今日は少し寒かった。ただ日が出ていたのが救いかな。
国公立大学前期試験だった。大学改革後の初めての試験だ。混乱がなければいいのだが。
国が大学を変えようと躍起になっている。もっと実学系とトップクラスの人材を育成するのに分けたいと考えているらしい。だがシカーシ、受験生の8割のニーズはモラトリアムなわけで、理想と現実のギャップは激しい。なぜそうなるのかといえば、今の高校生までは過保護すぎる。学生もそれを自覚してなんとかもがいているのだが、社会が逸脱を許さない。逸脱したいものは大学に進まなければいけないわけだ。なので専門とかもかなり大雑把だ。文系でアニメ・ライトノベルが好きだから日本文学とか(マジ多いっす)、理系で生物得意で猫が好きだから獣医とか(そしてマウスを殺すのに躊躇して、牛馬と格闘するハメに陥る)、とか実際悲喜こもごもだ。大学入ってしまったと思う人はとても多い。ただ最近は転部や転科が可能になっている。だから入ってから考えるというのも可能になっている。なのでモラトリアムでも大丈夫という状況でもある。
そしてなのだが、世の中大学には何も期待していないという現実がある。今現在では科学が進みすぎて理学部・工学部では修士号を持っていないと意味がない。で、それは実は30年前からそうなのだ。社会に出て即戦力で使えるというのはほんの一握りだ。だから逆にモラトリアムが必要になっている。社会人になるための準備期間としか言いようがない。だから体育会系出身が優遇されるというのは本当だ。体育会が一番実社会に近いとも言える。
体力だけだったら高卒で十分ではないのかと言われるだろう。ここに高校の問題が出てくる。高校って均一社会なのだ。大体入学時の学力で振り分けられている。この時点で均一なのだ。出来不出来とか経済的な格差はともかくとして、ある地域のある学力の子が集まっている。そして文科省の決めた内容と、センター試験に沿った授業が行われている。個性も評価対象にはなるが、一般的に認知されたもの以外は評価にならない。弁論大会で県一位とか、考古学オタクで地学部で活躍したとか、そういった方向になる。その中で競い合っていても、それが全国だったとしても、高校生の枠だけでしか過ぎない。そして保護された領域での評価だ。
大学だともう少し個性の評価が厳しくなる。ライバルは大人になる。スポーツでインターハイ出場して学校内で有名人でも、大学に行けばザラになる。そしてスポーツなんて顕著なのだが、高校の時はやっていないようで実は指導されている。家庭を巻き込んでだったりすればよく分からないものになる。やらされていて伸びていた、大体のところマトモな指導者がいればそれだけで伸びるのだ。ところが大学で一人暮らしとなると、脱落してゆく選手がいる。なぜおかしくなるのか、高校生の体のトレーニングメニューに固執するからだ。大人になった体のトレーニングメニューがあるわけで、それに気がついた子が伸びてゆく。大学には気がつく要素が用意されている。
高校の小さな枠から出てゆくことができれば、別に高校生の方がいいのだ。今の日本社会のとってはそちらの方がいいだろう。
大学4年間で何を学ぶかといえば、実は考え方だけだ。専門知識の習得となれば大学院まで行かないと無理だ。考え方だ。理系は合理性を徹底的に叩き込まれるし、文系はテキスト主義の理論性を叩き込まれるだろう。法学部がなぜ世の中のさばるのかといえば、その考え方の多様さとそれから理論を組み立てる能力と、それを使って弁論する能力を鍛えられるからだ。
そして日本というのは実は多様性がある。一つの地域から出たことがないが、多様な日本に触れるチャンスでもある。そこから独自の考え方を編み出すこともできるだろうし、逆に凹まされることもあるだろう。
モラトリアムでもいいと思う。でも考え方はつかんで欲しい。というか、大学に入ったものは大なり小なり掴んで卒業する。多分一番大きいのは、「なぜ」と言っても誰からも馬鹿にされないのは、大学だからだろう。もちろん優しくはない。ググレカスよりも酷いかもしれないが、「なぜ」だらけなのが大学だ。
答えのない世界が、答えのないモラトリアムを生んでいるのは確かだが、疑問を躊躇なく言えるというのは、正しい社会でもある。
この前ニューズウイークの記事でDRUM TAOを知った。このところあった、和太鼓集団の芸能パフォーマンスについての疑問が氷解した。
突き詰めるのはいいんだが、結果違う方向に行ってしまっている。
和太鼓の芸能集団といえば「鬼太鼓座」が有名だが、当時はまだお祭り太鼓や時太鼓の流れがあったと思う。それがこのところ、地域おこしの太鼓集団とかまあそういったものも含め、小学校の和太鼓とか、何か変な感じになっていると思っていた。音は確か「和」なのだが、何を聞かせたいのかよく分からないというものが多くなってきたように思う。テクニックだけならそれはそれで面白いのだが、えらく窮屈に感じていたのだ。
それがよくわかった。和太鼓で音楽を作るのではなくパフォーマンスと変わっていたのだ。確かにものすごいテクニックだが、間がない。もちろんレイト・ショーでエドサリバン劇場というのはある。アメリカ人向けだからというのはあると思うが、えらく間が悪いのだ。その隙間に和というのはあるのかと思うのだが、多分パフォーマンスとして詰めて詰めていった結果なのだろうと思う。おまけに太棹の三味(あえて津軽三味線とは言わない)が、多分ロックのギタリストだったんだろうか、壮絶に違う音を出す。
ウ~ンと思った。徹底すればするほど何か別な方向に行ってしまうわけだ。
一発だけ、感じられる音があればいいのだが。緊張して間がずれた可能性はあるな。
とはいえ間というのは高等技能だったのだというのに、改めて気がついた。いやそうなってしまったのだよ。
泳ぎに行く。さすがに腰が重かった。西風の中太田橋を渡るというのは根性がいるものだ。サボり続けてもいいのだが、泳ぎたいという気持ちが勝った。だが全然タイムは出ない。わかっていたがトホホだ。
マンサクが咲いて居た。昨年とあまり変わらないような気がする。
日本人が知に対して拒否反応を示すのは、「人生万事塞翁が馬」を地で味わってしまったからなのではないのだろうか。この道教的な概念だが、仏教的でもある概念はえらく浸透しているように思える。どのような知を得ても、何があるのかは分からない。賢さが大切であり即応能力が重要だが、結果どうなるのかは分からない。今の知は過去になり、その過去は今にも未来にも役に立たない。
これは社会の重層性がもたらす欺瞞なのだが、そういっていないとどうしようもないほどに社会が難しくなっている。高度になればなるほど、運不運が出てしまう。だから合理的に考えてという人たちが成功している。だが、合理性を持った人が「人生万事塞翁が馬」タイプを使いこなせるかといえば、それはない。
トップエリート待望論というのはそういったことなのだ。それは意図して作れるものではない。
第二次世界大戦というのは、まだまだ続いているのだ。
ダイサギが居ます。
嫌嫌泳いだのですが、何か楽しんでしまいました。まあそんなものです。
とはいえ、大学ではなくとも知を涵養するインフラは日本にいっぱいある。図書館もそうだがネットもそうだ。だが直接人と話すチャンスを作れるのは、大学が一番楽だ。
ということで受験生、楽しいことへの試練だからな。これも楽しめ。