花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

千歳橋と国産振興博覧会

2023年12月17日 | レモン色の町

ハーイ!東海道四日市宿資料館の2回目でーす。館長の長谷川さんにはお世話になりました。ありがとうございました。下の文字をクリックしてみてください。ハイハイと納得ばかりしているタケちゃんでーす

「四日市にある日曜日にしか見れない資料館/東海道四日市宿資料館#02」 (youtube.com)

明治・尾上町、大正・末広町、昭和・千歳町と新四日市港の埋立て造成が、進んで行く。尾上町と千歳町の間の築港運河に架せられた千歳橋は、長さ32間、幅7間の鉄鋼橋で大正15年3月に竣工した市内最大の橋梁。昭和11年春、新港と千歳町の完成を祝った大博覧会の正面は千歳橋東詰めにできた。

文化展望四日市 第9号 椙山満著 四日市今昔 橋物語より

千歳橋竣工が大正15年(昭和1年)国産博覧会は昭和11年3月25日より5月30日まで開かれました

千歳橋の正門の上から頭を出しているのは仏教館の大仏様

文化展望四日市 第9号 椙山満著 四日市今昔 橋物語より

平成3年当時の千歳橋 この運河を北へ進むと旧四日市港へとつながる

本町まちかど博物館の水谷宜夫様からお借りした 貴重な資料でゴザイマス 感謝!

 


顕彰 稲葉三右衛門翁

2023年12月15日 | レモン色の町

 

昌栄橋北詰めに立つ稲葉翁象

初代の四日市港開築の義人 稲葉三右衛門翁(天保8年9月~大正3年6月)の壮挙を永遠に明記するため四日市市は昭和2年、市制30周年の記念事業として翁の銅像を昌栄橋北畔に建設し、同3年8月除幕式を挙げた。

工事の様子

が、この銅像は太平洋戦争による供出のため取り壊された。が、が、昭和31年、中央通りの国鉄四日市駅前に港に向かって再建された。以降、大四日市まつりの開催にあたっては、まず稲葉三右衛門像の前での式典から始められている。わたくしも、何かの偉いさんになった折、参加した記憶があります。

稲葉翁の港 北から 三瀧川・寅高入新田、稲葉町、蓬莱橋、高砂町


今も昔も 相生橋

2023年12月13日 | レモン色の町

東海道博物館探訪記でゴザイマス 文字をクリックしてご覧くださいマセ

(2) 「四日市にある日曜日にしか見れない資料館/東海道四日市宿資料館」 - YouTube

高砂町と袋町の間の納屋運河に架けられた相生橋は、港新道(12間道路)の関西と同時の大正13年10月に竣工した。中央部の車道は砂利だけで未舗装、両側の人道は板張りのまま。対岸の白い洋館九鬼紋十郎氏邸。明治23年創設の初代相生橋は、このすぐ右手(北側)に架かっていたので、対岸に橋の跡と、旧袋町の狭い通りの入り口が見える。 文化展望四日市 第9号 椙山 満著 四日市今昔⑨橋特集より

大正13年10月、竣工当時の相生橋と納屋運河

平成3年の相生橋 昭和35年公開の電光石火の男でもロケ地となりました

昭和13年の地図

振興組合の立体駐車場スワセントラルパーキングがいよいよ解体段階に入りました。

 


掖済会?という建物?

2023年12月11日 | レモン色の町

掖済会前の海水浴場

稲葉町の旧四日市港防波堤と三瀧川口の間にあった白砂の海岸は、四日市市民にとって最初の海水浴場。ここに明治41年3月、海員掖済会の大きな建物が建ったため、掖済会前の海水浴場と呼ばれて盛況であったが、川口の潮流のためか、海底が淀みはじめたので、大正12年北方の午起海岸が整備され脚光が移った。戦時中、この海岸は埋め立てられ大協石油のタンクヤードができた。今は、昔の語り草さえ残っていない。

椙山満著 文化展望より

大正13年10月12日 掖済会前の海で飛行ショーがあった。その時の空撮。高砂町の伊藤礼之氏所蔵の貴重な写真を納屋プラザで見せていただいた。(港地区連合自治会様所有)

航空ショーの真っ最中 角の石灰工場からか?汚泥が流れ出しているのがはっきりとわかる

2022年2月6日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2022年2月6日のブログでも紹介いたしました掖済会は、大正期のペスト騒動でも大活躍をしています。

明治10年のマップ

泣く子も黙る?掖済会?

遠景

本町まちかど博物館の水谷宜夫さんには、多くの資料を見せていただきました。感謝!


キャロル・リード監督の傑作!

2023年12月10日 | 映画の名言、映画の迷言

B-1グランプリを終えてひと息ついたところで、東海道四日市宿資料館へ出かけました。館長の長谷川さんと吉本さんに親切な案内をいただきました。感謝!

「四日市にある日曜日にしか見れない資料館/東海道四日市宿資料館」 (youtube.com)

1949年キャロル・リード監督の傑作「第三の男」は、アントン・カラスのツィターで始まります。第二次世界大戦直後、混乱のウィーンに、ハリー(オーソン・ウェルズ)に誘われてやってきたホリー(ジョセフ・コットン)は、事故死したはずのハリーが実は生きていたことを探り出します。「話がある」と告げられたホリーは、約束の観覧車の下でハリーを待ちます。

金のために手段を選ばないハリーは、観覧車の中で仲間になれと誘惑します。

オーソン・ウェルズの凄みのある悪役振りですが、不思議な説得力があります。

が、現在のウクライナやイスラエルで、どんな文化が育まれることでしょうか?

ツィターの曲が流れる、最後の名シーンです。

私見、地下道の銃撃戦は小さい頃の自分にも印象的だったのか、漫画に描いていた記憶があります。そして、光る石畳に立つ広告塔は、マンガ雑誌にも使われました。謎のサンドイッチマンが広告塔の中に消えていきます。中はギャングのアジトに繋がっていました。

「第三の男」は、繰り返し鑑賞に堪える傑作です。最後のシーンをまた見たいと衝動にかられます。


潮呼橋

2023年12月08日 | レモン色の町

とんでもない間違いをいたしておりました。“潮呼橋”は“しおよびはし”と読むそうで、読めないことにかこつけて“いたこばし(潮来橋)”と間違えておりました。ここに謹んで訂正させていただきます。

大正10年6月、徳川家康夜の渡海で一躍有名になった思案橋から急に川幅が広くなるのが浜町運河。そこに北納屋から浜町へ渡る潮呼橋があった。

昭和10年ころ、右端の運河に架かる潮呼橋

明治23年8月、九鬼総太郎が自費で架けた頃は千鳥橋と呼んだが、大正14年6月、長さ18間、幅5尺の潮呼橋に更新されて昭和30年代まで続いた。

昭和30年ころ、潮呼橋から眺めた浜町運河(竹野太郎氏撮影)

今、そのあとは市の下水処理場と小公園となり、橋の親柱が昔を語り伝える。

浜田村から流れていた阿瀬知川のここが下流でした。文化展望四日市 第9号 1991年発行 四日市今昔⑨ 橋特集 椙山満著より


三滝川が決壊した!

2023年12月06日 | レモン色の町

昭和13年8月1日から2日にかけての集中豪雨で、堀木町北方の三滝川右岸堤防約100メートルが決壊し付近のヤマコ醤油工場が大破し、濁流は鵜の森公園、諏訪公園、新田町、江田町、沖の島町、更に関西線を越えて納屋地区に押し寄せ、市街地は水中に孤立した。諏訪新道や諏訪神社前は船が往来して炊き出しや救援物資を配ったりした。

1日から2日にかけての懸命な土嚢積み上げ作業で濁流が堰き止められた直後の写真。

この部分だけが幅広くなっている平成3年の写真

昭和13年マップより

当家は、神社前の新田町だった。おふくろの話では屋根の上で舟から食べ物をもらったことと、濁った水が徐々に透明になっていったという話を聞いた。という事は、水が引くのに何日もかかった事になる。夏でよかった。

グーグルマップ(現在)より

増水時には海蔵川へ水を逃がすようになったのはその後のことだろう。末永町を通るときこの橋を渡るが、幸いにも水の流れているところは見たことがない。本日、堤防を通りかかったら、川底の地ならしをしていた。


島安次郎と巖谷小波

2023年12月03日 | レモン色の町

前に、関西鉄道の島安次郎と巌谷小波に接点があったことを、下総人様から教えていただいた ことをすっかり忘れていた。スンマセ―ン!

明治3年 和歌山県の薬問屋「島喜」に生まれた島安次郎は、明治27年四日市の関西鉄道に国有化される明治40年まで技術者として働いていた。一方、巖谷小波(いわたにさざなみ)は、明治期に活躍した児童文学者である。富田浜の海水浴場跡に巖谷小波の句碑が残る。

涼しさや 松こしに見る 伊勢の海   小波

この句は昭和5年7月22日 明治期の児童文学界の第一人者 巖谷小波が富田の造り酒屋「酒吉」の三代目当主伊藤吉兵衛を訪ねたおり 富田浜に遊び松こしに見える浜辺の美しさに感動して詠んだものです。それを当時の富田保勝会が自然石に刻んで碑としこの地に建立しました。 平成4年8月吉日

下総人様からお借りした 橋本克彦著「日本鉄道物語」講談社文庫にその出会いが書かれていた。

独逸学協会学校当時、島安次郎は巖谷小波という親友を得ている。同じ明治3年生まれの巖谷。家は近江水口藩の藩医で、医者に進まねばならなかったが文学の道に進む。その点、薬学の道に進まねばならなかった島安次郎と境遇が似ている。物静かな島と屈託のない性格の巖谷は、その性格の違いからかとても気が合い親交を深めている。

その二人が、社会へ出て四日市と富田という地に縁を結んでいることは、とても興味深いことである。

そして前回、三瀧川に架かる鉄橋をSLが走る椙山先生の写真を掲載させていただきましたが 2年前にその地を訪れていることを思い出しました。

 ①

 ②

この時、川の南側 鉄橋の下を通じている人道用トンネルが、レンガ積みであったことから、明治期の構造物が今に残っていることを知りました。

 ③


三瀧川河口の関西鉄道

2023年12月02日 | レモン色の町

文化展望四日市第9号 より 椙山満氏の 四日市今昔⑨

大正5年 三瀧川橋梁を行く名古屋行列車

明治23年12月25日、関西鉄道の四日市-草津間の開通に引き続き26年四日市から名古屋への延長工事が始まって、27年7月桑名まで開通した時、三瀧川に架せられた橋梁の。大正5年の風景。川口から団平船がさかのぼり橋上を対象と明治生まれの機関車が重連で牽張(ひっぱる)名古屋行の列車が通る。背景の白亜館は東洋紡績四日市工場

平成3年

昭和13年マップ