花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ハングリーであれ 愚か者であれ

2024年05月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

「写真で見る昭和30年代の四日市/四日市を掘り起こし/第3回」 (youtube.com)

第3回は、白揚書房から諏訪駅あたりを歩いてみました。クリックしてご覧ください。

2005年6月12日、アメリカのスタンフォード大学卒業式で、スティーブ・ジョブズ氏が行った名演説は聴衆の心をわしづかみにしました。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当に何をしたいのかもう知っているはず。他のことは二の次で構わないのです。私が若い頃、『全地球カタログ』という素晴らしい本に巡り合いました。スチュワート・ブランドというメンロバークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみればグーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、素晴らしい考えで満ちあふれていました。

勇気をもらえる名スピーチ 株式会社ダイアプレスより

スチュアートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、ひと通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ、愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。

ハングリーであれ。愚か者であれ。   ありがとうございました


わが町 諏訪 その5

2024年05月07日 | レモン色の町

懐かしい音楽をドーゾ  ビリーボーンは大好きでした

コーヒーブレイクのBGMにぴったり! 懐かしい!ビリー・ヴォーン楽団 ベスト7曲 【アナログ】 (youtube.com)

前回紹介の映画「40人の女盗賊」のスチール写真 エロい!当時としては破格のエロさです

昭和32年はホッピングが大流行でした 手触りの記憶が残っています

5~6百円したと思います 当時としては高かったでしょう しすぎると胃下垂を起こすといわれ 翌年流行ったフラフープは腸ねん転を起こすといわれました 限度というものを 知らなかったのか 他に することがなかったのか

当店の店内を拡大してみました なんでもありの感はしますが 同じ商品はいくつもなかったようです 上から灯篭が下がってます 右に壇盛(訂正:段盛り)がみえます 親父の性格で「こんなもん いつになったら 売れるんや」と思わせるような多くの種類の仏具を並べていたようです 「仏具の専門店!」の心意気だったのでしょうか?

丸かった笹飾りは スズメに成長しています

港祭りです 四日市商店連合会の山車 織姫と彦星の牽牛淑女?が南からやってきました

当店隣のワタナベ化粧品店さんは みその化粧品店さんに変わっています

 


わが町 諏訪 その4

2024年05月06日 | レモン色の町

懐かしい曲を ドーゾ

モスクワの夜はふけて/アル・カイオラ楽団 - YouTube

ザ・スプートニクス4曲。「霧のカレリア」「モスクワの灯」「夢見るギター」「空の終列車」 (youtube.com)

当店である 小さな上置きの仏壇が1本 ケースの上にある 1本売れると名古屋へ近鉄電車で買い出しに行く 2本背負って帰る 奥には塗り仏壇の名古屋壇が並んでいる ケース内には仏像がひとつまた一つ 稲荷の鳥居が立つ 近所のよっちゃんが父親の金属製のタバコケースを首からぶら下げて遊びに来る このウインドゥケースに口を当てるので よだれのあとがついていた 毛材は風にふかしておく必要があったので店頭 右に下がる 陶器は豊富にあったようだ 和洋ローソク 高級線香各種 毎日香の全盛期 アーケードの柱は見受けられないので 昭和32年以前だ

お正月2日 親戚の方が諏訪へ遊びに来る 左隣に座って日向ぼっこをするのは向かいに建っていた高島易断の若松さん おそるおそる遊びに行く 数年後 店舗が道路の上だったので 立ち退きを命じられた 我が家の横には映画の看板がずらりと並んでいる 右から東映映画「雄呂血の秘宝」これは前編と後編になっていて おそらく年末とお正月映画として上映されたのか?東千代之介と千原しのぶの顔がみえる その横は洋画「40人の女盗賊」

原題は「シンドバットの息子」とある お色気満載のお正月映画だ その左は洋画「六つの橋を渡る男」これら作品の封切り日から推測すると 昭和31年のお正月ということになるか

諏訪神社の賑わい 向こうに熊澤図書館が建つ

諏訪公園はどんな様子か?熊澤図書館の屋上から 南東方向を撮る 右に見世物小屋がたつ ろくろく首かストリプか 手前の図書館前は広くあいているが 秋のまつりにはここへサーカスが来た

香具師 玩具を売るか?望遠鏡がおかれている「すこし 負けて」子供を負ぶったおばさんが 熱い視線を送る

スマートボールは大人気だ 凹みに球が入ると じっと見ていたおばさんが上からあたり玉を流す むこうに「食品・・・」の店が望めるところから このスマートボールは図書館を背に南向きに出店していたと思う


わが町 諏訪 その3

2024年05月05日 | レモン色の町

これも昔 流行した古い曲「小さな花」ビリーボーンです

(1) 小さな花(ビリー・ヴォーン) - YouTube

昭和32年8月 夏祭りの飾りで賑やかになった当店を 斜め前の伊藤カーテンさんの2階を借りて撮影しています 店頭を向かって左から神具 真ん中に仏具 右に仏器と茶湯器が並べられています お盆の季節なので岐阜提灯が二つ下がってますね アーケードができたので 大きな看板で塞いでます 通りの向こうは櫛庄さんでした 化粧品屋さんで 親戚の女の子が来ていた時は はじめての絵の具を使ってお絵描きを教えてもらいました

店内でお袋が自転車で来たお客さんの接待です 向かいのかなやさん店内の様子が分かります

店頭から諏訪神社方向に撮られています 右がかなや洋品店さん 奥ではタオルを織る機械がガシャンガシャンと音をたてていました 南の嶋口屋さんでもアイスキャンデーを作る機械がタンタンタンという音を鳴らして売られていました

1軒於いて南には むらさき屋さんがありました 奥ではおじさんが ガラスの皿に時計の部品を漬けて腕時計の分解掃除をしていました それを飽きずにいつまでも眺めていました その隣が関屋さんです

地図では タキヤさんの場所に一時 みなと饅頭 のお店が出来たことがあります 茂屋の・・とあります 初めて知りました 新式の回転焼き機が店頭に導入され大判焼き?がつぎつぎと出来上がっていく様子をいつまでも眺めていました 丸い鉄板が1回転する間に 溶いた小麦粉が凹みに流され 餡が入り また小麦粉が流されます 珍しがられたのは一時だったのでしょうか?1~2年でタキヤ洋装店になりました

この奥の狭い場所に 恐ろしい渥美歯科さんが開業していました 痛かったことと 泣き叫んだ以外は記憶にありません  つづく

 

 

 


わが町 諏訪 その2

2024年05月04日 | レモン色の町

さて、日活映画「白夜の妖女」をスマホで検索しようとしていたが せっせとラインをしている自分に気が付いた ギャッ 七十五歳!

ところで「ワシントン広場の世は更けて」という曲をご存じあるか?私にとりましては懐かしいなつかしい音楽でゴザイマス。(クリックして楽しんでください)昭和38年の曲です

ワシントン広場の夜はふけて/ヴィレッジ・ストンパーズ (youtube.com)

話しは戻って『白夜の妖女』は、昭和32年8月13日公開の日活スコープ、総天然色作品です。

原作は泉鏡花の「高野聖」。信濃の山中に迷った旅僧(葉山良二)がたどり着いた人家には、妖艶な美女と知的障害のある小男が二人で住んで居た。僧は一夜の宿を乞うと、その夜、女は僧を岩風呂に案内し、自分も全裸になって僧の背中を流すのだった。この、月岡夢路の美しいこと・・・。

ということで、我が家の写真は昭和32年の夏休み、ということになります。この頃から商店街ではまつり飾りがつくられました。大きなくす玉や笹飾りがアーケード内に下がります。

夏休みに入ると、ちり紙が各店舗に配られました。それを7~8枚ずつ細く折り、真ん中を針金でくくって花のように広げます。それを竹籠に括り付け、色を吹き付けるのです。毎夜、みんなが通りでおしゃべりしながらの作業でした。この花飾りは、翌年からミッキーマウスなどの変形に進化します。

昭和20年代の諏訪前 1番街交差点から北を望む 踏切があるのが遮断機で分かる

それまでは店頭のウィンドウに飾られた“つくりもの”が、道路の真ん中に吊り下げられるようになった。これは、アーケードができたおかげです。昭和32年完成、四日市でも早かった方だと思います?   つづく

三番街側から南方向に見る すごい人に驚かされる 右にツルヤさん 左に太陽堂

同じ方向から見た 夜の諏訪前 アーケードはまだない 昭和30年前後か?家路を急ぐ自転車が通る。


わが町 諏訪 その1

2024年05月03日 | レモン色の町

“昭和30年代の諏訪のまち”の第2回目です。前回の辻写真屋さんから諏訪劇場周辺を歩いてみました。ご覧ください。(下の文字をクリック願います)

「写真で見る昭和30年代の四日市/四日市を掘り起こし/第2回」 (youtube.com)

昭和23年7月、新田町に私は生まれた。新田町は四日市宿でなく 浜田村地域で、お爺さんは、諏訪神社の敷地内に店を設けた。明治18年の頃である。当時は新参者の小さな店で、商工名鑑などには一切登場しない。その後空襲などにあって苦労は尽きなかったようだ。戦争が終わって生まれた私は団塊の世代第二弾で、戦後復興は子供の頃の成長とともに進められた。

当店が建つ東海道沿いのスワマエ通りは、四日市の玄関にあたる諏訪駅と当時一等地であった諏訪新道を結ぶ中間地点にあたり、多くの人が行き来していた。

夏祭りの飾りで賑わう諏訪前通り

わたしの家は、店に併設された仕事場と住居の二つに分かれていた。この住居は私が生まれるというので建てられたと聞いている。間には諏訪神社から流れてくる下水が通っていて阿瀬知川へと合流していた。

店の南 子猫を抱く私

その下水はコンクリート板で蓋がしてあり、上にトイレやふろ場がつくってあった。夜、店と住居の間を渡るのが怖くて、走り抜けたものである。

店と住居の間で子猫と遊ぶ私

これらの写真は、昭和32年に撮られた。なぜ分かるかというと、住居の2階から物干しに出る窓に立つ写真の下には、当時上映中の日活映画『白夜の妖女』の看板が立っているからである。  つづく