横浜でも発見された。この広がりがどこまで行くのだろうか。
以前戦中の情報統制と戦後の情報ビックバン状態について書いたと思うが、少し改めて書く。
戦中の情報統制だが、実際はかなり巧妙なものだった。昭和に入ってから出版業界はかなり儲かるようになっていた。識字率の向上とエンタメの少なさがあった訳だが、日中戦争が始まる頃からは雑誌等がかなり売れるようになっていた。だが戦争が激しくなると物資が足りなくなり統制経済になる。軍が紙を押さえてしまったのだ。すると当然売れるのに紙が無いから雑誌は作れないし本も作れない。そこで出版社は最初っから検閲で通るように、更には軍の受けを狙った記事を書くようになる。紙欲しさに、ペンをねじ曲げた出版社がとても多かった。
まあここで有名なのは鈴木倉三だが、彼になるとかなり巧妙。検閲でダメとか言うのではなくて論破しちゃう人。おまけに軍が記事を企画する、あの著名作家に満州見聞録を書かせるとか戦争取材させるとか、軍丸丸お抱えで大名旅行させて書かせて、出版社は取材費タダのオイシイ話しだったりする。あと娯楽記事を重要視していたようだ。世知辛い世の中だからと、ガス抜きを計った。
この情報統制だが、さすがに一部のエリート達は解っていた。だが一般大衆は全然解らなかった。徹底していたからだ。さすがに終戦前にはウスウスわかっていただろうが、憶測程度だった。
それが戦後一気に溢れかえる。しかも衝撃的な話ししか出てこない。南京事件もそうだが、本土の日本人が知らない事はいっぱいあった。いや上海の日本人でも知らないひとはいただろう。
ナチスのユダヤ人迫害はさすがに聞こえて来ていただろう。だがアウシュビッツまでは大衆は知らなかったと思う。
しかし生活に追われる当時の日本人は、当時の情報を精査する余裕は無かった。生活が一番で、多少の娯楽、そして民主主義と言う新しい体制への期待と疑念、ひたすらにこなしてゆくしかなかった時代がある。
戦争ではないと言う事だけで、もう十分だった。ただ情報だけがカオスのように残ってしまった。
そのカオスは今のアニメやら何やら見れば、まあいっぱいあります。ガンダムなんてどうするのよ。
アウシュビッツの悪と言うものがどういったものなのか、真に理解できた日本人は少ないのではないのかと思う。例えば小さいが、死刑制度はどうなのかと言う問題がある。人の自由を奪い更に死を与えると言う権限は人にあるのかどうか。ホロコーストはそれを国家として、機械的に事務的に徹底して行った。しかもその罪状は、ユダヤ人だったり共産主義社だったり同性愛者だったりロマだったり、そして精神異常者や先天性疾患を持つものだったりした。
日本人にはそこがよくわからないと思う。自由が無くなる事、それはいつもの事で社会から常に規制されている。そのガチガチの中での自由は満喫していても、真の自由は誰もが知らない。
さて本論に戻ろう。「アンネの日記」は日本人にとってどのように読まれているものなのだろうか。問題はここなのだ。「かわいそうな少女の日記」として読まれていたのではないのか。もちろんホロコーストの凄まじさもあるが、そこを外して読まれていた事が多かったのではないのだろうか。
実際ホロコーストで死んだ事を忘れてしまえば、あの淡々とした緊迫感のある、それでいてほのぼのとした日記はドラマティックではない。
もちろん感動した人もいるだろうし、戦争を憎む人もいるだろう。だが違和感を持つ人は必ずいる。
アンネはそれでも両親から愛を受けているのだ。
さて最終段階になった。3つ気になっている事があります。
まずはサイモン・ヴィーゼンタールセンターが動いたと言う事です。ホロコーストに関する間違った報道や記述に関しては徹底抗戦する団体、いやほとんど勝てない団体です。
マルコポーロ事件も、この団体が動いただけで、一気に廃刊になりました。(当然ですね)でもこの事件は後味が悪いものになりました。それは日本国憲法の表現の自由の規定です。全く野放図な規定で、戦中の情報統制の反省から全部自由というのが建前です。まあそこから先には日本人特有の空気を読んだり(今この時点で浅田真央批判が無いのはどういったこと?する意味も無いのだが)、忖度するものがあります。しかし原則は原則です。名誉毀損で訴えたとしても、その記事内容を自己立証しなければいけないほど訴える側に厳しいものでした。最近は少しは緩和されています。
ただ元々日本の言論状況はカオスだった。その中で出てしまった間違いなのだが、表現の自由が認められている国で、それでいいのか?と言う議論もありました。間違っていたら間違っている旨を次ぎの雑誌に大きく出す事も可能ですし、サイモン・ヴィーゼンタールセンターからの反論を次に掲載する事も可能でした。
でも文芸春秋社は廃刊を決めた訳です。そこで弱腰だとか当然だとか言う議論も起きる訳で、逆にユダヤ人に対する不信感を招いた所があります。
今回もそうならなければいいのかと思います。マルコポーロ事件は逆に日本人にとって、ユダヤ人に対する偏見を強めただけだったのかもしれません。特にマルコポーロへの広告を出す企業に圧力をかけた事が、大きかったです。
ユダヤ資本主義、そう言った陰謀を感じさせてしまったというのはあります。
二番目に、中国や韓国にこのネタが使われるんだろうな~ということです。中国は以前日本をナチスと比較した事があると思うのですが(欧米人から見ると日本のあの狂信とナチスはどうも変わらないようだ)、安倍相違がダボス会議で第一次世界大戦の状況と日中を比較したような発言とか、NHKの経営委員の問題とか、何いってんだと言う発言や、安倍総理側近の発言等でどうすりゃいいのよと言う所があります。
基本的に、これらの発言と日記の破壊で、日本は欧米と価値観が一致していないと見なされるでしょう。それらがどうなるのかは解りません。ただ救われるのは、昔っからそう言った事をする狂人がいるのだと納得させられればいいのですが。
三番目ですが、サイモン・ヴィーゼンタールセンターはマルコポーロ事件で日本の出版状況やら言論状況を把握していると思います。その上で今回の調査でカオスを見て強行に出てゆくのか、どうなのかです。
ネット上ではトンデモ発言がいっぱいあります。それをサイモン・ヴィーゼンタールセンターは全部見るのか?です。警察も動いていますが、確実に犯人は捕まらないでしょう。理由は、実際ネトウヨ程度かどうかも解らないのです。紙には指紋が残りますが、そこから先は誰かを特定できない状態になります。図書館の本ですから不特定多数過ぎます。どうするのか、もしかすると冤罪を生み出す可能性もあります。
そしてこの破壊がブームになる可能性すらあります。そう報道による自殺の急増、それと同じです。そこが心配です。
サイモン・ヴィーゼンタールセンターはマルコポーロ事件の時に、結果曖昧な幕引きをしました。今回は基本的に器物破損罪です。本に込められた心までは賠償できない法体系にあります。
そこで「アウシュビッツの嘘」(ドイツ法)法案を日本に持ち込むかどうかになりますが、中国・韓国との懸案がある日本にこれを要求したら、まあどうなるのか。無理でしょう。
私の末尾はいつも最後ですがというパターンばかりですが、エリ・ヴィーゼルの「夜明け」引用します。
ぼくはその一片の夜を見つめた。すると、恐怖がぼくの喉もとを押さえつけていた。ぼろぼろの影のはしきれを綴って出来た、その黒い一片は、一つの顔を持っていた。怖いわけがわかった。その顔、それはぼくの顔だった。
以前戦中の情報統制と戦後の情報ビックバン状態について書いたと思うが、少し改めて書く。
戦中の情報統制だが、実際はかなり巧妙なものだった。昭和に入ってから出版業界はかなり儲かるようになっていた。識字率の向上とエンタメの少なさがあった訳だが、日中戦争が始まる頃からは雑誌等がかなり売れるようになっていた。だが戦争が激しくなると物資が足りなくなり統制経済になる。軍が紙を押さえてしまったのだ。すると当然売れるのに紙が無いから雑誌は作れないし本も作れない。そこで出版社は最初っから検閲で通るように、更には軍の受けを狙った記事を書くようになる。紙欲しさに、ペンをねじ曲げた出版社がとても多かった。
まあここで有名なのは鈴木倉三だが、彼になるとかなり巧妙。検閲でダメとか言うのではなくて論破しちゃう人。おまけに軍が記事を企画する、あの著名作家に満州見聞録を書かせるとか戦争取材させるとか、軍丸丸お抱えで大名旅行させて書かせて、出版社は取材費タダのオイシイ話しだったりする。あと娯楽記事を重要視していたようだ。世知辛い世の中だからと、ガス抜きを計った。
この情報統制だが、さすがに一部のエリート達は解っていた。だが一般大衆は全然解らなかった。徹底していたからだ。さすがに終戦前にはウスウスわかっていただろうが、憶測程度だった。
それが戦後一気に溢れかえる。しかも衝撃的な話ししか出てこない。南京事件もそうだが、本土の日本人が知らない事はいっぱいあった。いや上海の日本人でも知らないひとはいただろう。
ナチスのユダヤ人迫害はさすがに聞こえて来ていただろう。だがアウシュビッツまでは大衆は知らなかったと思う。
しかし生活に追われる当時の日本人は、当時の情報を精査する余裕は無かった。生活が一番で、多少の娯楽、そして民主主義と言う新しい体制への期待と疑念、ひたすらにこなしてゆくしかなかった時代がある。
戦争ではないと言う事だけで、もう十分だった。ただ情報だけがカオスのように残ってしまった。
そのカオスは今のアニメやら何やら見れば、まあいっぱいあります。ガンダムなんてどうするのよ。
アウシュビッツの悪と言うものがどういったものなのか、真に理解できた日本人は少ないのではないのかと思う。例えば小さいが、死刑制度はどうなのかと言う問題がある。人の自由を奪い更に死を与えると言う権限は人にあるのかどうか。ホロコーストはそれを国家として、機械的に事務的に徹底して行った。しかもその罪状は、ユダヤ人だったり共産主義社だったり同性愛者だったりロマだったり、そして精神異常者や先天性疾患を持つものだったりした。
日本人にはそこがよくわからないと思う。自由が無くなる事、それはいつもの事で社会から常に規制されている。そのガチガチの中での自由は満喫していても、真の自由は誰もが知らない。
さて本論に戻ろう。「アンネの日記」は日本人にとってどのように読まれているものなのだろうか。問題はここなのだ。「かわいそうな少女の日記」として読まれていたのではないのか。もちろんホロコーストの凄まじさもあるが、そこを外して読まれていた事が多かったのではないのだろうか。
実際ホロコーストで死んだ事を忘れてしまえば、あの淡々とした緊迫感のある、それでいてほのぼのとした日記はドラマティックではない。
もちろん感動した人もいるだろうし、戦争を憎む人もいるだろう。だが違和感を持つ人は必ずいる。
アンネはそれでも両親から愛を受けているのだ。
さて最終段階になった。3つ気になっている事があります。
まずはサイモン・ヴィーゼンタールセンターが動いたと言う事です。ホロコーストに関する間違った報道や記述に関しては徹底抗戦する団体、いやほとんど勝てない団体です。
マルコポーロ事件も、この団体が動いただけで、一気に廃刊になりました。(当然ですね)でもこの事件は後味が悪いものになりました。それは日本国憲法の表現の自由の規定です。全く野放図な規定で、戦中の情報統制の反省から全部自由というのが建前です。まあそこから先には日本人特有の空気を読んだり(今この時点で浅田真央批判が無いのはどういったこと?する意味も無いのだが)、忖度するものがあります。しかし原則は原則です。名誉毀損で訴えたとしても、その記事内容を自己立証しなければいけないほど訴える側に厳しいものでした。最近は少しは緩和されています。
ただ元々日本の言論状況はカオスだった。その中で出てしまった間違いなのだが、表現の自由が認められている国で、それでいいのか?と言う議論もありました。間違っていたら間違っている旨を次ぎの雑誌に大きく出す事も可能ですし、サイモン・ヴィーゼンタールセンターからの反論を次に掲載する事も可能でした。
でも文芸春秋社は廃刊を決めた訳です。そこで弱腰だとか当然だとか言う議論も起きる訳で、逆にユダヤ人に対する不信感を招いた所があります。
今回もそうならなければいいのかと思います。マルコポーロ事件は逆に日本人にとって、ユダヤ人に対する偏見を強めただけだったのかもしれません。特にマルコポーロへの広告を出す企業に圧力をかけた事が、大きかったです。
ユダヤ資本主義、そう言った陰謀を感じさせてしまったというのはあります。
二番目に、中国や韓国にこのネタが使われるんだろうな~ということです。中国は以前日本をナチスと比較した事があると思うのですが(欧米人から見ると日本のあの狂信とナチスはどうも変わらないようだ)、安倍相違がダボス会議で第一次世界大戦の状況と日中を比較したような発言とか、NHKの経営委員の問題とか、何いってんだと言う発言や、安倍総理側近の発言等でどうすりゃいいのよと言う所があります。
基本的に、これらの発言と日記の破壊で、日本は欧米と価値観が一致していないと見なされるでしょう。それらがどうなるのかは解りません。ただ救われるのは、昔っからそう言った事をする狂人がいるのだと納得させられればいいのですが。
三番目ですが、サイモン・ヴィーゼンタールセンターはマルコポーロ事件で日本の出版状況やら言論状況を把握していると思います。その上で今回の調査でカオスを見て強行に出てゆくのか、どうなのかです。
ネット上ではトンデモ発言がいっぱいあります。それをサイモン・ヴィーゼンタールセンターは全部見るのか?です。警察も動いていますが、確実に犯人は捕まらないでしょう。理由は、実際ネトウヨ程度かどうかも解らないのです。紙には指紋が残りますが、そこから先は誰かを特定できない状態になります。図書館の本ですから不特定多数過ぎます。どうするのか、もしかすると冤罪を生み出す可能性もあります。
そしてこの破壊がブームになる可能性すらあります。そう報道による自殺の急増、それと同じです。そこが心配です。
サイモン・ヴィーゼンタールセンターはマルコポーロ事件の時に、結果曖昧な幕引きをしました。今回は基本的に器物破損罪です。本に込められた心までは賠償できない法体系にあります。
そこで「アウシュビッツの嘘」(ドイツ法)法案を日本に持ち込むかどうかになりますが、中国・韓国との懸案がある日本にこれを要求したら、まあどうなるのか。無理でしょう。
私の末尾はいつも最後ですがというパターンばかりですが、エリ・ヴィーゼルの「夜明け」引用します。
ぼくはその一片の夜を見つめた。すると、恐怖がぼくの喉もとを押さえつけていた。ぼろぼろの影のはしきれを綴って出来た、その黒い一片は、一つの顔を持っていた。怖いわけがわかった。その顔、それはぼくの顔だった。