ちょぼちょぼ仕事はしているのだが、明日から本格的に忙しくなる。まあ今のうちに泳いでおこう。
畳屋の前でわらを干しています。今の時代に藁芯の畳と言えば高級品ですが、その修理でしょうか。
ネコヤナギの花が咲いています。
今日は黄砂が少し振っているのですが、PM2・5は普通。PM2・5は結構謎です。
この前のカラスの巣です。かなり大きくなりました。電線が目立ちますが、どこからとって来たのでしょうか。銅の値段もかなり高くなって、今ではそんなに簡単に捨てていないはずなのですが。
アイスアリーナの上で、何か作業しています。天窓のコーキング処理のようです。この作業をしていると言う事は、雨漏りがあったのでしょうか。多分天窓を交換した方がいいと思うのですが。
震災でこういった大丈夫そうな建物も、けっこう窓とか歪んだままになっている事があります。それで雨漏りとなるのですが、なかなか根本的な修理は出来ないものです。
今日は早池峰山も見えています。
カワラヒワがいます。黄色がきれいです。
盛岡では岩手山と早池峰山と姫神山が三つとも見える事はないと言う伝承があります。まあそんな事はありません。
マンサクの花が咲いています。早春です。
さてこのところ一日おきに泳いでおります。理由は、やっぱり80日泳いでいなかったので、ちょっと筋力やフォームが狂って来ています。こうゆう時はまとめてドンとやって置いて、修正をかけておくとあとあと楽です。とは言っても若い時と違って、毎日とかだと疲労が蓄積するばかりです。逆にフォームが更に狂う原因になります。なので一日おきと言うサイクルでした。本当はそれでも疲労がとれないので二日おきがベストなのですが、短期集中と言う事で。あとはスケジュール的に1週間に1回程度でしょうか。そうすると移動時間や着替えを含めて1時間半でどれだけできるのかと言うのが目標になります。とはいえやりすぎると腰痛対策にも何にもなりません。
次のフィールド、ガマガエルの観察です。2012年は4月14日頃の発生でした。13年は8日頃です。以前の記事と少し違うのは、観察開始と実際とにずれがあるのではないかと考えているからです。今年の発生予想はまだ大雑把なものしか出していませんが、4月4日から8日から最大の警戒をかけていれば大丈夫な気がします。なにしろ昨年大雑把に作った、指標なので確証が持てません。3月1日からの平均気温の積算が120度、3月20日からの平均気温の積算が100度の指標ですから大雑把すぎます。
久しぶりに岩大の野良猫です。子供達が遊びたがっていますが、かなり迷惑そうです。少し元気が無いのが気になります。毛のつやも悪いです。
ここで蛙の鳴き声を聞いたように感じます。確証は持てないのですが、シュレーケルアオガアエル?では無いよな。いくら何でも早すぎる。とはいえ4日から起きる可能性もあるわけで、あり得ない話ではありません。
さてどうするのか。
そして高松の池に来ています。上にある浄水場近くから見ています。まだ白鳥は残っています。
黄砂と薄い雲のおかげで、夕日が鈍く光ります。
白鳥が飛び立ちました。
街バックの白鳥と言うのも、なかなかいいものです。ちなみに後ろに見えているのは岩手大学工学部です。
今日はカラスもそんなに飛んで来ません。白鳥もさっぱり飛んで来ません。
それにしてもカラスの存在感と言うものは。
雲の流れに、まだ冬の気配が残っていました。
カワウが通り過ぎました。
幻日がぼんやりとしています。
ウクライナはどうなるのでしょうか。そういえば北朝鮮がミサイルやらなんやら打ちまくっていたのだが、国際的にガン無視状態。簡単な偵察機は墜落するやら、何をしたいのでしょうか。
ニューズウイークが、寂しくなったのか?と書いていましたが、多分そうなのかと。アメリカと中国、そしてロシアと日本と韓国の鼻頭を引きずり回して来たのですからそれはそれで充実したものでしたでしょうが、今はそれがすべて裏目に出ているようです。
とはいえこの姿は、儒教の影響の強い国家にはよくある事です。もちろん日本はそこまで愚かではありません。でもそうなりがちなのは確かです。
そういえば道徳の教科書に二宮尊徳が復活するらしい。でもそれでは
二宮尊徳は何をした人なのかは多分誰も解りませんね。なぜでしょうか。これが修身の教科書の一番悪い所です。
5歳の時に災害に遭い田畑が流出、14歳で父が死去、16歳で母が死去、そう言った境遇で叔父の家に引き取られますが、元々勉学が好きだったようです。というかこの時点で村長級の家柄なのは間違いがありません。そして働きながら勉学に励み、なんと20歳で家を再興します。この辺が凄いですね。そうそう言論弾圧で有名な鈴木庫三も煮たような経歴ですよ。そう言った意味では、修身に鈴木庫三を取り上げるのもいいかもしれません。
で、何が一番凄いかと言うと日本で最初の、農業経営論と経済論と言う事になるようです。その辺読んだ事が無いので解らないのですが、20年ほど前にアジアでブームになっていると聞いた事があります。(曖昧な記憶と、憶測と推測の最低ですね)
江戸末期に近い所で出て来た人物ですが、元禄時代から始まった農業革命の流れにある人物だと考えています。彼が実践した家の再興は間違いなくそれの実践です。とはいえそれは彼の
報徳思想があるからだともいえますが、この思想は後付けのような気もします。実践家としての二宮尊徳があると思います。
ただ彼がなぜ偉大なのかは今ではよくわかりません。
江戸時代では農業の立て直しイコール藩財政の立て直しでした。国家基盤も農業だった時代でした。そして明治政府も基本はここでした。だから修身の教科書に載るような、誰でも解っている人物であったわけです。扱いは吉田松陰と同じレベルでしたが、むしろ実践家であって応用が可能な二宮尊徳の方が修身では重要視されたのでは無いのでしょうか。
といいながら私は二宮尊徳先生の著作を読んだ事が無い。実はイメージだけを語っているのです。そして道徳の教科書に載せようという人も、多分イメージでしか思っていないのです。その業績を伝えないで、努力した人というのは本質的にはおかしいと思います。
と考えていたら、もの凄いのがありました。ニューズウイークの冷泉彰彦さんのコラムです。
「道徳教材に「二宮金次郎」、何が問題なのか?」
これは虐待被害の話です。児童が虐待の被害を受けた場合は、何よりも信頼できる大人を探してSOSを出すことを教えなくてはなりません。ですが、この教材は、その反対に「忍従」を教えています。これ自体に違法性を感じます。
ハイ来ましたアメリカ理論、ですがこれは全く正しいのです。
ひとってどうしようもないよね、そう言った問題を一言で簡単に片付けていいのかどうなのかという問題があります。
原則は守ろうというのが今だと思います。子供だろうが大人だろうが、LGBTも人です。でも例えば日本には日本人がいると言うのは、原理的に正しいのでしょうか。日本国籍を持っている人は日本人ですが、それ以外の人は、人でないのでしょうか。
人って何?と思った時に、「日本人」とかぶせるとよくわからない事が起きます。
冷泉氏のこの言葉ですが、多分もの凄い反論が来ると思います。私の説明はどうしようもないと思いますが、少なくとも二宮尊徳や鈴木庫三の時代には戻ってはいけません。
人が人であるために人である必要も無くなりつつある時代の、人が人であるための必要条件と社会の問題はなにか?
これが今後の道徳かもしれません
カメラを下げると鳥が来る。野生動物でよくありがちななことです。
彼、帰っちゃった。オシイ。
断食しようかな。