今日は都南のプールに泳ぎにゆく。暇だなと言われると思うが、何かしていないと一つのことしか考えられなくなるので、体を動かした方がまだマシなのだ。
二十三日の大雨の残骸が残る北上川。地球温暖化と異常気象ほど人を不安にさせるものはない。
世の中不安で満ち溢れている。ところが問題なのは何が不安にさせるのか決定的な要因が見つからないということだ。それが不安を生んでゆくという悪循環にあるのかもしれない。
例えばだ、小学校での写真撮影は許可制になっている。この最初の原因は宮崎事件である。ロリコン殺人事件で、カメラマンを装ったというのが大きかった。だがそれ以上に大きかったのはマスコミの取り上げ方だった。ここでカメラマンを装うロリコンがいるという図式が出て、許可制になったのはある意味正しかったのだが、この時の最大の問題は、子供の肖像権という概念だった。肖像権を子供は認識できない。だから親が管理するという形になる。学校生活では学校が管理するということになっている。
ここでは親バカが子供の写真に価値があるということに気がついて制限をかけたフシもある。だが写真に撮られる=ロリコンの毒牙にかかる、という不安はあった。そして不安に駆られる親たちは学校教育に全てを押し付けたフシがある。そしてロリコン報道は元校長の逮捕で、そもそもの話になってしまっている。
そして、安全管理のために子供に携帯を与えるようになると、かなり変なことになった。子供たちがそれを利用し始めるのだ。SNSから写真投稿から問題だらけになった。
いや外部の問題じゃないでしょう。許認可制は当たり前だと思う。以前がおかしかったのだ。だが今ある不安はもっと違うことだ。
外部の人間と接触することでのケミストリーをほんの少しでも恐れているのだ。
不安というのは取り除けない。一旦かかると病のように付きまとう。
先が見えないという不安はとても大きい。だがそれ以上に二つ社会になっているという状況が生み出す不安、それが大きい。二つ社会とは貧富の差の増大、ここには地元とよそ者という二つが存在している。よそ者の貧しいのはより一層貧しくなる可能性がある。
次が大企業の蔓延だ。便利だが分断化を固定することになってはいないか。
そしてなのだがネットなのだよ。世界が平等になった瞬間から始まる。
不平等があらわになったからだ。