花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

一枚の写真シーズン2 ④ 回答

2025年01月14日 | レモン色の町

いろいろと考えていただきました ありがとうございます

霞が浦海水浴場の入口門ではないでしょうか?とか・・・

四日市今昔写真帖より

昭和27年中央通りで開催された講和記念博覧会の会場には こんな建物はなかった?とか・・・

推理していただきましたが 最終判断の通り 昭和11年 千歳町の埋立地で開かれた 国産振興大博覧会会場の写真でした

満州館です

国防館とか

多くの方の印象に残った大仏さんが並び

この時代の世相をよく 反映しておりました

四日市湊物語⑪国産振興大博覧会 - 花の四日市スワマエ商店街

千歳橋と国産振興博覧会 - 花の四日市スワマエ商店街

四日市で空前絶後! - 花の四日市スワマエ商店街

昭和11年の90年前の出来事ですから 子どものころ見に行った記憶がある方も 本当に少なくなってしまいました 商工会議所の小菅さんに お話をうかがった記憶があります

 

 

 

 

 

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一枚の写真シーズン2 ④ 問題

2025年01月13日 | レモン色の町

こりゃ どうじゃ 異国情緒あふれるこの建物は これで四日市です 建物の前に立つ9人の美女 なんじゃろか? あえて建物の看板を消しました これで分からんやろ! 

ワカランやろが! ホエン?ホワイ?ホワット?

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一枚の写真シーズン2 ③ 答

2025年01月12日 | レモン色の町

正解は「第二尋常高等小学校」で、後の浜田小学校です。

四日市は“四日市宿”と南隣の“浜田村”から成り立っていました。四日市宿に第一尋常高等学校ができると、浜田村にも第二尋常高等学校が出来たのです。新田町も浜田村でしたので、私も浜田小学校へ通ったわけです。

ぶらり四日市 その二十二 浜田小学校校歌 - 花の四日市スワマエ商店街

浜田小学校 空撮! - 花の四日市スワマエ商店街

玉井兄弟と浜田小学校 - 花の四日市スワマエ商店街

下総人様からコメントを頂戴して 次の写真を思い出しました 浜田小学校の南東の位置に出来ました。

昭和40年 四日市今昔写真帖 より

昭和30年代 十七軒町に突然温泉が出たという特報が入りました そこの完成したお城が 四日市ヘルスセンター です 親父に連れてもらって出かけたり 商店街の宴会に利用したことがありました 天守閣には太鼓があって 叩かせていただきました 真ん中の少し大きなお風呂の他に 周りには小さいいろいろなお風呂がありました 演芸があったり 飲んだり食ったりできて 長島温泉のミニ版みたいだったデス 

平成16年 居酒屋おいしんぼうのところにありました

平成6年のマップから 十七軒町14番の角 おいしんぼうの場所にありました。平成になって生桑町へと移転され「ユラックス」から「湯守座」となっております。

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一枚の写真シーズン2 ③ 問

2025年01月11日 | レモン色の町

明治5年(1872年)8月 泗水義塾では、国の学制頒布(がくせいはんぷ)に合わせて江戸末期から四日市各所にあった寺子屋や私塾を統合、上新町の光運寺内に県下初の小学校を造ります。その後、南新地から明治18年7月本陣跡に新築移転、明治30年の市制施行で四日市市四日市尋常小学校になりました。後の中部西小学校である第一尋常高等小学校のことです。

さて③の問題です。よくある学校の遠景ですが・・・どこでしょうか?

二日前の「男の囲炉裏端」の新年会で 戦前にあった牡蠣船は 現在の「かき広」さんの先々代の方がやってみえたということをお聞きしました。牡蠣船とかき広さんが繋がりました。昔の船内の様子をお聞きする時が来るかもしれません。

2024年12月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街  牡蠣船の事

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一枚の写真シーズン2 ② 答

2025年01月10日 | レモン色の町

増田武夫氏は、昭和三年昭和天皇御大典当時の店の並びを、一軒ずつ聞き取り調査をされ、東海街道と浜往還の冊子を作られました。以前、店へもみえて親父と話していたのを覚えています。下の図は北町の店の並びで、四日市宿の賑わいが偲ばれます。札の辻近くに御菓子司の信濃屋さんが店を構えています。「問」の写真は、この位置から右(北側)方向に撮影されたものでした。

四日市市北町。北町は現在でも地名が残っています。三滝川を超えた東海道の四日市宿の玄関口であり、多くの商店が軒を連ね、活気がありました。また、南町、高砂町と並び花町としても知られていました。札の辻の北町側北西角が第一本陣跡でした。(四日市今昔写真帳 より)

諏訪新道から西方向 遠くに諏訪神社が見える

記録から「学生頒布50年記念県市連合文化展覧会」が諏訪公園で開催されたとあります。この事業を祝って札ノ辻を中心とした東海道と浜往還、そして明治43年からの四大事業で完成した諏訪新道に国旗と紅白の布で巻いたポールが立てられました。

大正期 神社本殿裏の池 右に旧図書館が見える 水谷宜夫氏所有

大正5年には諏訪神社裏の庭園であった“保光園”が“諏訪公園”に改称されて市民に開放されています。ここに木造の図書館が建てられたのは大正5年6月の事、おそらく、完成したばかりの図書館を中心に記念事業が展開されたと想像できます。学制発足について少し調べてみます。

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一枚の写真 シーズン2 ② 問

2025年01月08日 | レモン色の町

これはムツカシイ 季節は夏 服装から1世紀は昔の写真か? ヒントは右の「御菓子司 信濃屋」の店舗 そんなこと知っても どこか分かるはずはない 国旗が挙がって 通りが賑やかだ 何があるのか?難問でアリマス 今回はアキラメテくださいね アケチクン  

<特別ヒント>

大正11年の竪町 - 花の四日市スワマエ商店街

 

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一枚の写真 シーズン2 ① 答

2025年01月07日 | レモン色の町

写真は、昭和9年の納屋運河の様子です。

右が開栄橋で正面の建物は逓信省用地に建てられた郵便局です。明治4年、郵便創業の布告が出され、東海道各宿駅の伝馬所に郵便取扱所が併設されました。四日市では宿場内の南町に設置され、明治16年になると浜町へ、明治21年には開栄橋西詰南角(写真の位置)に新築・移転しています。当時の一等地を求めて移動しています。

明治44年

明治36年の開栄橋風景 橋を西へ渡った左に建つ郵便局

明治36年になると電話局は、四日市郵便局に合併されて電話分室となりました。

当時 諏訪新道の道幅は狭かった(大正14年)

大正14年には、諏訪新道に四日市郵便局電話分室が新築移転します。(水谷宜夫氏 提供)

大正15年

下の写真は、昭和10年の沖ノ島町の四日市郵便局の写真です。(四日市の100年より)

昭和18年・沖ノ島町郵便局前でのラジオ体操の様子(四日市の100年より)

戦争が激しくなる頃です

昭和20年には四日市大空襲で郵便局も被災します。

昭和29年、戦後、四日市電報電話局舎完成。

昭和31年・名古屋~四日市間に直通電話が開通しました。

現在、位置こそ変わりませんが 郵便局と電報電話局は隣接して二つの建物になっております。

 

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一枚の写真 シーズン2 ① 問

2025年01月06日 | レモン色の町

第1問は少しやさしい問題です。対岸中央の建物がヒントです。

場所が分かる方は いつ頃か?お分かりいただけますか?「目で見る四日市の100年」より

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昭和の時代へタイムスリップ

2025年01月05日 | レモン色の町

1月3日 孫が川崎から来るので、親族一同みんなで出かけようということになった。で、「集合場所の希望があるか?」と孫に尋ねると、“養老ランド”をご所望だった。

少し雲が多い。先に到着したのか、孫はまだ来ていないので先に入園した。

1名様600円 安い!が、園内に入って思った「これは小さい子がいないと 耐えられない!」

待ちくたびれたので、入り口横のレストラン“ひまわり”へ入る。メニューがうれしい。カレーライスとラーメン、お子様ランチとフライ定食。あと、クリームソーダと瓶ビール。懐かしさの定番である。これに丼物が並ぶと昭和時代の食堂(四日市諏訪劇場横の万惣)だ。

入口にこんなポップが貼ってあった。

遠くに見える厨房を覗くと、写真の伯父さんが忙しそうに駆けずり回っていた。フライを揚げる、カレーを皿に盛る、火加減をする、午後のイベント“餅つき”の準備をする。そういえば午前11時ころは、比較的閑散としていたのが、お昼を過ぎると結構な人出になっていた。食堂内も賑わっている。外人さんもいた。

乗り物は、すべて待ち時間ゼロ。さすがにお正月だけあって各乗り物には係員さんが配置されていた。少し止まってはまた動き出すが、お客様は1人か1組。でも気持ちよく稼働してくれる。電気代は大丈夫かといらぬお世話を思う。係員は、女性かお爺さんで構成されていて、忙しく動いてみえるのを眺めているとホノボノとしてくる。

昔の遊園地風景がここではまだ存在している。小さい子供はみんな大満足の様子だった。(下の文字をクリックしてね)

係員すら見つからない。あまりにもガラガラすぎる遊園地【養老ランド】がヤバすぎた!

「昭和の消えた仕事図鑑」から、こんな言葉を思い出した。

マニュアルにとらわれた無機質な人と人との関係ではなく、仕事を通してぬくもりや感情を交換する関係をベースに、昭和の仕事は成り立っていた。それは仕事にかかわる人もお客も孤独ではなかったことを意味する。今より不便で、効率は悪かったが、そこには人がいた。人を介して仕事が成立していた。だから人を大事にした。人を大事にする精神は、同じようにモノも大事にした。昭和を生きた人達はおしなべて「勿体ない」という言葉を使った。品物を大事に使い、故障すれば修理して使い、簡単に新しいものと替えることをしなった。そこに昭和を支える精神があったといえるだろう。 原書房刊

寂れつつある商店街の生き残る知恵が、ここにありそうな気がした。

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鵜森神社のお正月風景

2025年01月04日 | レモン色の町

1日の夜 ライトアップされた鵜の森神社の風景です

本殿へ進みます

2日朝の本殿

遥拝の碑です お伊勢さんに向かって二拝ニ拍手一拝 チーン

水谷百碩氏の「鵜之森春景」・鵜の森神社は浜田城跡にあり、四日市の発展の基礎を築いた浜田一族を祀る神社です。神社の森の鬱蒼としてなかに桜の花が咲き、周囲を黄色い菜の花と紫路のレンゲが埋め尽くしています、今では考えられないような穏やかな光景がここには描かれています。四日市博物館刊:知られざる四日市の面影 より

出口對石氏の「鵜森の晩秋」・鬱蒼と茂る木々の中にある鵜森神社と、その周辺の畑と田が入り混じった風景を描いています。田で収穫された稲の藁が積まれ、畑では農作業をする人が描かれています。季節が秋であることから、百石の絵に比べるとさびしい風景にも見えます。

新春 巻末特別付録:稲盛和夫著“生き方”より

「プラス方向」の考え方とは「よい心」を持てということ・・・

それは、つねに前向きで建設的であること。感謝の心を持ち、みんなと一緒に歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心を持っていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲ではないことなどです。

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