡ると、堤に“弘化三年(1846)に建てられた多賀大社の常夜灯が立っている。(現在は、柿の交差点、北勢バイパスの高架の下にぽつんと立っている。)嘗てこの通りを、員弁の阿下喜から藤原の山口を通り、鞍掛峠を越えて六里(24km)の山道を多賀までたどる、東海道より多賀参りの間道に入る入口となっていた。(知ラナンダ)この常夜灯の西に二軒、東に一軒と三軒の茶屋が建っていた。

春から夏になると、渡ってくる風も心地よく、鈴鹿連山の見渡せる見晴らしの良い場所である。この朝明川橋は旅人にとって関所のようなところであり、橋を渡らなければ旅を続けることが叶わなかった。逃げることのできないこの橋に目をつけたのが富田の旅籠で、各店はここまで客引き女を出していた。

尾張屋(其角が“蛤の焼かれて啼くや 郭公(ほととぎす)”の句を尾張屋に残している、現在、富田浜に残る)・中島屋(富田西町、明治中期まで旅籠を営業、店頭で焼き蛤を焼いていた)・四日市屋(富田南町の高級老舗旅館)・吾妻屋(富田南町)などから若い女中連中がこの橋まで出向くことが日課となっていた。

赤い前掛けに白く屋号を染め抜き、木版刷りの簡単な案内書を手渡したり、うまく話し込んだりして客を引く、熾烈な客引き合戦を展開していたようである。だから平気で噓も云い「部屋の中から松越しに海がみえる」とか「絶対に相部屋にしません」とか「家は総ヒノキで、女中は全部若くてきれいな娘バッカり」とか。

よくもまあこんなことを、ヌケヌケといったものだと、旅人も後になって苦笑するほど無茶苦茶なことが多かった。客引き女は「荷物をお持ちしましょう」と商談が成立して荷物を取ってしまえば、もうこちらのもの・・・となるのである。私の友人が伊豆へ行った折、「富士山が見える」という客引きについて行ったら、ナルホド、風呂に富士山の絵が描いてあった。(そういえば、私が幼少期に箱根で「テレビ部屋がある」と呼び止められ、旅館に行ったら入ってすぐの玄関横にテレビが飾ってあった。すぐに出たが、休憩料を要求された苦い思い出である。)

また、この朝明川は、員弁、桑名を縄張りに持つ穴太(あのう)の徳と、四日市、富田方面を縄張りに持つ伊勢德との境界線でもあった。その関係で、富田の旅籠連中が朝明川まで出向いたと言われている。荒神山の対決は、穴太の徳と神戸の長吉の縄張り争いが原因だった。